Act8-168 最後の感謝
それは一度だけ見たことがあった。
まだほかの種族同様の見た目だった頃、まだ子供だった頃に一度だけ見た。
ちょうど彼女のお供で狩りへと出掛けたときのことだ。
当時の彼女は「混ざりもの」であることを気にして、年下だろうが年上だろうが男とよく喧嘩をしていた。
それどころか喧嘩をすれば必ず勝っていた。
相手側の油断があったというのも理由だろうけど、単純に同年代に比べて彼女が鍛えていたという証拠だった。
それゆえにか、当時の彼女は傲慢なところがあった。
自分は誰にも負けない。ある意味子供らしい自負を抱いていた。
だからこそ、お供は自分だけだというのにも関わらず、狩りへと出掛けてしまい、それと出会った。
「嘘、でしょう」
自分と彼女の前に現れたのは、一頭の猪だった。それも魔物の猪であるレッドボアだった。
大人であっても怪我どころか死ぬことさえある魔物。
そんな魔物と子供ふたりが森で出会ってしまった。
どうなるのかなんて考えるまでもないし、相手がどうするのかもまた。
次の瞬間、そうするのが当然のようにレッドボアは突進してきた。
とっさに彼女を巻き込みながら倒れ込むようにして避けた。
レッドボアだけではなく、猪系の魔物は突進したらまっすぐに突き進むため、その直線上から退けばいい。
新兵や新人の冒険者たちの訓練にはちょうどいい習性の魔物とされていた。
又聞きだったが、その習性のおかげで一度目の突進は避けきれた。
しかし避けきれたことで安堵してしまい、一番してはいけないことをしてしまった。
「逃げますよ!」
彼女の手を取って逃げてしまった。それも背中を向けて、だった。
それはレッドボアだけではなく、自然の動物やほかの魔物にも言えることではあるが、背中を向けて逃げた場合、本能的にその相手を追うという習性がある。それが獲物と定めた相手であればなおさらだ。
彼女を連れて逃げながら追いかけ回されることになった。それも街へと向かえないように道を塞がれる形でだ。
結果自分と彼女は森の奥へと追い詰められてしまった。
森の入り口であれば、まだ大人に助けを求められる。
しかし森の奥に大人がいるわけもない。
それでも生きるためには逃げるしかなかった。逃げることしかできなかった。
彼女だけでも助けたかったが、自分には彼女を助ける力などなく、彼女を連れて逃げることしかできなかった。
いや逃げることさえもできなかった。
森の奥へと誘導されていたのだから、逃げているなど口が裂けても言えるわけもなかった。
そうして誘導された先は、切り立った崖の手前だった。
道具もなく登れるような崖ではなかった。
逃げている間に弓などの装備は捨ててしまっていた。
残っていたのは護身用のナイフだけ。
相討ち覚悟で挑んでも死ぬ。
どうしようもない状況だった。
どうすることもできない状況だった。
あぁ、ここで死ぬのか。
子供心ながらに自分の死を覚悟した。それでも彼女だけはどうにか守ろうと泣きながら、護身用のナイフを構えた、そのときだった。
「ん~。レッドボアか。猪肉って気分じゃないが、まぁいいか」
のんきな声が聞こえた。同時にレッドボアが見るからにうろたえ、一目散に逃げ出そうとして──。
「逃がさねえよ、昼飯」
──肌に突き刺さるほどの殺気が放たれた。その次の瞬間には緑色の竜が空を飛んでいた。
正確には可視化できるほどの風を纏った竜のような人が空を飛んでいた。そしてその人はそのままレッドボアの頭上を取ると、たやすくその首を落とした。
震動を放ちながらレッドボアが倒れた。そして──。
「よう、坊主ども。無事か」
穏やかに笑いかけながら、陛下は自分たちの前に降り立った。
あれからもうどれくらい経っただろうか?
あのときの技がいまこの身を襲う。
これが手向けなのだろう。
「ありがとうございます、陛下」
そっとまぶたを閉じながらそのときを、終わりをただ受け入れた。




