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12話 逃げるの!


 扉を飛び出すと、すぐに階段が見えた。

 グレイシアと一緒に、螺旋階段を転げるように降りていく。


 階段を降りるのは得意だ。15年間、毎日、足元の見えない階段を降り続けていたのだ。

 しかし、初めて降りる階段は歩幅を保つのが難しく、後ろから追手が迫っていることを考えると、幾度となく踏み外しそうになる。

 

「こちらです!」


 グレイシアは階段を降り切ると、すぐ右の廊下に曲がった。

 人通りは少なく、私たちが走る音だけが廊下に木霊している。グレイシアは慣れた道なのだろう。たったったったと軽快なリズムを打つように走っていくのだが、私はもう息が上がっている。肩が激しく上下し、脇腹の辺りが痛い。


「ま、待って、グレイ、シアさん」

「せい――っ、お、お嬢様!」


 グレイシアは速度を緩めると、私の手を引いた。

 ぐいっと前に引っ張ってくれるので、幾分かマシになったが、足が悲鳴を上げている。

 思い起こせば、この15年間、1度も走ったことがないのだ。むしろ、よく走っていると、自分の足を褒めてあげたい。

 

「あと少しです、あと少し、頑張ってください」

「は、はい」


 掠れた平たい声で返事をする。

 走ることには憧れてたけど、こんなに息が苦しくなるなんて思ってもみなかった。心臓が破裂しそうだし、視界ががくがく揺れる。喉が渇き、奥へと張り付いていく。

 

 でも、走り続けないと終わる。

 追いつかれたら、私もグレイシアも終わりだ。


「ここです」


 グレイシアは素早く周囲に目を奔らせると、左側の壁に提げられた赤いタペストリーをめくった。

 そこには、人が一人通るのがやっとの暗い回廊が続いている。グレイシアは私を奥へ押し込むと、自身もその後に続いた。風の通り道なのか、涼しい風が顔に吹き付けてくる。


「そこで止まってください」


 背後のタペストリーが点になるくらい遠ざかった頃、ようやく一休みすることができた。


「は……い」


 疲れた。

 言葉が出ない。ぺたんと冷たい床に座り込んでしまう。狂ったように胸が上下し、空気を求めていた。


「これから説明します。どうか、心してお聞きください」


 グレイシアは急くような声で話し始めた。


「転送陣が北の搭にあります。

 第一神殿が連絡を取ってきている手前、転送陣を破壊すれば、余計な詮索を生むのは必定。破壊されることは、まずありえません」

「で、でも……」

「あの男も同じことを考えるでしょう。よって、抜け道を進みます。少々、危険な道もありますが、ついてきてくださいますか?」


 グレイシアが私の背を擦りながら顔を覗き込んでくる。

 頷いて返すと、彼女の顔が和らいだ。


「ご安心を。ここは、代々侍女頭にのみ伝わる通路です。私は引退した身ですが、今代は神殿長派。ブルータスには漏らしません」

「あ、ありがとうございます。……あ、そうだ」


 私は袖から残りの術式札を取り出した。


「これ、グレイシアさんに渡しておきます」


 2枚のうちの1枚を渡した。

 

「エドウィンさんに渡されました。緊急魔術式で、祈りを唱えると叶うそうです」

「……なるほど。あの光はこの札の力だったのですね。

 ですが、良いのですか? 聖女様が持っておられた方が……」

「まだありますし、いざとなれば、祝福の力がありますから」

 

 私は札を押し付ける。

 この札の威力は本物だ。

 そもそも、あの扉は私の出入りを禁じる術式が張られていた。グレイシアと逃げ出そうとしても、弾き返されていたはずなのだ。その式が消失していたのは、札に向かって「ここから逃がせ」と叫んだからだ。

 光で目を眩まし、式を破壊した。

 効果は絶大である。


 この先、どのような事態に直面するか不明瞭だし、1人1枚は持っていた方が安心だ。


「分かりました。では、前へ進みましょう」


 グレイシアが札をポケットに入れたことを確認すると、私は先へと歩き始めた。

 顔に当たる風は、進むほどに強くなる。

 出口が近いのだろうか? 壁に手を当てながら進んでいると、遠くに点が見えた。近づくと青い四角の絵がかかっている。もっと近づけば、それが絵ではなく、枠のない窓ということが分かった。もっともっと接近すれば、窓ではなく私より一回り大きい出口だと認識できた。


 認識、できたのだが……

 

「ひぃっ!?」


 その先に待っていた光景を見て、悲鳴を上げてしまう。

 断崖絶壁だった。

 閉じ込められていた塔ほどではないが、地上を歩く人々が点に見える。壁に沿うように道があるが、踏み外せば落下は必至で、まず助からない。


「右側の道を進んでください。突き当りに、ここと同じ回廊があります。そこに入ります」

「で、でも……」


 足が動かない。

 断崖絶壁の通路に吸い付いたように、動いてくれない。


「聖女様!」

「す、進みます。私、進めます!」


 唾と一緒に足元から震えあがる恐怖を飲み込む。

 ここで、止まるわけにはいかない。壁に身体をくっつけて、そろりそろりと進み始めた。風が容赦なく身体に叩きつけられ、長い髪とスカートが膨れ上がる。「風が気持ちいい」とか「スカートを抑えなちゃ」とか思う余裕はなく、目尻に涙を浮かべる。


 そして、やっとの思いで回廊に辿り着くや否や飛び込んだ。

 依然として、風は強く吹いている。

 それでも、左右が壁に囲まれた安全な空間だ。冷え切っていた体に体温が戻ってくる。


 怖い。

 逃げるって、こんなに怖かったんだ。

 ナナシと逃げていたとき、まったく感じなかった。彼に抱えられ、自分の足で立っていなかったから? 逃げてるという実感がなかったから?

 ぐるぐると疑念を巡らせながら、暗い回廊を進んでいくと、壁に突き当たった。


「そこを左に進んでください。右で壁を触りながら」

「はい!」


 グレイシアの言葉の通り、右手で冷たい壁を感じながら歩を進める。


 そういえば、もう1つだけ不思議なことがあった。

 グレイシアの微笑を見たとき、ナナシに感じたほどの尊さを感じなかった。

 エドウィンの笑顔も同じで、彼に至っては私を助けてくれそうな雰囲気があったのに、泣き出したくなるほどの感情が沸き上がってこなかった。


 空を飛べる時点で、ナナシより強そうなのに。

 物語の白馬の王子様みたいなのに、彼に助けを求めることができなかった。

 こんな状況で、エドウィンが近くまで来てる可能性が高いというのに、「助けて」と叫びたい人は……

 

「変だな、私」


 あの人は、ここにいない。

 二度と会うことはない。

 彼の幸せが、私の幸せだ。ブルータスたちの悪事を陽の下に出し、ナナシの近況を知ることができれば、閉じ込められ、力を搾取されて良いのだ。

 どうして、大事な彼を危険に飛び込みさせることを想像してしまうのか。

 

 私は、欲張りで意地悪な女である。


「聖女様?」

「なんでもありません」


 進んでいくと、やはりというべきか。

 再び青い空が見え始め、似たような崖の登場にげんなりする。

 二度目の崖は、一度目ほど怖くない。

 心が麻痺してしまったのだろうか? と、薄い幕を隔てた向こう側で思っていると、隣の搭から喧騒が風に乗って聞こえてきた。 

 ちらりと視線を向けると、塔の窓の奥で何者かの戦っている姿が見えた。

 黒い制服を着た一団が、白い神官たちと戦っている。


「聖女様、予定を変更しましょう」


 グレイシアが喜色に満ちた声で提案して来た。


「西の搭に行きます。赤龍騎士団が制圧する姿が見えました。あそこまで行けば安心です」

「分かりました」


 エドウィンが赤龍騎士団に所属している。

 ブルータスの敵だ。あそこまでいけば、転送陣に行かずとも助かることができる。また回廊に転がり込む。今度は高さが狭く、這うように進むしかなかった。

 今度の道は灯りがない。

 どんなに進んでも闇に眼が慣れず、そのくせ、後ろから何かが迫ってくる気配だけは敏感に感じる。もちろん、グレイシアだと分かり切っているが、息が詰まりそうだ。


「あ……」


 前方に、上から光が差し込む場所がある。

 

「そのままお進みください。私が様子を見てまいります」

「私の方が前だから……」

「聖女様より、私の方が神殿を歩き慣れてますのでご安心を」


 グレイシアはそう言うと、慎重に灯りの中へ進み、軽々と跳びはねた。足がゆっくり上へと消えていき、なにかを開けるような軋む音が聞こえる。


 ここで敵が待ち構えていたら、おしまいだ。


 逃げ道はなく、この狭い場所では、抵抗する間もなく捕まってしまう。息を飲んで、グレイシアを待つ。そして、グレイシアは、


「大丈夫です。聖女様、こちらへ」


 と、少しだけ安心したような微笑を浮かべ、こちらに手を差し出してきた。

 その表情に肩の荷を下ろすと、彼女の手を取った。ぐぃっと思いっきり持ち上げられ、どこかの狭い扉から身体が外に抜き出される。


 誰もいない通路だったが、狭い空間や崖っぷちではなく、身体が思いっきり伸ばせる。身体節々が痛く、もう横になって眠りたいと訴えているが、きっぱりと無視した。


「もう少しです。この先の橋を渡れば、西の搭へ着きます」

「見つけたぞ!!」


 グレイシアの後に続き、足を前に出した時だった。

 背後から貫くような怒声が聞こえてきたのだ。振り返ると、白い騎士の群れが私たちを睨んでいる。


「グレイシアと黒髪の少女だ! すぐに捕らえろ!」

「「おーッ!」」


 騎士たちが床を鳴らしながら、目にも止まらぬ速さで接近してくる。

 みるみる間に距離が縮まり、このままでは、私の悲鳴を叫ぶ足はもちろん、グレイシアも追いつかれてしまう。


「聖女様! 前へ走りなさい!」


 グレイシアは反転すると、私の後ろへ駆けだしたのだ。


「グレイシアさん!?」


 私が後ろを振り向くと、グレイシアの左腕が騎士たちに捕らえられる瞬間だった。騎士たちは、そのまま私に向かって右腕を伸ばしてくる。

 しかし、その大きな掌が私に届くことはなかった。

 グレイシアが彼らの右手を払い、自身の手に握りしめた札を発動させたからだ。


「壁よ、出現せよ!」

 

 グレイシアが叫ぶと同時に、床から灰色の壁が突き出した。


「先へ進みなさい! このことを、騎士団へ!」


 問いかけに返答する間もなく、壁は私たちを分断した。

 壁の向こうの音は聞こえない。

 グレイシアの生死は愚か、騎士たちの動向すら伝わってこなかった。


「……行かなきゃ」


 私は目を擦ると、壁に背を向けて走り出す。

 これで、私は一人きり。

 1人は慣れてる。孤独は身に滲みてる。泣くことも忘れ、部屋の隅で震えながら孤独を噛みしめるのだ。


 けれど、今回は違う。

 孤独とは別の感情が身体を震わせていた。


「私が、走らなくちゃ」


 グレイシアを守らないといけないと誓ったのに、逆に守られてしまってる。

 その悔しさが恐怖を打ち勝ち、揺らつく足に鞭を打っていた。

 一秒でも早く西の搭に渡り、赤龍騎士団に事の次第を伝える。グレイシアを助けてもらい、ブルータスやビッフェル王国の者たちを裁き、ナナシの近況を聞くのだ。


「出口だ!」


 扉を開け放った途端、風が顔に強く吹き付ける。

 私は右腕で顔を覆いながら、その先の光景を見て言葉を失った。


 橋はあった。

 空中に浮かぶ白い橋だ。

 芸術的なまでの美しい橋は、絵画のように魅力的だった。

 落下しないように重厚な手すりがあり、天の使いや植物を象った装飾が所狭しと刻まれている。だから、両脇には落ちない。


 問題は前だ。


 二十歩先で橋が途切れている。

 橋の向こう側との間に、ぽっかりと空間が生じていた。おそるおそる、その断面まで近寄ってみる。橋の凹凸の激しい切断面からは小さな石が砂のように崩れ落ち、風に攫われ飛ばされていく。


「嘘でしょ?」


 私の声まで、風に浚われて消えていく。

 飛び越せばいい。

 たかが穴だ。グレイシアの気持ちを無下にはできない。そう思っているのに、足が踏み出せない。そもそも、この距離を跳び越えることができるのだろうか?

 

 対岸の橋まで、七人手を繋いだとしても届かない。


 初めての疾走に悲鳴を上げている足が、助走をつけて踏み込んだとしても、その向こう側へ跳び越えることができるのだろうか?


 もし、跳び越えることができなければ……


 私の脳裏に、先日の水差しが過った。

 あっけなく両手足が宙を掻き、落下する。途中で捕まるところもなく、助けも来ない。ちっぽけな身体は地面に容赦なく叩きつけられ、赤い華を咲かす。その姿を幻視し、一歩、後ろに退いてしまった。


「わ、私……」


 ぎゅっと目を瞑る。

 けれど、これ以上は退けない。退くことは許されない。血が滲むくらい拳を握りしめると、目を見開いた。

 さて、これから一世一代の大跳躍。

 成功すれば命を繋ぎ、失敗すれば全部が終わる。

 大丈夫。まだ札もある。いざとなったら、札に全力で頼ればいいのだ。


「行くぞ……私だって、やってやる!」


 後ろ二十数歩退き、右足で橋を慣らすように滑らせる。

 

 橋の向こう側を見据え、そして――、その先に現れた男に気付いた。

 赤龍騎士団の者ならいいが、ブルータス側だとしたら絶体絶命だ、と気持ちが半歩退きそうになったとき、鋼色の瞳と目が合った。


「え……?」


 一思いに跳び越えようとか、グレイシアさんの意思を無駄にしないとか、前に敵がいても止まるんじゃないとか、とっても大事なことが吹きつける風と一緒に消えていく。

 相手も同じようで、ぽかんと口を開き、夢でも見るかのような眼差しをしていた。

 記憶にあるより傷だらけの顔で、少しだけ伸びた赤銅色の髪を風に揺らして、血飛沫が付着した粗末な服を纏っている。


「……ナナシさん?」


 助けて欲しいと願った相手が、目の前にいる。

 世界で一番大好きで、自分の身より百倍大切で、誰よりも幸せになって欲しい人が、切断された橋の向こう側に佇んでいる。


 ナナシは私に向かって叫ぼうとして、口を閉ざす。

 橋の向こうに現れた瞬間は、鋼色の瞳の奥に激しい光を燃やしていたのに、いまは悔しそうな色だけが滲んでいた。


 さすがの彼でも、この距離を跳び越すには躊躇いがあるのだろう。

 それでも、彼は数歩退き、駆け出すように息を整え始める。その姿を目にした途端、身体に氷水を被せられたような感情が胸いっぱいに広がった。


「来ないで!!」


 私の叫びは、彼の耳に届いたのだろう。

 彼の動きが止まった。


「絶対に来ないで! 私、あなたに死んでほしくない!」

「その通り。来てはいけませんよ」


 薄い刃物で背中の上皮を這わすような戦慄が奔った。

 振り返らなくても分かる。

 逃げ出したくても、逃げ出す場所がない。


「あなたも死にますし、この娘も死にますから」



 ブルータスの長い腕が、私の首に蛇のように絡まった。





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