02 やったぜ!
皆が寝静まるのを待ってから動き出す。
……。
扉の外に気配はない。音を立てないようにゆっくりと自室の扉を開けていく。ご飯とトイレの時以外では久しぶりの廊下だ。
音を立てないように忍び足だ。自分の体の重さで少しぎぃぎぃと床板が鳴ってしまうが、これは仕方ない。
玄関へ向かう。
玄関には靴が並んでいる。だが、そこに自分の靴はない。
靴箱の奥から、無くなっていた自分の靴を引っ張り出し、足を突っ込む。
……キツい。引き籠もっている間に足が大きくなって入らなくなっている。仕方なくサンダルを履く。
そして、玄関扉の前に立つ。
ゆっくりと鍵を回し、扉に手をかける。
この扉の向こうは――外だ。正直、怖い。外に出た瞬間、知っている顔に出会うかもしれない。なるべく人に会わないよう真夜中になってから動いている。それでも可能性はゼロじゃない。
怖い。知り合いにあって何を言われるか分からない。それがどんな言葉でも、罵倒でも、同情でも――いや、気付かれず無視されたとしても、その、どの対応でも自分の心は痛みを覚えるだろう。
……。
何を弱気になっている。俺はこんなに弱いヤツだったか? 笑わせる。
玄関扉を開ける。
外の風がひんやりとした空気を室内へ運んでくる。もう春は終わりそうなのに、随分と寒い。太っているヤツは脂肪がある分、寒さに強いって話があるけどさ、それは嘘だ。太っている方が寒いんだよ。
寒さに震え、腕を交差して体をこすろうとしたところで自分の贅肉に気付く。ぶよぶよだ。情けないくらいにぶよぶよだ。前世では天然の鎧に覆われていた自分が今は脂肪に守られている。
情けなくて涙が出そうだ。
だけど、まだ大丈夫。大丈夫なはずだ。まだ若い。おっさんだった自分は死んでいる。記憶だけだ。今の自分は若い。取り返せる。
外へ踏み出す。
何日ぶりだろうか。
外だ。
最初の一歩はあっさりだ。
前世の記憶が甦らなかったら、外に出ることは無かったかもしれない。それだけ、自分の中で外に出ることは重かったはずだ。それが、こんなにもあっさりと達成出来てしまう。
歩く。
それだけで足がもつれそうになってしまう。まともに歩いていなかったのだから、仕方ない。
それでも頑張って歩く。サンダルが脱げそうになる。足元を見るのが辛い。腹の肉が邪魔だ。
現実が――何とかなるだろうと甘く考えていた俺の心を打ち砕いていく。
歩く。
よろよろと歩く。
何とか、自分が小学生の低学年の頃に遊んでいた、懐かしい思い出の公園に辿り着く。だが、今の自分は、あの頃は良かったなんて考えないぜ。
そんなことを考える余裕がないからだ。呼吸が、息が、辛い。ここまで一区画も歩いていないだろう。
だが、そんなちょっとの距離で息が荒くなっている。
公園のフェンスに寄りかかり、それだけで曲がりそうになったフェンスに慌てながら、休憩する。
今は真夜中だが、街灯があるからか、そこまで暗い感じはしない。
ふぅふぅ。
今日はここまでだな。いきなり――初日から無理をするべきじゃない。
興奮した犬のように息を荒くしながら自宅に戻る。その頃には全身汗だくだ。今の自分は、かなり最悪で強烈な、発酵した異臭を放っていることだろう。
よろよろと風呂場に駆け込み、シャワーを浴びる。汗を流す。
シャワーの後、脱衣所に置かれた体重計に乗ってみる。
数値は、と。
……。
121kgと表示されている。この体重計、壊れているな。ちょっと前に計った時が80kgくらいだったはずだ。一年ちょっと引き籠もったくらいで、こんなに増えるはずがない。
あー、シャワーで体が水を吸ってしまったのか。きっとそうだ。そうに違いない。
って、現実逃避している場合じゃないな。
この脂肪の塊を全て筋肉に変える。やり甲斐のある作業だ。楽しみが増えたと思うべきだろう。
こうして、俺の新しい毎日が始まった。
家の中では出来る限り柔軟体操を行い、硬くなった体を揉みほぐす。真夜中には、散歩に出る。
そんな毎日を繰り返す。
少しずつ歩く距離が、歩ける距離が増えていく。息が上がらなくなる。歩ける。まだ走るのは難しいが、歩くのは問題無い。
歩ける。
歩く――そんなことすら、俺は出来なくなっていた。
毎日の繰り返し。
そして、俺はついに繁華街に辿り着いた。真夜中なのに輝かしく明るさを放っているお店たち。夜の町だ。
コンビニが見える。自分が引き籠もる前にはなかったコンビニだ。新しく出来たのだろう。
コンビニか。お菓子を買ったり、甘くお腹にガツンとくるようなジュースを買ったりしたい。したくなってくる。
……お金が無くて良かった。お金をもってなくて良かったよ。
「んー、あー?」
そのコンビニの前に座り込んでいる三人が居た。そいつらは俺の方を見て何か唸り声のようなものを上げている。
ん?
「!」
俺は、この三人に見え覚えがあった。
俺はこいつらを知っている。
連中も俺に気付いたようだ。
「見ろよ、デブイチだぜ」
「おー、懐かしいデブじゃん」
「こんな時間に出歩いているとか不良じゃん」
僕は知っている。
俺は知っている。
ヤツらが俺の方へと歩いてくる。
体が動かない。体が動くことを拒否している。くそ、こんなヤツらに、こんなヤツら程度で俺が、俺が怯えているのか!?
「おい、デブイチ、返事しろよ」
顔を叩かれる。
「ッ!」
その衝撃に体が反応する。自分を守るように、顔を庇うように動く。素人同然の情けない動きだ。
俺がこんな情けない動きをッ!? 記憶だけがあっても駄目なのかッ!?
「おいおい、なんだよ、その目はよぉ!」
連中の一人が構える。ボクシングを囓っているのかもしれない。今の俺よりもずっと様になっている構えだ。
そして、右からフックが飛んでくる。
体がこわばり動かない。だが、見えている。
正直、遅い。その軌道が、迫る拳が見えている。円を描くように、曲がるように、大きく弧を描き迫る拳。まだ習い始めなのだろう。ボクサーとしてはアマチュアなフックだ。
こんなスローモーなフックなら喰らってもたいしたこと無いんじゃあないか?
ヤツのフックが俺の頬に当たる。
「ッ! アッ!」
痛ぇ。顎が曲がりそうな衝撃。
痛ぇ。
痛ぇじゃねえかよ! 騙された。
口の中に鉄サビの味が広がる。歯で口の中を切ったのかもしれない。
痛ぇ。
痛い。確かに痛い。
だが、思ったほどじゃない。
そうだ。
こんなものか?
我慢できる。この程度の痛みなら我慢できる。前世で喧嘩に明け暮れていた頃は銃で撃たれたことも刀で切られたこともある。それに比べたらたいしたこと無い痛みだ。
恐怖が薄れていく。
体が動く。
俺が、僕が、俺がッ! ああ、そうだよな。
呪縛から解き放たれた。
そう、この程度だ。
思わず笑みがこぼれる。
「何を笑ってやがる。気持ち悪ぃんだよ!!」
右ストレートが飛んでくる。
「!!」
おせぇ、おせぇんだよッ!
構え、その右ストレートに合わせて俺は放つ。左の一撃。
拳と拳が交差する。
ヤツの拳は俺の顔に――歯を食いしばって耐える。たいしたことねぇ。
そして、俺の拳がヤツの顔に突き刺さっていた。その一撃でヤツは尻餅をつくように倒れる。この100キロある体重を乗せた一撃だ。コイツみたいな素人同然の腕の力だけの一撃じゃあない。俺は拳に体重を乗せている。
ヤツが白目を剥いて倒れている。
残った二人が驚いた顔で俺を見ている。
やったぜ。
俺の勝ちだッ!