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Act5-72 呼ぶ声

 シリウスの動きはとんでもなく速かった。


 地面を蹴ると同時にその姿は消え失せたように見える。でも俺には見えていた。たぶんこの場にいる全員が見えているはずだ。


 それでもかなりの速さであることには変わりない。そう速い。速いけれど、その動きはかなり直線的だった。ただまっすぐに駆け抜けて来るだけだった。


 ここは森の中だけど、足場になるような木々はあった。閉鎖空間とまでは言えないけれど、シリウスが縦横無尽に動くことはたやすいはずだ。


 なのにシリウスはそうしない。普段のあの子であればまず間違いなくするはずのことをしていない。余裕を見せているのか。それともできないのか。


 どちらにしろ、直線的にしか動かないのであれば、こちらにとっては救いだった。どんなに速くても直線であれば対処はしやすい。あくまでも縦横無尽に動かれるよりかは、という意味だけど。


 直線的にしか動かなくても、その速さ自体が規格外と言ってもいいレベルなんだ。その時点でアドバンテージは握られてしまっている。たとえ動きが単純なものであっても、実力差がありすぎれば、簡単に食い殺されるだろうね。


 けれどここにいるのはこの世界でも有数の実力者ばかりだ。……スパイダスさんがどれだけ強いのかはまだいまいちわからないけれど、少なくともAランク相当の実力があることはわかる。それでもフェンリルとなったシリウス相手では分が悪い。


 でもそれは単独であればの話だ。


「蛇王はやらせねえぞ!」


 スパイダスさんはレアとシリウスの間に体を滑り込ませた。その一呼吸後に衝撃が走る。シリウスがスパイダスさんとぶつかり合った。スパイダスさんは全身を用いてシリウスを抑えこむ。けれどシリウスはスパイダスさんの甲殻に噛みつきながら、その身を押し込もうとしている。


 シリウスの牙はかなり鋭そうだが、アダマンタイトの甲殻を持つスパイダスさんを傷付けるには至っていない。そのうえアダマンタイトゆえの重さでシリウスが押し込もうと力を込めるもスパイダスさんはまるで動かなかった。その姿は重量級のタンクを思わせてくれる。


 シリウスもスパイダスさんの甲殻を傷付けられないうえに押し込むこともできないとわかったのか、忌々しそうに唸り声を上げた。


「鬼王。少しずつ情報を集めるぞ」


「承知しました」


 唸り声をあげるシリウスを左右からマモンさんとライコウ様が攻め込んでいく。ライコウ様の剣が、マモンさんの槍がシリウスにと振られるけれど、シリウスは避ける素振りさえ見せない。それもそのはずだ。ふたりの一撃はシリウスの体毛によって弾かれてしまった。


「体毛でさえここまでの硬度か」


「アダマンタイトってほどではないにしても、下手な魔鋼の防具よりも硬いですね」


 武器を弾かれてもなおライコウ様たちは攻め手を緩めない。そんなふたりの姿はシリウスには見えていないのか。それとも気にするほどのことでもないと思っているのかはわからないけれど、シリウスは唸りながらスパイダスさんの甲殻を噛み砕こうとやっきになっている。


「……とんでもない力だな。俺の甲殻が軋んでやがる」


 スパイダスさんが顔を顰めていた。アダマンタイトでさえも軋ませるほどの力か。目にも止まらないほどのスピードに、魔鋼よりも硬い体毛に、アダマンタイトさえも軋ませる力。すべてが規格外と言える能力か。うん、たしかに最悪の化け物と謳われるのも頷けるな。


 でも母神さまは「フェンリル」と呼ばれる存在を葬ったんだよな? つまり倒せる方法があるということだ。単純に母神さまが「フェンリル」さえも歯牙に掛けないほどに強いってこともありうるけれど、なんとなく攻略法があると思える。


「レア。いまのうちに」


「そうですね。では──」


 スパイダスさんの後方にいたレアが腕を振るう。レアから大きな魔力が発せられていく。


「体毛が硬い。でもそれはなにがあってもなのかしらね?」


 レアがにこりと笑った。同時にシリウスの頭上に大きな水の球が、シリウスの体をも覆えるほどの水球が現れた。


「降れ、流水大球」


 レアが言うや否や水の球は破裂した。破裂した水の球から雨と思わせる無数の水の粒が周囲を濡らしていく。その水に触れてシリウスはわかりやすいくらいに反応し、とっさに下がろうとした。


「逃がすかよ!」


 スパイダスさんが糸を吐き、シリウスの体を拘束する。同時にライコウ様とマモンさんがそれぞれの武器を振るった。さっきは弾かれたが、今回は弾かれることなくその身を切り裂いた。シリウスの体が地面に倒れ伏す。そこにスパイダスさんは思いっきり圧し掛かった。


「……ふむ。やはりな。いくら硬度があるとはいえ、体毛であることには変わらぬ。ならば」


「濡らせば柔らかくなるってところですか」


「うむ。加えてあの巨体だ。乾かすにしてもすぐには無理だ。いまが好機とも言えるが、無理をせずに攻め込むぞ」


「はい」


 ライコウ様とマモンさんはもうシリウスの弱点を見つけたようだ。魔鋼よりも硬い体毛とはいえ、体毛であることには変わらない。人間の髪だって、どんなに硬い髪質の人のものでも濡らせば柔らかくなるんだ。それと同じようにシリウスの体毛も濡らしたらかなり柔からくなったみたいだ。つまりは水に弱いってことなのか。もしかしたらレアを真っ先に狙ったのは、その身に宿る水の力を恐れたからなのかもしれない。


「いえいえ、そこはママに甘えたいからですよ」


 ニコニコとレアは笑っていた。笑いながらも次々に流水大球を作りだし、破裂させて雨を降らせていく。雨はシリウスの体毛を柔らかくさせていると同時に血を洗い流していく。それはシリウスの尻尾に結われたリボンに付着した血をも洗い流していた。ただすべてを洗い流すにはいくらか毛が邪魔だった。


「ふむ。少し毛を刈ってやるのもじぃじの役目というところかな?」


「……そう、ですかね?」


 ライコウ様はドヤ顔チックに言いつつ、リボンを隠す体毛をきれいに刈り取っていく。マモンさんはスパイダスさんが吐き出した糸でシリウスの体を拘束していた。シリウスは暴れるけれど、そのたびにスパイダスさんが体重を掛けつつ、マモンさんに糸を供給していく。供給された糸でシリウスの体をマモンさんは縛り付けていく。見事なほどの分担作業だった。


「「旦那さま」、そろそろ」


「ああ」


 シリウスは抑え込まれつつも、絶えず俺の動きを目で追っていた。ただいまはもう俺を追う余裕はないようだ。いまがチャンスだ。とっさに駆け込み、尻尾に飛びついた。同時に指を噛み切り、まだ濡れているリボンに血を塗りつける。


「我の後に続いて詠唱せよ」


 ライコウ様が叫ぶ。言われるままに俺は詠唱を始めた。


「愛おしき母よ。その御業をここに。この身蝕みし不浄を払う力、いまここに」


 ライコウ様に続いて詠唱すると、魔法陣が現れた。同時にシリウスが天を仰いで吼える。でもそれはさっきのものとは違う。いまのそれは──。


「どこ? どこなの、ぱぱぁ!」


 泣きじゃくっていた。吼えながら、シリウスは二重に聞こえる声で俺を呼んでいた。それがマモンさんの言っていた狡猾ゆえの演技と言う可能性はあった。


 でも俺にはそれが演技だとは思えない。


「ぱぱ、ぱぱ、ぱぱぁっ!」


 シリウスは俺を呼びながら泣いていた。それはグレーウルフ時代から変わらない。シリウスは根っこのところでは泣き虫だ。そこはどんなに進化を果たしたところで変わらない。だからこそ──。


「戻ってこい、シリウス」


 俺は魔法陣を押し付けるようにしてリボンに触れた。大切な愛娘を取り戻す。ただそれだけを祈りながら、リボンに触れたんだ。

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