9話 矛盾してるの
それから、半年ほど経過した。
私の日常は、あまり変わっていない。
「聖女様、本日の祈願者リストです」
朝食を終えて一息つく頃、ブルータスが羊皮紙を持ってくる。
私はそれらにざっと目を通すと、小さく息を吐いた。
「これを叶えるのですね?」
「はい。本日未明、第一神殿から送られてきました。どうぞ、ご祝福を」
ブルータスは首を垂れた。
私はもう一度、リストに目を通す。
「『ラダム国の飢餓の民が救われますように』は分かります。
ですが、こちらの『第一王子ではなく、第二王子が王位を継ぎますように』は、いかがなものでしょう?」
私は羊皮紙から目を上げて尋ねると、ブルータスは申し訳なさそうに首を横に振った。
「あの国の第一王子は、民を蔑ろにする悪王になります。うつけ者ですので、品行方正な第二王子が王位を継ぐことを誰もが望んでおるのです。
それに、これらはすべて、神殿が容認した願いでございます」
「……本当に叶えていい願いなのでしょうか?」
「聖女様が、どうしても嫌だとおっしゃられるのであれば、仕方ありませんが……」
ブルータスは柔らかな声色で言葉を紡いだ。
私は感情を仮面の奥に封じ込めると、大仰に頷いて返した。瞬間、ブルータスの顔が華やぎ、密やかな笑いを浮かべるのを見た。
「では、聖女様。まずは、こちらの願いから……」
私はブルータスの言うがままに祝福を唱えた。
あの笑顔は嫌な感じがする。
お父様ほど露骨ではないが、人を騙そうとする気配を感じる。物語において、神を誑かそうとしようとした男のようだ。
だいたい、祝福の大多数がビッフェルに捕らわれていた際の願いと酷似している。
時折、飢餓の救済や氾濫被害の軽減など、まっとうな願いが混ざっているのは「聖女様を敬っておりますよー」「力を善き方向へ使ってますよー」とのアピールなのか?
「聖女様はお優しい御方ですね」
私が祈っていると、ブルータスは口元を歪めるように笑った。
「では、あと3つの祈りをお聞き届けくださいませ」
疲労の波が私を潰すくらい絶え間なく押し寄せ、肩で息していることを見ているのに、笑いながら急かしてくる。
もはや、私を便利な道具か何かのようにしか思っていない証拠だ。
「シーザー様は、今日も職務でお忙しいのでしょうか?」
すべての祝福が終えた後、ほとんどお決まりのような言葉をかけてみる。
「シーザー様は神殿長。なにかとお忙しい方ですし、ご高齢です。ここまで登ってくるのも骨折りですから、お会いすることはできません」
「私が会いに行くことは駄目なのですね」
「聖女様は一度、浚われた経験があります。このように、安全な場所でお過ごしになってもらいたいのです。
どうしても、というのでありますなら、下の階に部屋を用意しますが……」
「……それは大変ですので、ここに留まります」
「下の階」という名の地下に閉じ込められたら、二度と本当に陽の目を見ることなく生涯を終えそうだ。実際、この男なら地下に閉じ込めかねない。
祈りを祝福したくないと駄々をこねたいところだが、ブルータスのことだ。私を地下に閉じ込めたり、鎖につないで、無理やり祈りを叶えさせることだってありえる。
偽お父様よりずっとずっと賢そうな分、行動は慎重にするべきだと思う。
一歩でも行動を間違えたら、さらに状況が悪化するのは世間知らずの自分でもよく分かった。
だから、私はいつものようにおとなしく引き下がる。
「では、聖女様。また、明日」
ブルータスは退出した。
「……聖女様、お菓子の用意をさせていただきます」
緑髪の女性が仏頂面で言ってくるので、私は頷き返した。
焦げ茶色の髪の女性が、てきぱきと紅茶の用意を始める。
私は、二人の名前を知らない。
彼女たちを無理やり、助けさせることは不可能だ。
ブルータス本人に「私を助けろ」とか「私を逃がせ」とか祝福しても良かったが、それは弾き返されてしまうので意味がなかった。
以前、テストとして、善意を装い尋ねてみたことがあった。
『ブルータス様の願いはありませんか? いつもお世話になっておりますし……』
ところが、彼の反応は予想と違った。
『私にはもったいないこと』
と、やんわり拒否されたのである。
仕方ないので、別の手段に出ることにした。
『では、私から……ブルータス・クロックフォード様が誠実な人生を送ることができますように』
しかし、これも不発に終わる。
彼の身体は薄紫色に輝かず、祝福した時に感じる疲れもまったくもってなかったのだ。
『お恥ずかしながら、私の本名は違うのですよ。
これは、家の事情でして、さすがに聖女様にも教えることはできません』
ブルータスの微笑は、私の努力を嘲笑っているように見えた。
こうなると、自分を助けてくれそうな人は、二人しかない。
一人は、シーザーだ。
私を気遣い、聖女としての知識を授けてくれた。演技かもしれないが、ブルータスやあの国王たち、これまで祝福をしてきた数多の大人とは、まったく方向性の違う老人である。
彼なら信用できる……が、初日以来、一度も会えていない。
一度、こっそり『シーザーが聖女に会いに来てくれますように』と祈ったことがある。けれど、そのときは祝福特有の疲労感は皆無だった。
ブルータス同様、あれは偽名だったのか。それとも、祝福相手がいなくなってしまったのか。
真相は定かではないが、あの老人に助けを頼むことは難しそうだ。
そうなると、必然的に残るのは一人……ナナシだけだ。
私は毎日、彼が健康であるようにと祈り続けているが、シーザーとは異なり、馴染みの疲労感はあった。
どのような形で、どのような生活を送っているのか知らないが、とりあえず、私の祝福は届き、生きていることは間違いない。
根拠はないが、彼に頼めば助けに来てくれる確信があった。
だがしかし……もう、ナナシを巻き込みたくなかった。
鎖を引き千切り、偽お父様の誘惑も一蹴し、いかにも強そうな騎士たちに立ち向かってくれた。最後の後ろ姿は、今でも瞼の裏に焼き付いている。
何度も思うが、絶対に無傷ではすまない。
最悪、偽お父様たちに捕らわれてしまったかもしれない。
自分を犠牲にしてまで送り出してくれたのに、その先で再び籠に閉じ込められていると知れば……どのような気持ちになるだろう?
私としては、彼の傷を増やしたくない。
ただでさえ、舌を失い、顔はもちろん、身体中全身に傷を作っていた。見間違いでなければ、私を助けてくれた際、手元が血で滲んでいた。あれは、私のせいで出来た怪我だ。
これ以上、「私のために傷ついてくれ」とは、頼めない。
頼みたくない。
彼には、一番大好きな人には、苦しんで欲しくない。私のことなんて忘れて、幸せになって欲しい。
……いや、忘れて欲しくない。
彼の記憶に私がいて欲しいのに、私のことなんて忘れて欲しい。
ナナシが幸せになるためなら、私は独りぼっちでも良い。だけど、独りぼっちになりたくなくて、ナナシと会いたい。
両極端の感情がせめぎ合い、胸の内で常に戦っている。
太陽と月の光を浴びることができて、風を感じ、美味しい食事を享受し、家事をしなくてよい。
とても恵まれた環境なのに、地下で暮らしていた時、いや、それ以上に色彩がない。あの一か月にも満たない地下生活だけが、鮮烈な輝きを帯びている。
このことを何と表現すれば良いのか、知りたいのに、尋ねることができる人も教えてくれる人はいない。
一人で物思いに耽っている間に、部屋が蜜色に染まり、やがて、藍色に沈んでいく。
「おやすみなさいませ、聖女様」
こうして、今日も一日が終わる。
「今日もありがとうございます」
私が礼をしても、いつも侍女たちは答えない。
仏頂面のままだ。緑髪の方が動揺したのは最初だけで、焦げ茶色の髪の方は、最初からずっと表情が変わらない。
一緒にいれば、ナナシの時みたいに機微が分かるかと観察したが、完璧に感情が隠されていた。
彼女たちが出ていく姿を眺めながら、ああ……また、一日が終わってしまったと他人事のように思う。
なにをしたのかは覚えている。
自分の身体が動いているし、食事を含む日常生活を送ったことは覚えている。
だけど、それらすべては壁一枚挟んだ向こうの世界のようで、私は一人、答えのない出口に迷い込んだような世界に放り込まれていた。
これから、どうすればいい?
ベッドをするすると降り、そっと窓を開けた。
夜の風は肌寒く、分厚い雲が夜空を覆い、月明りは鈍く地表を照らしていた。
それでも、私がいる場所の高さだけは、どうしようもないほど現実を突きつけてきた。
塔に閉じ込められた女の子が、長い長い髪を地表に降ろして、それを伝って出入りする物語を読んだことがある。私が真似しようものなら、ここから出るのに何百年髪を伸ばし続ければよいのだろう?
苦笑いしてしまうほど、外に出るのは不可能だった。
窓の外に飛び出したとき、待ち受けているのは、俯瞰からの墜落か。いや、俯瞰する心の余裕はないはずだ。
「それに、ここから飛び降りて死んだら……申し訳ないもの」
ネグリジェの胸元を、ぎゅっと握る。
あのまま地下にいたら、心が死んでいた。
心が救われたというのに、自分から死ぬような真似だけはしたくない。
かといって、脱出する手立ては思いつかなかった。
窓からの脱出は、死一直線。
扉からの脱出は……きっと、難しい。そちらの方が光明が見えるが、まずは外に控えている侍女たちを抜けないといけないし、偽お父様の時みたいに、塔の出口には騎士が警備しているはずだ。
私はナナシのような力がない。
ろくに外を歩いたことのない足では、鍛え抜かれた騎士たちを撒くことができるとは到底思えなかった。
「……ナナシさん、私を……っ!」
言葉が口から零れかけたので、急いで唇を噛みしめる。
彼に頼るのは駄目。
絶対に駄目。これ以上、傷つけるのは絶対に駄目。
あの人には、笑って欲しい。
ちょっとしか口の端を持ち上げていないのに、太陽の日差しより暖かくて、吸い寄せ惹かれてしまう微笑を浮かべて欲しい。
だから……私は、これ以上、彼と関わってはいけない。
せめて、一日に一度、その健康を祈っているが、それも彼にとって呪いとなり、重荷になっているのかもしれなかった。
「私は……どうしたらいいの」
窓の桟に顔を埋める。
視界が暗くなる。
当然、その問いかけに応えてくれる人などいない。
いない、はずだった。
「えっと、ごめん。それは、君の事情を聴かないと分からないな」
戸惑うような声が聞こえた。
ついに幻聴が聞こえたか!? と思い、顔を跳ね上げる。そして、眼を見開いてしまった。
夜空に、人が浮いている。
目をこすり、もう一度、見てみる。
やっぱり、夜空に、人が浮いている。
ほっそりとした男だった。
薄緑色の髪をゆるく後ろで纏めた男が、ふんわりと浮かんでいる。
私が言葉を失っていると、男は困ったように笑った。
「申し訳ないけど、僕は人を探しているんだ。協力してくれないか?」




