13話 あなたのことが…
「うっ……ッ!」
息が、苦しい。
身体が持ち上げられる。
爪先だけが橋につき、背筋が反るように伸びた。
「この野郎……ッ! その娘を離せ!」
ナナシの声が宙を貫いた。
ああ、よかった。
彼は話せるようになったのだ。危機的な状況なのに、強張った身体から力が抜けそうになった。想像よりも若い声で、叫び声なのに耳に馴染む。
「ほう。これの知り合いですか」
反対に、ブルータスの声は耳に粘りつくように不快な声だった。
「残念。それなら、貴方を殺さないといけない」
その言葉が耳に入った瞬間、私の身体が石化する。ブルータスは、私の変化を感じ取ったのだろう。口元が怪しげに笑うのが見えた。
「ですが、これは単なる巫女見習い。一部の者が聖女と持て囃しているだけ。
貴方もこれが巫女見習いと認めるのであれば、その命を助けてましょう」
「嘘つき!」
私は噛みつくように言葉を吐いていた。
「シーザー様は殺したくせに! 私に嘘つき続けたくせに!」
「あの老人は、貴方が聖女だと虚言を吐くから死んでいただいたまでのこと。それを伝えれば、貴方はショックを受けるでしょうから黙っていたまで」
ブルータスは、しれっと白状した。
やはり、シーザーは殺されていたのだ。仮説が確証に変わり、男への嫌悪感が増大する。肌が触れている部分が痒い。こうして接触しているだけで、気が変になりそうだ。
しかも、この神官はグレイシアも殺そうとしていた。
ここまであっさり人を死に追いやる人が、ナナシだけを見逃すはずがなかった。
私は喉の奥から声を絞り出した。
「逃げてください!」
ナナシがここに来たのは、私のせいだ。
たった半年前、偽お兄様に襲われたとき、私が零した「助けて」が、彼の行動を縛り続けている。そうでもないと、彼が私なんかのために助けに来るはずがない。
「もう、私を助けなくていいから!」
「名無し」なんて侮蔑の呼び方をされ、不味い頂点を極めた料理を強引に食べさせられ、無理やり読書やらなにやらに付き合わされ、身体中に傷を負いながら無理やり助けさせた相手を……………自分から助けに来てくれるはずがない。
「私が迷惑かけた分、幸せになって欲しいから!
だから、もう逃げて。すぐに、ここから逃げて!」
誰よりも幸せになって欲しい人が、再び自分のせいで命の危険に晒されている。
叫びながら、頭の片隅で「私は悪い子だな」と思った。
エドウィンと約束し、守ろうと決めた人に送り出されたのに……自分が生き残る道を模索するより、全く関係ない人の幸せを祈ってしまっている。
「なに言ってやがる!」
しかし、その言葉をかき消すように、ナナシが声を上げた。
「あんたが幸せにならないと意味ねぇだろ!」
鋼色の瞳は、一切の曇りがない。ちょっと前まで浮かんでいた悔しそうな色は、もはや微塵もなくなっていた。
「待ってろ。今度こそ助けてみせる」
ナナシが鋼色の瞳を鋭く細めた。
私までの距離を測り直している。彼は跳び越えるつもりなのだ。大人が七人手を繋いでも届かない距離を一跨ぎするつもりである。正気の沙汰ではない。
「やめて! 本当に死んじゃう!」
間違いなく、落ちて死ぬ。
今度は、顔に傷がつくレベルの話ではない。頭が割れて、ぱっかりと赤い花弁を散らす。自分の姿を思い浮かべるよりも、血が凍り、戦慄が身体を突き抜けた。
なにか、彼を助ける手段はないか? あなたのことが……誰よりも好きだから、絶対に死なせたくない。
恐怖で震える思考に足蹴りをし、考えを絞り出させる。
そして、一番単純で、何の取り柄もない私が唯一得意としていることを思い出した。むしろ、今まで思い出さなかったのが愚かしい。
自分の最大の失態を噛みしめると、かつてないほど勢いよく祝福を叫んだ。
「ナナシさん、いますぐ全速力で第五神殿から――—ッ!」
「おっとさせませんよ」
ところが、口に何かを詰め込まれた。
ブルータスが白い紙のような塊を押し込んできたのだ。
「ふむ、これは面白い。ぞくぞくしてきました」
ブルータスが愉快そうに口元を歪めている。
ナナシも嘘つき神官の意図が分からないのか、飛び出そうとした足を止めていた。私は必死になって、舌で紙を押し出そうとするが、うんともすんともいかない。
「おやおや、お忘れですか? この紙は、貴方が袖に隠し持っていた札ですよ?」
ブルータスが耳元に口を近づけてくる。
人生最悪の思い出がフラッシュバックするのと同時に、最後の一枚の札が右袖から消えていることに気付く。先ほど、私の注意がナナシに向いている隙をついて、奪われてしまったのだ。
「(どうするつもり!?)」
私は言葉を発しようとするが、詰め込まれた紙のせいで話せない。
ブルータスは私の抵抗を嘲笑うと、細い指で紙を更に奥へと押し込みながら、
「あなたの存在意義を奪ってあげましょう。
そう…………『この者の声を奪え』と」
「―—ッ!?」
耳元で囁かれる。
不味いと思ったときには遅かった。口の中で紙が溶け、ゆるりと喉を内側から縛られる。ブルータスは紙が消えるのを見届けると、私の首を絞めていた腕を解いた。
私の身体は支えを失う。
走りつかれた足は機能せず、ブルータスの足元に座り込んでしまった。
「けほっ、けほっ」
空気が喉を通り、軽く咳を込んだ。
恨み言を吐こうとして、言葉が出ないことに気付く。反射的に喉に手を当てた。いつもと変わらぬ喉なのに、深い所に痞えを感じる。見開かれた目が震え、初めての事態に心が空虚になった。
風が後ろから吹き付け、黒髪が前へ流れるように揺れる様を眺めることしかできない。
「ナナシ殿っ、何をしている!? あの子の下へ――ッ、これは!?」
対岸で声が上がった。
はっと顔を上げると、エドウィンが数名の騎士を連れて現れる。エドウィンの目はナナシから途切れた橋に向けられ、その先にいる私たちを視界に収めた。
「(エドウィンさん!)」
私は彼に向かって力いっぱい叫んだ。
けれど、声が出ない。やっぱり、豆を磨り潰すような掠れた音しか出なくなっている。再認識した異変に私の身体は石になった。
そんな私を見て、ナナシとエドウィンが破れそうなほど目を見張る。
「まさか、声が……!?」
「これはこれは、赤龍騎士団のエドウィン・カルダス様」
ブルータスは仰々しく笑った。
「見ての通り、この者は声が出ません。
聖女様であれば、声を通して祝福することができます。この娘に声はありません。
聖女の存在を隠匿? バカバカしい。これは言葉の出ない巫女見習いですよ」
「ふざけるな! お前が声を奪ったんだろ!」
ナナシの怒声が聞こえたが、風の音で薄れてしまう。
代わりに、ブルータスの甲高い得意満面の声が風に乗って良く響いていた。
「さあ、なんのことやら。
野犬が鳴いていますが、この娘に声がないのは事実。法的に訴えても構いませんが、私は第五神殿の代理神殿長。野犬や貴方程度の騎士の証言より、私の発言と『声のない娘』を証拠として提示すれば、勝利は揺るぎありません」
つまり、この男は保身に走ったのだ。
聖女が厄介者になった途端、いらないものとして処分し、自分の地位を守ろうとしている。汚い男だと罵りの言葉が込み上げてくる前に、私の心は地へと落とされた。
「それにですね……果たして、声のない娘が聖女として認められるでしょうか?」
「そ、それは……」
エドウィンの顔が引きつった。
ブルータスはエドウィンの顔を見ると、喜ぶように吼えた。その吼え声は、頭を鉄で殴りつける以上に、思考を停止させるほど鮮烈な一撃だった。
「声が出ない女は、真の聖女であっても価値がない!
ただの小娘を第一神殿や政府、そして、民が聖女として求めると思うか!? 認知すると思うのか!?」
「……ッ」
エドウィンが唇を噛みしめながら、わずかに顔を背ける。
それだけで、十分だった。
もう一人の顔を見たくなくて、私は目を落とした。
15年間。
私は聖女だった。
私の特技は、誰かを祝福することだけ。
偽お父様もナナシもシーザーもブルータスもエドウィンもグレイシアも……皆、私が聖女だから優しく接してくれたり、力の限り助けてくれたり、この力を利用したりしてきた。
裏を返せば、聖女でなければ興味も持たない存在でしかない。
みんな、私が聖女でなければ接してくれなかった。
走ることもままならない娘を……誰が欲しがるだろう?
誰が、求めてくれるだろう?
ひとつも取り柄もない小娘を、誰が好きになってくれるだろう?
ぽつぽつと心に黒い雨が降る。
元々灰色だった世界は黒い水で満たされ、私の身体を飲み込み始めた。抵抗しなければ、水没して心が死んでしまうと分かった。
でも、それでいい。
15年、もう十分に生きた。
息が詰まるほど寂しくて怖くて辛くて苦しかったけど、最期の一瞬に温かな灯火と出会えた。それで十分じゃないか。この先、誰からも必要とされないなら、ここで完結したい。
もう終わりにしよう。
心は緩やかに沈み、閉鎖していく。
このまま心が死ねば、楽になれる。
なにもない、空っぽの娘には……それがお似合いの結末だ。
手足が石のように凍えた。
心も黒い水に埋もれ、死んでいく。
さよなら、私。
これ以上、できることは何もない。
黒い水に心が溶けて、私の思考が無に染まる。最期まで残った砂粒ほどの心に別れを告げると、そっと瞼を閉じた。
「んなこと、知ったことか!」
耳に馴染む声がした。
完全に凍り付いていた心が一瞬で融解するほど、熱くて激しい声だ。
意識は急激に覚醒し、弾かれたように顔を上げる。
太陽が見えた。
さんさんと輝く太陽を背に、赤銅色の髪が揺れている。鋼色の瞳は私だけを見つめ、大きな手を伸ばしていた。
この隔たれた距離を躊躇いもなく蹴り飛ばし、私に向かって手を伸ばしてくる。
「(ナナシさん)!?」
私は立ち上がり、手を伸ばした。
疲労困憊の足が上げる悲鳴を無視し、千切れるほど手を伸ばす。だけど、その手が届くことはなく、ナナシの身体は沈んだ。奇跡的に右手が橋の端に引っ掛かり、重たそうな身体を支えている。
「(しっかり!)」
私は手を差し出した。
ナナシの宙を揺れる身体は、風が吹けば吹っ飛びそうだ。私だと支えにもならないけど、まだ宙に漂う彼の左腕をつかもうとする。
しかし、
「小娘! 邪魔だ、退け!」
ブルータスが私の身体を蹴り飛ばした。
私は横に転がり、ナナシの傍から離れる。
「この距離を飛ぼうとするとは、なんと愚かな男か。さっさと死ね」
ブルータスの足が、ナナシの右手を踏もうとする。
「(止めて!)」
私は手を伸ばした。
今度こそ、目的に届く。私はブルータスの足をつかむと、そのまま引きずり込む。案の定、ブルータスは足を引かれ、バランスを崩して横に倒れ込んだ。
その隙をついて、ナナシが這い上がる。
彼はブルータスを一瞥もしないで、まっすぐ私に駆け寄って来た。
「貴様……ッ、なぜ、その小娘に熱くなれる!? 利用価値が無い娘だぞ!?」
ブルータスがぶつけた頬を擦りながら、ゆらりと立ち上がった。
ナナシは鋼色の瞳を燃やしながら、ぎりっと男を睨み付けた。
「決まってるだろ!」
ナナシは私を背に隠しながら、ブルータスに向かって走り出した。
「この娘のことが、好きだからだ!!」
ナナシの拳がブルータスの頬を抉った。
ブルータスは避けることもできず、空へと放り出された。
「うぐぁ、待って、やめろおおぉぉぉぉぉ………」
ブルータスの身体は視界から失われ、みるみるまに声が遠のいて行く。
その様子を遠くの出来事のように眺めていると、ナナシが近づいてきた。
「悪い」
ナナシは私を力強く引き寄せ、ちっぽけな身体が固い腕の中に閉じ込められた。
「あんたのことが好きだ。
目障りな奴らを殺してまで手に入れたいと思ってしまうくらい、あんたが好きだ」
囁くような独白だった。
呆気に取られて聞いていると、意志の強い瞳に燃え盛る業火よりも熱の籠っていた。
「俺が一生、あんたを監視し管理してやる。あんたを悪用する……いや、利用しようとする奴らは、帝国の王だって殴り飛ばしてやる。
……だから、俺の隣に死ぬまでいろ。断ることは許さねぇし、他の奴が好きなら諦めな」
最後の言葉は掠れ、半分泣いているようだった。
残酷なまでに支配的で、幸せなくらい望んでいた言葉だ。
「(私も、あなたのことが好きです)」
聖女はその願いを受け取ると、胸板に頬を擦り付けた。彼の熱を肯定すると、背中に回った手に増々力が籠められる。
涙は出ない。
一生分の涙は使い果たした。
なので、私は微笑を浮かべる。
新しい鳥籠を見つけた、小鳥のように。
 




