Act4-77 悲しみは囁きに乗って
引き続きアルトリア好きの方は注意をお願いします。
なにを言われたのか、すぐには理解できなかった。
「旦那さま」が言われたことを、私は理解できなかった。いままで一度だってなかった。
この人の言う言葉を理解できないことはなにひとつとてなかった。
なのにいま私はこの人が口にした言葉を理解することができなかった。
「「旦那さま」、なんで」
「もう呼ばないでって言ったよ? 君にはもう、そう呼ばれたくない」
「旦那さま」ははっきりと言われた。なんでそんなことを言うのか、わからない。どうして? どうして私はこんなことを言われなきゃいけないの?
「なんでですか? だって私はこんなにもあなたを愛しているのに!?」
身を焦がすほどの想い。私の胸に宿る想いは、ノゾミにだってお師匠さまにだって負けていない。生意気な新参者や淫売な雌犬とは比べようもないほどの想いを抱いている。
なのになんでそんなことを言うのか。わからない。なんで「旦那さま」がいきなりこんなことを言い出すのかがわからない。
「……君の愛は人が見れば狂気でしかないよ」
狂気? なにを言われているんだろうか? 私の気持ちが狂っている? そんなことがあるわけない。
私は狂ってなんていない。私の想いは普通だ。だって愛している人のためであれば、なんだってできるのはあたり前のこと。
愛している我が子のために命を削るのは当然のこと。それのどこが狂気なのか、私には「旦那さま」の言っている意味がわからない。
「私の愛がおかしいと言われるのですか?」
「……うん。君の愛は狂っているよ。もっと言えば、怖いんだよ」
「怖い?」
なにが怖いのか? 私の愛が怖い? どういう意味だろう? どうしてあなたを愛することが、シリウスちゃんを愛することが怖いのか? わからない。やっぱりなにを言われているのかが私にはわからない。
「クロノスで君は希望を殺そうとしたよね?」
「それは」
否定できない。だってあのときの私は、自分の中に宿る吸血鬼としての本能が、普段は抑え込んでいる化け物の力に呑まれていた。でもあれは希望が悪かっただけ。だって私を煽ってしまったあの子が悪い。だから私は悪くない。
「あの時から俺は感じていたよ。アルトリアが向けてくれる愛情は普通のものじゃないって。恋敵になるとはいえ、その相手を殺そうとするのは、決して普通の愛情とは言えない。たしかにそういう愛情もあるかもしれない。痴情の縺れでそういう結果になることもあるかもしれない。だけど、相手を殺そうとした人の胸に宿る愛情は、相手を殺そうと思った瞬間から狂気に染まるんだ。きれいな愛情ではならなくなってしまう」
「旦那さま」は悲しそうな目をしていた。「旦那さま」ご自身が悲しいのか、それとも私を見てそう思っているのか。わからない。「旦那さま」の言動を理解することができなくなっていく。
「たぶん、シリウスも同じだったと思う」
「え?」
「あのとき君は、シリウスの肩を掴んだよね。それともとても強い力で」
「あ、あれは」
あれは仕方がなかった。だってああしないとシリウスちゃんがわかってくれないと思ったから。私がどれだけあの子を愛しているのかを理解してもらえないと思ったから。だからああした。それだけのことだった。
でも「旦那さま」の口調からして、あれは決してそれだけのことでは終わらなかったのかもしれない。
「あのとき、シリウスは怯えていたよ。それは君もわかっていたんじゃないか? 「まま上」と君を慕うあの子が、君に怯えたことはそれまで一度でもあったかな?」
なにも言えない。言い返すべきなのに、なにも言えなかった。
だって私は見てしまっていた。あのとき、シリウスちゃんの目にあったわずかな怯えを。わずかに震えていた体を。あれがどういうことなのかなんて考えるまでもなかった。
あのとき、シリウスちゃんは私に怯えていたんだ。「まま上」である私自身に。
「……あれからだよね。シリウスがあまり君に近づかなくなったのは」
「違います。シリウスちゃんは、「まま」がたくさんできてしまったから、それで」
否定しないといけない。シリウスちゃんはたしかに最近あまり私に近づかない。
以前はなにかあるごとに「まま上」、「まま上」って言って駆け寄ってくれた。
でもそれはあくまでも最近は「まま」が何人もできてしまったからであって、決して私を嫌っているわけじゃない。
だってその証拠にシリウスちゃんはまだ私を「まま上」と呼んでくれている。
「旦那さま」と、「ぱぱ上」と対を為す「まま上」と呼んでくれている。
だからこそ私は正妻なんだ。「旦那さま」の妻で序列一位なんだ。それだけは決して否定できないはずで──。
「……知っている? 君がいないとき、シリウスは希望を「まま上」と呼んでいるのを」
「……え?」
いまなんて言ったの? ワタシハイマナニヲイワレタノ?
「シリウスはもう君を「まま上」とは思っていない。その座はもう希望のものになっていっている」
「うそ」
「本当だよ」
「うそ。うそ、嘘ですよね? だって私が「まま上」だもの! 私があなたの正妻だもの! ノゾミじゃない! 私があなたの」
「俺は君を正妻だと認めたつもりはないよ」
「旦那さま」の目が悲しみに染まっていた。黒い瞳に私の姿が映っている。
瞳に映りこんだ私は、ひどい顔をしていた。涙で顔がぐしゃぐしゃになっていた。
けれど「旦那さま」は止まらない。止まらずに私を突き放すようなことを言ってくれた。
「さっきも言ったよね。俺はもう君を愛することはできない。だからもう「旦那さま」とは呼ばないでほしい。もう俺たちは終わっている。だから君が俺の正妻なんてことはありえない」
「旦那さま」は目を閉ざされてしまった。これ以上話すことはないと言われているようなものだった。
どうすればいいんだろう? どうすれば「旦那さま」の心を手に入れられるんだろう?
どうすれば「旦那さま」の正妻の座を取り戻せるんだろう?
魅了の魔眼はもう通用しない。エリキサという名の一本の草のせいで私の立場は崩されてしまった。
あれの効能の前では、いくら魅了の魔眼を使おうと無意味だ。
ああ、どうすれば、どうすれば捨てられずに済むのだろう!?
どうすればこの人の心の中にもう一度住めるのか? どうすれば。
「……正妻の座を取り戻したいか?」
「え?」
「旦那さま」は背を向けながら言っていた。正妻の座を取り戻す。たしかにそう言われた。そんなことができるのだろうか? いやでも「旦那さま」みずからが言われたことだった。つまりはチャンスをくれるということだった。
「どうなんだ? 正妻の座を取り戻したいかい?」
「取り戻したいです。なにをしてでも」
「じゃあ、教えてほしい。アイリスは何者だ?」
私の妹です。そういうのはたやすかった。けれどあの子を裏切ることになる。それだけはしたくない。
あの子だけじゃない。アリアだって私は裏切りたくない。
アイリスとは違って、私にとっては駒に近い存在ではあるけれど、それでもアリアも私の妹だった。そんな妹を裏切れるわけがなかった。
「答えられないなら、もう俺の前に立たないでほしい。俺も君を見ることは」
「答えます! だから、だから捨てないで。捨てないでください、「旦那さま」」
縋りながら私は叫んでいた。「旦那さま」はなにも言わない。
ただその目は雄弁に物語っていた。私に真実を話せと。その目に促されるように私は、アイリスのことを話してしまった。




