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Act5-73 慟哭と笑顔と

 魔法陣を押し付けるようにしてリボンに触れる。


 魔法陣は強く輝きを放ちながら、リボンへと吸い込まれていくように消えていく。同時にシリウスの泣き声が聞こえてくる。


「ぱぱ、どこ? さむいよ。さみしいよ」


 紅い瞳を覆っていた黒が少しずつ消えていく。裂けていた瞳孔も徐々に元の形へと戻っていた。それに合わせて、シリウスの体も少しずつ元の大きさへと戻っていく。


「俺はここにいるよ」


 シリウスがゆっくりと振り返る。白と黒に覆われた紅い瞳と目があった。泣き顔が一転して笑顔になる。そう、笑顔にだ。


「ぱぱ?」


「……ああ」


「本当に、ぱぱ?」


「ああ、パパだよ」


「ああ、ぱぱ。ぱぱぁ」


 シリウスが笑う。笑いながら口が大きく開いた。レアが「旦那さま」と叫ぶ。俺を頭から飲み込めるくらいの大口だ。でも──。


「甘いぜ、「フェンリル」」


 シリウスの振りをした「フェンリル」の口の中に水球をねじ込んでやった。フェンリルが唸りだす。


「な、なぜ」


「見え見えなんだよ。俺を油断させようとしていることくらい、すぐにわかったよ」


 たぶん俺の名前を何度も呼んでいたときはシリウスだった。でもそこから先はまた「フェンリル」になった。いや「フェンリル」がシリウスの意識を再び抑え込んだんだ。最後の勝機を呼び込むために。でもな──。


「残念だったな。おまえのしようとすることくらいはすぐにわかったよ」


「なぜ、わかる? 我は完璧に」


「あ? 完璧? ふざけんなよ、このボケ犬! うちの愛娘の愛らしさを一パーセントも表現できていないのに、なにが完璧だっつーの!」


 寝ぼけたことを抜かすボケ犬を一喝してやった。誰がどう見てもシリウスとボケ犬とではまるで違うって言うのに、なにをもって完璧にシリウスに成り代わったと思えるんだか。うちの愛娘をバカにするのも大概にしろよ?


「な、なに?」


「シリウスであれば、俺を見つけたらまず泣くわ! ぼろぼろと涙を流しながら泣いてから初めて笑うよ! 最初から笑うわけがない!」


 そうだ。シリウスはこういうとき真っ先に泣く。うん、それがシリウス、俺の愛娘だ。なのにこいつと来たら泣きもせずに笑いやがった。その時点でシリウスじゃないのは明らかだった。


「あと! シリウスはもう舌ったらずな「ぱぱ」とは言わんの! ちゃんと「パパ」って言えるんだよ! 泣きながらだったらわかるけれど、笑いながら「ぱぱ」なんてもう言わねえんだよ!」


 俺個人としては舌ったらずな「ぱぱ」もいいんだけど、シリウスはいまや完全に「パパ」としか言わない。見ため十歳児だから仕方がないとは思うけれど、昔の舌ったらずな「ぱぱ」がとても懐かしいよ。ただね。それをシリウス以外の奴に言われると非常に腹が立つんだよね。


「以上の点からお前がシリウスじゃないってことはすぐにわかったんだよ、このボケ犬が!」


「ぼ、ボケているのは貴様の方だろうが!? 黙って聞いていれば人間のくせに、魔物を娘だなんだと抜かす貴様の方が」


「それのなにが悪い?」


「なんだと?」


「俺は人間で、シリウスは魔物だ。血の繋がりなんて当然ない。でもそれのどこが悪い?」


 ボケ犬をまっすぐに睨み付ける。ボケ犬は一瞬たじろむも、すぐに牙を剥いて叫んだ。


「悪いに決まっているだろうが! 人間なんぞしょせんは魔物に食われるだけの存在にしかすぎん! その餌が親だと? バカも休み休み言え!」


「バカはそっちだよ、このボケ犬が!」


 たわけたことを、シリウスの体でたわけたことを抜かすボケ犬の頭を叩いてやった。きゃいん、とボケ犬は犬っぽい声をあげた。がすぐに俺を射殺さんばかりに睨みつけてくる。


「貴様ぁ、我を誰と」


「シリウスのなかに勝手に入っているボンクラのマヌケ犬。略してボケ犬」


「貴様ぁぁぁーっ!」


 ボケ犬が激昂している。でも激昂したいのは俺の方なんだよ!


「いい加減うちの娘の体から出て行け。これ以上シリウスを穢すんじゃない!」


「穢しているのは貴様の方だろうが! この娘の中にどれほどの闇が広がっているのかもわかろうとせずに、ただ娘としてのありようを押し付ける貴様の方が」


「知っているよ」


「なんだと?」


「シリウスの心にどれほどの闇が広がっているのかは知っているよ」


 知っている。シリウスの心の中にどれくらい闇が広がっていることは。あの日、進化を果たす前、泣きじゃくりながら語ってくれたあのときに俺は知った。


 同時にわかった。シリウスがどんなにカルディアが好きだったのかを。いまであればガルムとマーナが戻ってきたいまであれば結果は多少異なるのかもしれないけど、どちらにしろ、シリウスがカルディアを好きになることには変わらない。


 だからこそ、大好きな「まま」の仇を討ちたいと思っているのを俺は知っている。


 知っているからこそ、俺はシリウスに娘としてのありようを求めた。だって──。


「シリウスには返り血は似合わないから。この子の手は血で染まっていいわけがないから」


 シリウスの手を握る。あのときとは手の大きさは変わってしまった。


 俺とそこまで変わらないくらいにシリウスの手は大きくなった。


 それでも俺は知っている。シリウスはどう変わろうとも。何度進化を果たそうとも、この子の本質が、他者を笑いながら傷つけられるものではないことを、他人を思いやれる優しい子であることを俺は知っている。


 そんなこの子が「殺す」と、泣きながら「殺す」と言った。


 それがどれだけの葛藤の末のものなのかは考えるまでもない。


 そう口にしてしまうくらいにこの子は、カルディアが大好きだったんだ。


「でも、俺はこの子には復讐なんてしてほしくなかった。その手を血に染めてほしくなかった」


「勝手なことを! この者はすでに手を血に染めた! ならば仇討ちをしたところでなにも──」


「違うよ。生きるための戦いで殺すことと、ただ殺すための戦いで殺すことは違う」


 熱した勢いで相手を殺すことと覚悟を以て相手の命を背負うことはまるで違う。そのことを俺は「エンヴィー」での日々で知った。


「復讐なんてものは自己満足にしかすぎない。どんなお題目があろうとも、大切な人を喪った悲しみを相手にぶつけようとしているだけだ。憎しみで相手の命を奪っちゃいけない。相手の命を背負う覚悟がないままに相手を殺しちゃいけないんだ。だから俺は──」


「覚悟など知ったことか! 大切な者を喪った悲しみを、愛する者の死の原因をなぜ討ってはならぬ!? 愛するがゆえの悲憤をどうして抑え込まねばならぬのだ!?」


「フェンリル」の目から涙が流れた。血のように赤い涙がこぼれ落ちていく。その涙は、いやその言葉も、その想いも誰のものなのだろうか?


「親という者は身勝手だ。勝手に産んだくせに、産まれるやいなやおまえはいらぬと、おまえは存在してはならぬと言う! その言葉に我がどんなに嘆き苦しんだかわかるか!? その我を救ってくれた兄者を喪った悲しみが、その怒りが貴様にわかるか!? そしてそれを為したのが、我を否定した母であることを! ゆえに我は殺し食らう! この世界を、呪われし世界を壊す!」


「フェンリル」の瞳が再び爛々と輝きだす。


 でもいくら輝いても、それ以上にはならなかった。


「フェンリル」化は状態異常と判定されたみたいだ。


「忌々しい! 忌々しい力よ! 忌々しき母の力などに!」


「フェンリル」が唸る。唸りながら尻尾のリボンを睨み付ける。


 でも言葉の意味がわからない。忌々しき母の力?


 そのリボンは母さんが作り贈ってくれたものだ。なのになんで母の力なんて、「フェンリル」は言っているんだ?


「なにを」


「覚えておけ! 我は消えぬ! 兄の継嗣の体をいつか奪い取る! そのときには貴様から食らってやる! 覚えておけよ、忌々しき「妹」よ!」


「フェンリル」が叫んだ。言葉の意味を尋ねるよりも先に悲鳴のような咆哮をあげた。


 咆哮は次第に収まり、そして完全にやむと、シリウスがゆっくりと倒れこんだ。


「シリウスっ!」


 慌てて抱き留めるとシリウスがうっすらと目を開いた。目はいつものシリウスのものに戻っていた。


「……迷惑かけてごめんね、パパ」


「気にしなくていいよ、シリウス」


「わぅ、ありがとう」


 シリウスは笑っていた。その笑顔は紛れもないシリウスの、俺の愛娘のものだった。

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