エピローグ
あれから、二週間後。
「や、やめろ! やめてくれぇぇ!」
豚みたいな悲鳴が広場に木霊した。
轟々と松明が燃え、豚の姿が照らされる。
手枷をつけられた豚だった。逃げ出そうと暴れながら、広場の中心へ引きたてられていく。
正確に言えば、豚みたいな男だ。
肥え太った身体は、広場に集う民衆たちの細い体とは対照的だった。そして、顔色も対照的だ。豚は白い塵紙を張り付けたような顔色をしていたが、民衆たちは熱した棒のように顔を怒りで赤く茹っていた。
無理もない。
彼は、ビッフェル元国王。
自分たちから税を死ぬ寸前まで搾取し、世界中から愛される存在を掠め取って隠匿した張本人なのだ。
しかも、その存在を騙し、豚王たち周囲の一部の者たちだけで幸せを享受していたのである。世界中から敵意を向けられるのは当然だし、自国民ならなおのこと。
「この豚め! 俺たちを騙しやがって!」
「ふざけるな!」
民衆は豚に石を投げつける。
豚は悲鳴を上げながら、助けてくれる存在を目で探した。もちろん、そんな人がいるわけがない。いたとしたら、その人も処刑台に上がっているだろう。
私、聖女失格だな。
お父様だと信じてた人を眺めながら、慈悲の欠片もない心を自嘲する。
本当の聖女様なら、ここで救いの手を差し出している。その行為に生理的な嫌悪を感じる時点で、私は出来損ないの聖女なのだ。
貴賓席に座り、フードで顔を隠しながら偽お父様を見ていると、豚王の狂った瞳と合致してしまった。頭から顔を隠す黒いベールを被っているのに、嗅覚だけは人一倍である。
「せ、聖女! 私の娘よ! 助けてくれ!!」
縛られている鎖を強引に引き千切る勢いで、私の方へ身体を向けてくる。
「15年間、愛してやっただろう? 育てただろう?
いまなら、お前が頭を下げてくれるなら、元の生活……いや、それ以上に大事に扱ってやる!」
「……どうする? 助けてやるのか?」
ナナシが耳元で囁いてくる。
ありえない!
私は首を小さく横に振った。
側にいる者たちにしか分からぬほど、微かに拒否の意を示す。ナナシが意思を汲み取ると、近く座っていた上品な女性に目配せをした。
「馬鹿なことを」
質素な白いドレスに身を包んだ女性は、呆れ果てたように息を吐く。
顔立ちはもちろん、佇まいも上品で美しい。神の御前に供える一輪のノーチェの花みたいに、清い気高さを感じた。ごてごてとした装飾もなく、唯一の飾りは金の髪を飾る銀の王冠だった。
「聖女様はお亡くなりになりました。妄言も大概にしなさい」
女性はぱっと手を挙げる。
すると、豚王の周囲に円を描いていた兵士たちが槍を掲げた。
「や、やめろ! わ、わしは王だぞ!? 国王だぞ!? 助けろ、せいじっ、ぐあああああ」
最期の瞬間、私は目を瞑った。
世界を引き裂くような悲鳴が響き渡り、だんだんと唸るような声になり、消えていった。声が聞こえなくなってから、半分だけ目を開いてみる。豚の四肢はだらんと地に垂れ、五本の槍が豚の身体を貫いていた。
「亡き聖女様を誘拐した大悪人は、処刑された!
以後も王国の膿を一新し、清く正しく平和な国への道を歩み始める第一歩になるであろう! 私、リオン・アーシャ・ビッフェルが亡き聖女様に誓って約束する!」
女性が宣言すると、歓声の声が広場を震わした。
豚は槍に貫かれたまま、火をつけられる。民たちは焼けていく肉体に石を投げつけているが、処刑自体はこれで終了だ。
私はナナシに背を抱えられながら、この場から退出する。
「大丈夫か?」
気遣う声に、うんと頷いた。
この処刑を見たいと言ったのは、私の我儘だ。自分の運命を決めた人の末路と私自身が下した結論を見て見ぬふりはできない。
「聖女様」
処刑場の裏に造られた控室にいると、リオン女王が一人で入室して来た。
ここは防音の術式が張ってあるので、何を話しても周りに聞かれることはない。リオンは私の足元に跪くと、粛々と頭を下げた。
「身内の恥を……お見苦しいものをお見せしました。
あのような実父のせいで15年間もお辛い思いをさせてしまい、申し訳ありません」
私は首を横に振る。
ナナシから石板を受け取ると、さらさらと文字を連ねて行った。
(あなたも被害者です。お顔をお上げください)
それに、あの豚王には感謝している。
15年間の辛く先の見えない地下生活は思い出したくもないが、あの偽お父様のおかげで、ナナシと会うことができたのだ。そこだけは、評価している。
「心遣い、感謝します」
リオンは涙をこぼした。
彼女こそ、豚王の真の娘だ。
私を最初に拉致した神官が、聖女だと思い込み、手塩にかけて育てた養女である。
顔立ちや髪の色など、豚王たちと似ている点もあったが、性格や思想は雲泥の差だ。
彼女は田舎の神殿で慎ましい巫女生活を送っていたが、帝国の後ろ盾もあり、ビッフェルの真の女王として即位したのであった。
今後、リオン女王は帝国の意に沿った王国の再建をしていくらしい。
なお、私を強姦しようとした偽お兄様こと次期国王だった男は、一週間前に護送された。
豚王のように誘拐に対する直接の関与はなかったが、事態を黙って見過ごした罪は重い。身分剥奪は当然として、北方の大国で鎖につながれながら、森林伐採や鉱山の仕事に従事するそうだ。
偽お兄様が護送される瞬間も見たが、父親と似たような反応をしていた。
『いやだ、やめろ! 俺が、俺こそが次期国王だぞ!? 北の大地に行きたくない!』
男は小刻みに震え、顔が真っ青になっている。
『俺は王に騙されてただけなんだ! 聖女を見て見ぬふりをしないと、殺されるところだったんだ!』
『あなたが聖女様を喜んで強姦しようとした証言があります』
リオンが淡々と実兄を見下した。
『他にも余罪が上がっていますし、反省すれば出てこれますよ』
『ふざけるな! あそこは生きて帰った者がいない死の監獄だ! なあ、助けろよ! お前は、俺の実妹だろ!?』
『残念ですが、私は貴方を兄と思ったことは一度もありません』
リオンがぴしゃりと宣言する。
偽お兄様は絶望に満ちた目をしながら、転送陣へ押し込まれた。
偽お兄様は初日こそ暴言を吐き、抵抗していたようだが、三日も経つと、他の囚人たちのように黙々と働く姿が見られたらしい。
心を入れ替えたのか、諦めたのか、心が死んだのか。
私には、どうでも良いことだ。
「これにて、聖女様のお勤めが終わると」
(はい。私のするべきことは終わりました)
「分かりました。ですが、なにかありましたら、私を頼ってくださいませ」
(ありがとうございます)
私は文字を記すと、微笑を向けた。
公式見解では、私は死んだとなっている。
豚王に誘拐され、シーザーに救い出されたが、聖女の力を狙った大悪人の手に落ちたと。その後は、ブルータスはシーザーを殺害し、聖女を監禁していたが、赤龍騎士団によって悪事を暴かれると、聖女を道連れに転落死したことになっていた。
ブルータスが吼えた通り、声の出ない聖女には価値がない。
「聖女を救い出したが声を失い、祝福をすることができない」事実より、「聖女は救い出せず、死んでしまった」と偽り伝えることの方が、民衆や諸国に受け入れやすい。
むしろ、聖女の声を取り戻そうとした不穏な輩に拉致監禁されたり、妙な実験に巻き込まれて死んでしまう可能性もある。
他にも、豚王やブルータスの言うがままに祝福してきた結果、不利益を被った人たちから闇討ちされる危険もあった。皇帝は言葉を濁していたが、私の祝福のせいで、財産を失ったり、一家が離別したり、大事な跡取りが死んでしまったりと災難に見舞われた人が多かった。
私が抵抗できなかったと理解していても、感情が抑止できない人もいるだろう。
だから、公式には死んでいる。
私が生きていることを知る者は、レーマス帝国皇帝と宰相、第一神殿の長、ナナシにエドウィンとグレイシア、そして、リオンだけに留まっていた。本当は、リオンにも伝えない意向だったのだが、彼女も豚王に人生を狂わされた被害者だ。当人の性格も考慮した結果、私の正体を知っている。
(残りの者たちの処分は、これから決まるのですね)
「はい。幸いにも、聖女様の力を口外しないことを約束した書面リストが残っております。リストに名が掲載されていた者たちは、すべて捕らえました。
これまで甘い汁を吸ってきた分相応の罰を与えると約束します」
(それなら良いです)
それが当然の結末だ。
私は喉を擦りながら、その言葉を飲み込んだ。
偽お父様の処刑を見届け、私の仕事は完全に終わった。
リオンは夜の闇に紛れるように出ていく。
これで、私は2人ぼっち。
ナナシに行動を監視され、管理され、生きていく人生の幕開けだ。
「人の気配は……ないな。そろそろ出よう」
貴人用の服を脱ぎ、庶民用の旅装束に身を包む。
私は慣れない服を整えていると、ナナシが呼びかけてきた。
「手伝うか?」
いらない、と首を振る。
私は、急いで編みブーツの紐を締めた。紐を締める時、薬指に嵌った指輪が目に入る。
この指輪、特別製で「指輪を嵌めた者は、対象者を中心とした半径5メートルから離れることができない」術式が組まれているのだ。
勝手に離れたら身体が痺れ、警報音がナナシに行くらしい。
許可なく外すときも、同じことが起きるのだとか。
エドウィンが指輪を渡してくる際、苦い顔をしながら
『本当に良いのか? 行動が制限されるぞ?』
と、念を押してきたことを、今でも鮮明に思い出す。
でも、これで良い。
ナナシが傍にいると、心が温かくなるし、とても落ち着くのだ。むしろ、彼の負担になってないか? という方が不安である。
「さてと……まずは、支度金で旅をする。そのうち稼ぐ方法も考えないといけねぇが……ま、まだ先でいいだろ」
うんと頷いた。
歩き慣れない私を考慮してか、太陽が濃紺の空に顔を出した頃に出立する。
朝方の白んだ風が国王処刑の号外を転がしていた。時折、号外がナナシの足に纏わりついたが、特に気にする様子はなく、そのまま飛ばされて行った。
「処刑の終わりは、こんなもんだ」
豚の死骸が転がっている。
もう石を投げる人はいなかった。
異様なまでの怒りに燃え尽き、疲れたように座っている人がちらほら見える。彼らは、このあと……どのように生きてくのだろう?
「気にすることはねぇよ」
私の気持ちを読んだように、ナナシがぶっきらぼうに言った。
「あいつらには、あいつらの日常がある。
もっと太陽が昇れば、否が応でも日常に戻るさ。聖女の死も同じだ。最初は皆が嘆くだろうが、時がたつにつれて、普通の人たちの記憶から薄れていく。
そういうものだ」
最後の方は、他人事のように語っていた。
私が頷くのを見届けると、ナナシは手を繋いで歩き出した。大きな掌は少し骨ばっているのか凹凸があった。手のひらから心地の良いぬくもりが伝わってくる。私も離したくなくてぎゅっと握り返すと、彼も離さないとばかりに強く指を絡めてきた。
しばらく、ナナシは何も言わずに進んでいた。
時折、ちらちら横目で見上げてみると、ナナシの苦笑が映った。
たまに、何か言いたそうに唇を動かすが、耐えるように噛みしめるを繰り返している。
その口がようやく開いたのは、朝陽が完全に顔を出した頃だった。
王都は遥か後ろに遠ざかり、風が道脇の草に囁きかける音だけが響いている。太陽は私たちの向かう方から昇ってきているので、少しばかり眩しくて、俯き気味に歩いていた。
「そーいやさ」
ナナシが立ち止まり、身体を横に向けた。
私も立ち止まり、顔を上げる。ナナシの右側半分が太陽に照らされ、少しばかり白く輝いていた。
なに? と、私は首を傾げると、ナナシは咳ばらいをした。
「あんたの名前、まだ決めてなかったな」
なんでもないことのように言ったが、声は不自然なほどに上ずって引っ繰り返っていた。
本人もそのことに気付いたのか、苦虫を嚙み潰したような顔になる。後ろ頭に手を伸ばし、あまり整っていない赤銅色の髪がみるみる間に乱れていく。
「俺はナナシでいい。でもさ、あんたには必要だろ。俺が決めていいか?」
文句はない。
むしろ、宝石や豪華な装飾品を貰うより一千倍嬉しい。
文句なしに頷くと、ナナシの顔がにたりと意地悪そうに笑った。
「2つ案ある。1つ目は、メシマズ」
絶対に嫌!
ぱしっと握っていた手を離し、思いっきり顔をしかめてやる。ナナシは私の怒った顔が見たかったのか、ますます口元に笑みを深めた。
「んじゃ、もう1つの案でいいな?」
頷いてはやらない。
メシマズ以上の名が来たら、指輪を投げ捨ててやる。
ナナシはいつになく柔らかい声で、私の名前を愛おしそうに告げた。
「ファイ。あんたの名前は、ファイだ」
ファイ。
口の中で呟いてみる。
悪くない響きだが、私の知識にない言葉だ。最初に「メシマズ」を上げることで、本命の名前を強引につけたのだろうから、悪い意味ではないと信じたいが…………
「よし、このまま南に下る。ファイに、海を見せてやるよ。南の果物は美味いから楽しみにしてろ」
これ以上、ナナシは名の由来を話すつもりはないらしい。
私は大きく息を吐き、そして、
「どうして、ファイなの?」
疑問を投げかけてやる。
ほとんど一週間ぶりに声を出したので、ひどく掠れてしまっていた。
「……え?」
ナナシが絶句して目を見開いた。
どうみてもこれは、まったく予想してなかった、という顔である。メシマズとか馬鹿にされ、いい加減腹が立っていたので、驚愕の顔が見れて少し満足した。
「お、おい、声が戻って……!?」
「エドウィンさんが、こっそり術式を解いてくれました」
まだ違和感のある声に喉を擦りながら、ずっと伏せていた事実を答えた。
驚くことは想定の範囲だったし、初めて見る顔に嬉しさを覚えたのも事実だが、ちょっとだけ申し訳ない気持ちが首を上げてくる。
「もともと自分の作った術式札だから、なんとか解けたみたい」
「いつやったんだよ? 俺があんたから目を離したのは……」
「私じゃなくて、ナナシさんが湯浴みしてる時間」
ナナシが妙な想像をする前に、すぐに答えを口にする。
彼の視界から離れる時間は一日で10分もない。着替えの時に同じ部屋にいるのは今更だけど、裸を晒すことには抵抗がある。
湯浴みの時は指輪を嵌めることを条件に、浴場の外に出ていただいたが、
『まあ、おいおい慣れて行けばいいか』
という不穏な言葉を残していた。
将来的には、一緒に入ることもあるのだろうが、その時のことを考えると身体中の熱が沸騰し、ふらふらと気絶してしまいそうだ。
閑話休題。
「一度だけ、ありましたよね。
普段のナナシさんは湯浴みを2,3分で済まして出て来ちゃうから、エドウィンさんが強引に長湯させたときが」
「あー、そういや、あったな。
エドに『汗臭いから、あと10分間風呂に浸かって来い! 不潔な男と一緒にいて、この子が喜ぶと思うのか!』とか言われ、強引に押し込まれたことが……あのときか」
「はい」
「でも、どうして黙ってたんだよ?」
「それはね……」
ちょっと気まずくなって、人差し指で頬を軽く掻く。
「その、初めての声は、ナナシさんだけに聞いて欲しかったから」
聖女としての殻が死に、新たな自分として旅立った後、初めて声を伝える相手は絶対に彼と決めていたし、その他大勢の人に聞かせるつもりはなかった。
「このことを知っているのは、エドウィンさんだけです。
安心してください。聖女の最後の祝福として、このことを秘密にするように縛りましたから」
「だとしても…………まあ、いいか」
「それで、ファイの由来は?」
私は詰め寄った。
ナナシは「別にどうでもいいだろ?」と流すような顔をしていたが、私の重要な名前だ。
ナナシは黙っている。気を悪くしたわけでもなく、面倒くさそうにも見えない。本当に「言いたくない」との心の声が聞こえてきそうな困った顔をしている。
それでも、彼の顔を根気よく穴が空くほど凝視していると、ナナシは大きく肩を落とし、白旗を上げた。
「はじめは、ソラだなと思った」
「ソラ?」
「あんたの瞳だよ。空色の瞳。だが、あまりにも単純だろ?
んで、蒼玉って名前の宝石を思い出した。……まあ、そういうことだ」
最後の方の言葉は、そよ風に浚われそうなほど小さかった。
ナナシの耳の辺りが赤く染まっている。赤銅色の髪を更に乱しながら、目を合わそうとしない。
私は大きく頷くと、思いっきり明るい声で呼びかけた。
「ありがとう、ナナシさん! 私、気に入りました!
私はファイ! これから、末永くよろしくお願いします!」
「……よろしくな。あんたを離すつもりないから覚悟しとけよ」
ナナシは薄く笑った。どことなく子どもっぽく、はにかんだ笑顔は、反則的なまで胸に突き刺さった。私以外の誰にも見せたくないほど尊くて、独り占めにしたい。
そんな独占欲を噛みしめながら、傷だらけの愛らしい笑顔に微笑み返した。
「はい! ずっと、ずっと!
私、ナナシさんのことが世界中の誰よりも大好きですから!」
だから、私を永遠に傍においてください。
「良かった、俺もだ。
勝手にどっか連れて行かれないように、生涯かけて離すものか」
ナナシの言葉は、身体の芯を溶かすほど甘く沁み込む。
熱を帯びた鋼色の瞳に魅入られていると、彼の幸せが伝わってくる気がした。
朝焼けが眩しい。
真っ白な日差しが私たちを柔らかく包み込む。
15年間、聖女の監禁人生は、これで終わり。
ここからは、ちょっぴり変わった能力を持った娘、ファイの人生が幕を開ける。
新たな人生も監禁生活に近い。
でも、今回は薄ら寒い地下とか心臓が縮む塔の上ではなかった。
生きる希望しかないし、逃げようなんて馬鹿げた考えは毛頭ない。
だって、私を新しく囲う檻は、私が誰よりも恋した人なのだから。
これにて、おしまいです。
最後までお付き合いいただき、ありがとうございました。
またどこかで二人の旅路の続きを描けたらいいなーと思います。




