Act0-53 初めての…… その九
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森に着いた頃には、すでに周囲は薄暗くなっていた。
だが森の中は、それ以上に薄暗い。闇が光をすべて呑み込んでしまっているかのようにだ。暗所恐怖症ってわけではないが、あまりにも暗すぎる森の中に踏み込むことは、なかなかできなかった。
けれどこの先に、モーレがいる。モーレを助けるためには、この森の中に飛び込んで行かなければならなかった。
前を見据え、意を決して、一歩踏み込んだ。
風が吹いた。生暖かい風が、肌をそっと撫でていく。
背筋がぞくりと震えた。
生唾をごくりと飲み込む。
踏み出した脚が、とても重たく感じられた。もう一歩踏み出すことを、ためらうほどに。この先に向かったところで意味なんてない。そう思っても、脚を踏み出さずにはいられない。
「待っていろ、モーレ」
この先にモーレがいるなんてわからなかった。けれどギルドマスターは、この先に向かえと言っていた。森の深部には向かったことはない。せいぜい中ほど、中層くらいには踏み込んだことはある。そこにダークネスウルフはいた。だから中層までは知っている。けれどそれ以上先を俺は知らない。
でもそこに向かえ、とギルドマスターが言う以上、そこに俺は向かわなければならないのだろう。そこにモーレがいると決まったわけではないが、少なくとも無駄足を踏むことにはならないだろう。
頬を叩き、再び見据えた。それから一気に駆け抜けようとした。そのときだった。
「やめて! 嫌ぁ!」
モーレの声が聞こえた。悲鳴だった。間違いなく、モーレはこの先にいる。深部に行けと、ギルドマスターは言っていたけれど、あれは深部へと向かって行けということだったのだろうか。そんなことを頭の隅で考えながら、俺は声の聞こえた方へと向かって、駆け抜けた。
「モーレ!」
エンヴィーさんに釘を刺されていたことを、全力を出さないことを無視した。全速力で、森の中を駆け抜けていく。
風が肌を打つ。強い風。風を切り裂いて駆け抜ける。けれど、風を切り裂くたびに速度はいくらか落ちていく。それがひどくうっとおしい。右手を強く握りしめる。握りしめた拳に、風を付与させる。いや風の力を集めて放った。
「風の刃よ、飛べぇ!」
風属性で初級の魔法「風刃」が、前方の風を切り裂く。同時に速度が上がった。周囲の木々を「風刃」が切り裂いていく。
時折、木々ではなく、魔物さえも「風刃」は切り裂いていく。血が宙を舞う。文字通り、血風の中を駆け抜けていく。
どれだけ走っただろうか。
目の前が開けた。森の入り口に立っていたときよりも、周囲は暗い。夜のとばりが下りたというよりも、光をさらに闇が呑み込んだと言った方が適切かもしれない。
もう月の光さえ届かない。真っ暗な闇が、周囲を包み込んでいた。その中でも、はっきり周囲を見ることができていた。視力が強化されるとはいえ、ここまで見えるものなのだろうか。だがどうでもよかった。だって俺がそこにたどり着いたとき、それを見てしまったのだから。
薄汚い恰好をしたおっさんが、モーレの着ていたエプロンドレスを切り裂くところ。下卑た笑みを浮かべながら、モーレに圧し掛かろうとしているところを。俺は見てしまった。
「嫌ぁ!」
モーレが叫ぶ。その声に、目じりに浮かぶ涙に、恐怖に染まった表情に、なにかが切れる音が聞こえた。そして俺は叫んでいた。
「モーレから離れろ!」
おっさんに向かって駆け抜ける。だが、誰かが立ちはだかった。顔は見えない。だが、知ったことか。拳を作る。右手を全力で握りしめ、思いっきり腕を振り抜いた。誰かの腹に向けて、まっすぐに振り抜く。音が鳴った。風を裂く音。そして肉を、骨を砕く感触が伝わってきた。初めての感触だった。
「邪魔をするな!」
腕を引き抜き、倒れ込んできた誰かの顔に蹴り込み、飛ばした。血がまた宙を舞った。血を全身に浴びる。生臭かった。けれど構うことはしない。また一歩踏み込もうとした。しかし誰かに気を取られたのがいけなかったのか。囲まれてしまった。おっさんも俺に気付いて、剣を抜いていた。だが余裕はない。恐れているような顔を浮かべていた。
「な、なんだ? おまえは」
おっさんが言う。でも答える気はない。そもそも答えるまでもない。答える価値もない。
「モーレを返せ」
だってこいつらは、モーレを攫い、乱暴しようとしていた。あと少しでも遅かったら、きっとモーレは。俺がへまをしたばかりに、こんなことになった。こいつらは許せないが、それ以上に自分を許せない。俺自身への罰は当然行う。けれどその前に、こいつらには、こいつらが犯した罪を清算してもらう。
「邪魔するなら」
立ちはだかった誰かが、どうなったのかはわからない。だが、あれだけの感触だ。ただでは済まないだろう。もしかしたら。思い浮かんだ言葉をあえて無視した。だって悪いのは、こいつらだ。だからどうなったってかまいやしない。悪いのはこいつらだ。モーレを攫い、乱暴したこいつらが全部悪い。だから──。
「生かしちゃおかない」
はっきりとそう言い切った。そうして俺は、初めて人を殺す覚悟を決めた。そこから先はよく思い出せない。気づいた時には、全身が血に塗れていた。生きている者は誰もいない。いや、モーレとモーレに圧し掛かろうとしていたおっさんだけは生きていた。
だがモーレはすでに気絶し、おっさんは恐怖に震えていた。股の間が濡れている。俺を見つめる瞳は恐怖で染まっている。そんなおっさんに向かって、ゆっくりと歩いていく。
「く、来るな!」
おっさんが剣をモーレに突きだそうとした。「風刃」を放つ。肘から先を飛ばした。地面を蹴り、肘から先、特に持っていた剣を奪い取る。モーレに当たったら、怪我をしてしまう。そうならないように、奪い取った剣をへし折った。
おっさんは、失った腕を抑えながら、蹲っていた。血が大量に流れていく。おっさんがなにかを喚いていた。ひどくうるさい。黙らせるために、顔を踏みつけた。血が足を汚す。けれどいまさらだった。もう血で汚れていない部分は、どこにも存在していない。構うことはなにもなかった。
「た、助け」
おっさんが口を開いた。助けてほしいとでも言うつもりなのだろう。けれど──。
「勇者アルク・ベルセリオスは来ない」
「え?」
「おまえらが攫ったのは、まるで関係ない女の子だ」
「な、なにを」
「そしてこの女の子は俺の友達だ。おまえらが攫うべきだったのは俺だよ。それに気づいたんだろう? だからモーレを!」
怒りが駆け巡る。その怒りのままに俺は突き動かされていった。
「死ね。死んで償え!」
風属性を付与させた拳を、おっさん目がけて振り下ろした。おっさんが悲鳴をあげた。恐怖に染まった表情のまま、おっさんの顔はふたつに分かれた。血が体を染める。だがもうどうでもよかった。
「……ごめんな、モーレ。遅くなった」
気を失ったモーレを抱きかかえ、踵を返した。光はない。けれど「風刃」で作った道を辿って行けばいいだけのことだった。光はないのに、俺には道が見える。その道を辿ればいいだけだった。
「魔物は出て来るかな?」
いまさらなことを口にしながら、俺はその場を後にした。




