Act5-10 シリウスとの溝
「グリード」での滞在三日目の朝になった。
天気は快晴で、絶好の旅日和だ。実際「グリード」は今日から移動を始めるそうだ。移動する距離というか、範囲は代々決まっているそうで、マモンさんが言うには、現在地から北に百キロほど移動するらしい。新宿駅から甲府駅までが百二十キロくらいあったはずだから、新宿甲府間ほどの距離ではないけれど、それに近い距離を行き来するってことになるみたいだ。
しかも単独ではなく、「グリード」の民すべてを連れてだもの。相当に時間がかかるはずだ。そのうえ、移動先に着いてもアジュールを民が住まう分も建てなきゃいけない。どう考えてもマモンさんが帰ってくるまで半月くらいはかかりそうだった。
「だいたい十日くらいはかかるな。遅くなっても二週間ほどで戻ってくる予定だ」
出発直前にマモンさんにどれくらいで帰ってくるのかを尋ねると、マモンさんも俺の予想と同じくらいの期間がかかると言っていた。やっぱりどれだけ早くても半月近くはかかるのか。逆に言えば半月はレアとシリウスの三人で生活するということになる。……俺喰われないよな。そんな心配がちょっとだけ脳裏によぎってしまった。
「まぁ、それだけの期間があれば、いくらなんでも慣れるだろう?」
明日からの日々に想いを寄せていると、マモンさんはにやりと笑いながら言ってくれた。レアが余計なことを言ったおかげでマモンさんのなかでの俺の評価はよくわからないことになっている。
というか、これも一種の試しなんだろうな。マモンさんの目は期待に満ちたものだもの。正直期待されたところで応えられるほどのなにかがあるわけじゃない。
それでもこうも真正面から言われてしまうと、応えずにはいられなかった。
「慣れてみせますよ」
「そうか、期待しているよ」
それだけ言って、マモンさんは「グリード」の民を引き連れて北上していった。迷いなく突き進む姿は、なんというか少しカッコいいと思えてしまった。
「行っちゃいましたね」
レアはいつのまにか俺の隣に立っていた。シリウスはレアと手を繋ぎながら、マモンさんたちを見送っていた。
「行っちゃったなぁ」
昨日までは無数のアジュールが建っていた平原は、いまや俺たちのアジュールしかない。ひどく殺風景な景色になってしまっている。
ほんの少し前まではたくさんの人がいたのに。いまやこの平原にいるのは俺たち三人だけだった。食糧はいくらか分けてもらっているので、しばらくはどうにかなるだろうけれど、いつまでも食糧があるわけじゃなかった。そのうち食糧を得るために狩りに出ないといけない。そのための道具はマモンさんから渡されていた。
「どうです? 使えそうですか?」
「わかんない。使ったことないし」
マモンさんに渡されたのは、かなり大きな弓だった。あくまでも俺が持てばね。マモンさんが持つとそんなに大きくは見えなかった。でも実際に手渡されたときは、あまりのギャップに驚いたよ。だっていきなり巨大化したように感じられたもの。
「わぅわぅ、大きいの」
シリウスはマモンさんに貸してもらった弓に興味津々のようだ。とはいえ、シリウスに持たせるわけにはいかない。というか持てないと思うんだよね。なにせシリウスの身長をはるかに超えているもの。そんな弓を持たせるわけにはいかないし、張ってある弦で怪我をしてしまいそうで怖かった。
「あんまり近づいちゃダメだぞ? 怪我しちゃうかもしれないし」
シリウスから弓を遠ざける。いつもであれば、ちょっとしたわがままくらいは言いそうなものなのだけど──。
「わぅ」
それだけ言って、シリウスは離れてしまう。離れると言ってもレアの背中に隠れるというだけのことだったけれど、以前までのシリウスであれば考えられないことだった。それだけ俺との間に溝ができてしまっているということでもあった。
「……シリウスちゃん」
レアも困った顔をしていた。けれどシリウスはなにも言わず、レアの服の裾をぎゅっと掴むだけだった。嫌われているのはわかっているのだけど、やっぱり愛娘にここまで嫌われるのは胸が痛い。でも自業自得だから、なにも言えない。言えないまま、俺は弓を持ってレアとシリウスのそばから離れた。マモンさんが言うには、狩りをするのであれば、弓がなければどうしようもないということらしい。
「魔法では代用できないんですか?」
「できなくもない。が、力加減が難しい。下手をすると炭化するし、炭化しなくても木っ端みじんになって食べる部分がなくなってしまうかもしれない。だから弓が一番いい。「鬼の王国」では、基本的に誰もが弓を使える。子供の頃から騎射をして過ごす。狩りも子供の頃からすることが多い。……俺の手伝いをするというのであれば、狩りくらいはまともにできていないとお話にならない」
魔法で代用して狩りをすることはあまりおすすめできないようだ。たしかに威力の調節とかって結構難しいからね。力加減を誤れば自然破壊になってしまううえに、せっかくの獲物を失うことになりかねない。……妙なところで現実っぽいよね、この世界ってば。
とにかくマモンさんに言われた通り、マモンさんの手伝いをするのであれば、狩りくらいはできないといけない。しかも使ったこともない弓を使ってだ。
黒狼望があるけれど、黒狼望では狩りに向かないらしい。というか、専ら得物となるバンマーの逃げ足が速すぎて、刀なんて役に立たないみたいだ。遠距離からでも狙い撃ちができる弓が一番適しているというのがマモンさんの言い分だった。
たしかに地球での狩猟も昔は弓が基本だったらしい。いまはいろいろと取り決めがあって、弓ではなく猟銃か罠での狩猟しかできないそうだけど、詳しいことは知らない。
とにかく地球でも昔は弓が狩猟の基本だった。だからこの異世界でも弓が狩猟の基本と言われれば、その言葉に従うしかない。郷にいては郷に従えというからね。
「弓の稽古をしてくるよ。いまはまだ食糧に余裕があるけれど、ずっと食糧があるってわけじゃないからね」
「わかりました。その間私がシリウスちゃんの面倒を看ていますから、「旦那さま」はお稽古に集中なさってください。ほら、シリウスちゃん。ぱぱ上に頑張ってって言おうか?」
レアの服の裾を掴むシリウスに向かってレアが穏やかに笑う。けれどシリウスはなにも言わない。なにも言わないまま、アジュールの中に入って行ってしまった。
「あ、シリウスちゃん」
「……いいよ、レア。いまは少しそっとしてあげて」
「でも、いつまでもいまのままというわけには」
「うん、わかっている。でもいまはまだこのままでいいんだ」
いやこのままでいるしかない。俺もまだシリウスと向き合うのが怖いからね。でもいつかは向き合わなきゃいけない。できることであれば、それが「鬼の王国」にいる間でできればいいんだけど。そんな淡い期待を抱きながらも、俺はアジュールから離れて弓の稽古をしに行ったんだ。




