03 がっちり!
部屋の扉に背中を預け、そのままずるずると座り込む。何処をどうやって、いつ、自分の部屋に帰ってきたのか分からない。それだけ夢中だった。
未だに体が震えている。左手を見れば拳を握ったままだった。硬くなって開かない。まるで自分の体じゃないみたいだ。
右手で左の指を一本一本開けていく。
興奮が冷めない。
初めて喧嘩という喧嘩をした。初めて人を殴った。拳が痛い。
ああ、駄目だ。人を殴るのは駄目だ。そうだよな。
人を殴るのは良くないと思う。ああ、良くないな。自分の拳が痛くなる。鍛えていない今の自分の体で体重を乗せた一撃は負担も大きい。骨折していてもおかしくなかった。
運が良かった。
ああ、殴るのは良くないな。
前世の記憶だけで強くなったつもりに――何でも出来るつもりになっていた。あの当時の、前世の動きが出来ると思っていた。これは反省点だ。
でも、だ。でも、だぜ? 俺は勝った。
そうだ。俺は喧嘩に勝った。
一方的に殴ったり蹴られたりのいじめじゃない。対等な喧嘩で勝った。
俺は勝ったんだ。
あの残った二人の驚いた顔を見たか。爽快だ。気分爽快だ。
復讐は何も生まないなんてしたり顔で言っているヤツも居るけどさ、気分爽快だよ。ざまぁみろ、だ。
まぁ、俺は弱い者いじめは好きじゃないからな。それにヤツらと同じになんてなりたくない。だから、これくらいで勘弁してやるぜ。
ふふ、ふふふ。
笑みがこぼれる。
前世の自分はこんな性格だっただろうか、と、一瞬、考えてしまう。それも仕方ない、か。前世の記憶はあるが、僕は僕だ。俺は俺だ。体を乗っ取られた訳でも、別人になった訳でもない。
これは仕方ない。
だから、俺は、俺として、僕として、割り切って行こう。やれることをやろう。
次の日から俺はバイトを始めた。何をするにしてもお金は必要になるからだ。
始めたのは新聞紙に折り込みチラシを挟むバイトだ。このバイトを選んだ理由は、親の許可が無くても大丈夫だったことと家族が寝静まっている真夜中に行う作業だったからだ。
俺みたいな子どもがバイトをするのは難しい。太ってどんくさそうで、しかも子どもだからな。まず、まともなところは雇ってくれないだろう。だから、どうしても限られてしまう。
俺の前世では、子どもでも、もっと自由に働けたような気もするが、二十年も経っていると随分と勝手が違うようだ。前世と今は違う。
だが、その前世の記憶を活かして、俺はバイトを始めることが出来た。
このバイト先は、碌でもないおっさんがやっている。奴隷のように働くなら身元を問わない悪徳商人みたいなおっさんがやっている店だ。
身元の怪しい俺でも働けたのは良かった。だが、その分、給料が安い。身元を問わない分、足元を見てやがる。一日、二時間ほど働いて千円ほどのお金を手渡しで受け取る。
……贅沢は言えない。
俺は手に入れたお金で、まず、靴を買った。いつまでもサンダルじゃあ格好がつかないからな。
買った場所は深夜でもやっているような総合スーパーだ。スーパーで売っているような靴だ。ろくな靴じゃない。安物だ。だが、今はこれで充分だ。
最初の一ヶ月ほどはチラシを折り込む作業だけを行った。慣れてきてからは新聞配達も行う。
自転車を使わず、走って配る。俺の体重だ。自転車が曲がってしまうかもしれないからな。だから、走る。
働いてお金を貰いながら、体を鍛えることも出来る。一石二鳥だ。給料は安いけどな。
最初は区画を少なくして貰ったのにも関わらず時間がかかった。その分、給料から引かれる。最悪だ。
自宅に戻った時、両親と出会ってしまったこともあった。だが、彼らは何も言わなかった。俺が深夜に出歩いていることも気付いているようだが、何も言わない。
長く引き籠もっていたからな、俺のことを諦めているのだろう。仕方ない。
新聞配達のバイトを続ける。徐々に配る区画が増えていく。それだけ動けるようになったってことだ。最初は歩くことも大変だったのに大きな進歩だ。
俺は焦らない。
体を鍛えたく――筋肉をつけたくなるが我慢する。まずは柔軟だ。ゆっくりと体重を落としていくことが大切だ。
そう、ゆっくりだ。ゆっくりが、大事だ。
焦って体重を落とすと太って伸びきった皮が戻らなくなる。皮が余るんだよ。まぁ、もちろん、これから背も伸びてくるだろうし、ある程度はカバー出来るかもしれない。だが、いくら成長期だと言っても限界があるはずだ。
だから、俺は焦らずゆっくりと体重を落とす。柔軟と走り込みだけで我慢する。
まずは自由に――思い通りに動けるようになることからだ。
これからいくらでも鍛えることが出来る幼い体。喧嘩に明け暮れ、歪に育ってしまった前世の俺とは違い、その時の知識を使って、理想の形で鍛えることが出来る。
理想の自分になることが出来る。
だから、焦らない。
俺は生まれ変わる。
冬が終わり、春が近づき始めた頃、俺は両親に高校に行きたいことを伝えた。こればっかりは俺一人で出来ることじゃないからな。
二人は俺の言葉に驚いていた。驚いていたのは今の俺の姿か、それとも高校に行きたいと言ったことか。
今から行けるような、まともな高校はない?
ああ、分かってるさ。そんなことくらいは分かっている。
だが、あるはずだ。
二十年前の俺が、前世の俺が――底辺だった俺が通っていた高校。
湖桜高校。ここいらでは有名な悪ガキどもの魔窟だ。
俺の母校。死んでからの二十年を足せば三十数年近く前に通っていたことになるのか。湖桜は――クラウンは、あの頃と変わらずあるはずだ。
ネットで調べている。
今でも不祥事と問題が山積みの最低で最高な高校だ。
俺は高校に行く。
理由?
そりゃあ、もちろん青春を楽しむためだ。前世の記憶があるからな、分かるさ。分かるぜ。このときしか楽しめないことがあるってことがさ。
だから、行くのさ。