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Sal2-63 アンジュとフェンリル その2

 部屋に備えつけられたテーブルにティーカップが並ぶ。


 私の分と相手の分。


 並々と注がれたカップの中の水面には、私と相手の顔が映り込んでいる。


 見た目はプロキオンのまま、私とあの人の娘のまま。


 だけど、その中身はまるで違ってしまっている。

「どうぞ」


「……馳走になる」


 彼女は、頭を垂れて一礼すると、手慣れた所作でカップを握り、音も立てずに紅茶を啜っていく。


「ミルクとお砂糖は?」


「必要ない。十分に甘露だ」


「そう?」


「あぁ。それに」


「それに?」


「いま甘いものを摂取しようものならば、プロキオンにも影響が出てしまうからな」


 ミルクも砂糖もない紅茶を啜る様は、実に上品だった。


 それこそ貴婦人のようにさえ見えるほどに。


 プロキオンも年齢にしてみれば品はあるのだけど、まだまだ子供だから、無邪気さが勝ってしまう。


 特に紅茶にミルクもお砂糖も入れないなんてことはプロキオンはしないね。


 とはいえ、ベティのようにドバドバと大量に投入するわけではなく、あくまも風味付けというか、紅茶特有の渋みを和らげる程度には入れているかな。


 ベティほどではないけれど、プロキオンも甘い物は大好きだから、ミルクと砂糖ドバドバな紅茶も飲むと言えば飲むけれど、あの子の嗜好的には風味付け程度のミルクと砂糖が一番好ましいみたい。


 そんなプロキオンとは違い、彼女はミルクも砂糖もいらないと言い切ったし、十分に甘いとも言っていた。


 今回の茶葉はプロキオンが好きなもので、あの人も好きだった夏詰みの茶葉で、甘いと言えば甘い。


 プロキオンだとまだ特有の甘みまではわからないと思う。


 その甘みを理解できている時点で、彼女とプロキオンが別人なのは明らかだった。


 成熟した味覚の持ち主だということ。


 そのうえで、彼女はプロキオンに影響があると言ってくれた。


 甘いものを摂取して影響が出ること。


 考えられるとすれば、体重の増加とか、虫歯の恐れとかかな?


 でも、それはさすがにないか。


 いくらなんでも彼女がそんなことを気にするとは思えない。


 私たちのそばにいない間に、どんな関係を築いていたかは知らないけれど、伝承で知る限りの彼女であれば、そんな些細なことを気にするようにはとてもではないけれど思えなかった。


「というと?」


「……いくら、まだ幼少の頃とはいえ、夜中に甘いものを摂取するのは健康に悪い」


「……あなたが、それを言うんだ?」


 まさかの返答だった。想定外にもほどがある発言に、私はあ然としてしまった。


 いや、驚愕としたという方が正しいかな? それほどまでに彼女の一言は私が知識として知る彼女とはかけ離れたものだったから。


「我をからかっているのか? それとも単純に驚いているのかな?」


「純粋に後者だよ。まぁ、前者が完全にないとは言い切れないけれど、少なくとも驚きが勝っていることは間違いない」


「……左様か。まぁ、あなたにしてみれば、我がそういう気遣いをするという方がおかしいだろうしな。無理もない」


 再び静かに紅茶を啜る彼女。


 その言葉も、その所作もプロキオンとはまるで違っている。


 味覚が成熟しているように、立ち振る舞い自体が成熟している。成熟した大人と対峙しているようには私には感じられた。


 その大人である彼女が、私とあの人の娘であるプロキオンの体を用いている。


 なんとも頭がおかしくなりそうな光景だね。


 でも、当の彼女は気にしていないのか、それとも気にしない振りをしているのか、実に落ち着いた様子で紅茶を啜っている。


 私も彼女に倣って紅茶を啜り、喉を潤わせた。


「さて、それじゃ本題を口にしてもいいかな?」


「あぁ、もちろんだ。新しき女神よ。そのために我はこうしてあの子が眠るのを待っていたのだから」


「あの子には聞かれたくない話題ということ?」


「……ある意味ではな。あの子自身が体験してきたことだ。改めて語られたくはないだろうからな」


「……あの子にとってはキツい内容かな?」


「そうだ。だからこそ、あなたには知っておいてほしい。あの子が母と慕うあなたにな」


 彼女はまっすぐに私を見つめていた。


 瞳の色はプロキオンと同じ紅。同じ紅でもプロキオンの色がルビーとすれば、彼女のそれは血のような紅。明るく透き通ったものではなく、暗く澱んだような色。


 でも、以前に見たときの、プロキオンの意識を完全に飲み込んでいたときのような禍々しさも狂気も感じられなかった。

 

 あるのはただ落ち着いた光だけ。


 数十年程度の人生では決して得ることなどできないような落ち着き。


 それこそ、同じ貴婦人でも大公の奥方などの老貴婦人のような、人生の酸いも甘いも経験した老貴婦人のようにさえ感じられた。


「……どういうことなのかは、なんとなく窺えるのだけど、教えて貰えるかな、フェンリル」


「あぁ、もちろんだ。新しき女神。いや、アンジュ殿とお呼びするべきかな?」


「……あなたの呼びやすい方でいい」


「では、アンジュ殿とお呼びしよう。本来であれば、我の方が格下ではあるが、公の場ではないのだ。無礼講とさせていただきたい」


「構わないよ。そもそも畏まられるのはあまり好きじゃない」


「……左様か。だが、それでも守るべき礼というものは存在する。ゆえにあまり砕けすぎない程度に畏まらせていただくが、いかがか?」


「構わない。そう言ったばかりじゃなかったかな?」


「そうだな。では、この調子で語らせていただこうか」


 彼女は、フェンリルはおかしそうに笑っていた。


 その笑い方ひとつ取っても、プロキオンとはやはり別人だった。


 プロキオンの笑顔は年齢相応の無邪気なもので、実に愛らしい。


 対してフェンリルの笑顔は、落ち着き払った大人のもの。


 そこまで大きく表情を変化させずに、口元をわずかに綻ばせる程度。


 そのわずかに綻ばせるだけで、笑顔を浮かべてくれたのがわかる。


 そういうところも、プロキオンとフェンリルの年齢の差が実によく出ていた。


「それでフェンリル」


「うむ」


「あなたが表に出てきた理由を語ってもらえる?」


「あなたならば、すでにわかっていることであろうがな」


「……どれくらい?」


「……群れが十、個体で数十というところかな。中には個体のくせして、群れ相当の数を周囲から呼び寄せる厄介なのもいたな」


 あれには手こずらされた、とフェンリルは溜め息を吐く。


 群れ相当の数を呼び寄せる魔物なんて、厄介にもほどがある。


 そんな相手ともプロキオンは戦ったのか。


 ……強くなるために。強くなって香恋さんを殺し、あの人を取りもどすために。


「……ねぇ、群れってことはさ」


「……あぁ、いたよ。ベティとそう歳の変わらぬ子もな。それさえもあの子は」


「……そっか」


 どう言えばいいのか、わからなかった。


 フェンリルの教えてくれたことは、想定内のものだった。


 想定内ではあるけれど、あまりにも業の深いもの。


 あの子だけでは背負いきれないものだった。


 それでも、あの子のことだから、ひとりでもどうにかしようとするんだろうね。


 私たちにはそんな素振りを一切見せず、ただ笑っていようとするんだろうね。


 本当に困った娘だよ。


「……魘されることは?」


「時折だが、その分魘されるときは連日のように魘されていた。何度も何度も「ごめんなさい」と謝っていたよ。……あの子が悪いわけではないのにね」


「……そっか」


 目の前にいるフェンリルを抱きしめそうになった。


 もし、目の前にいるのがフェンリルではなければ、プロキオン本人であれば強く抱きしめていたと思う。


「……アンジュ殿。すまなかった。あの子に辛いものを背負わせてしまった」


「……あの子自身が選んだことだから」


「それでも謝らせてほしい。申し訳ありませんでした」


 フェンリルはそう言って深く頭を下げてくれた。


 自分の責任だとフェンリルは言う。


 たしかにフェンリルにも責任はある。


 だけど、すべてはあの子自身の選択だった。


 あの子がそうなるように選んだだけ。


 だからフェンリルの責任はそこまで大きいわけではない。


 むしろ、責任を問われるべきなのは、私の方。


 あの日、あのとき、私がもっと寄り添っていられたら。


 思考停止なんてせずに、あの人みたいに動けていればよかったんだ。


 そうすればきっとプロキオンが罪を背負うことはなかったのだから。


 そう、すべては私が悪い。


 あの子の母親であるのに、母親としてするべきことをしてあげられなかった。


 責められるべきは私であり、フェンリルではないんだ。


 だからこそ、私はフェンリルを責められない。責められるわけがない。


 できることがあるとすれば、それは──。


「……ありがとう、フェンリル」


「え?」


「……私たちがそばにいないとき、あの子のそばにいてくれてありがとう。あの子を想ってくれてありがとう。あの子のために涙を流してくれ、ありがとうございます」


 ──声もなく涙を流すフェンリルへの謝礼を口にするべきだった。


 私たちがするべきこと。


 そのすべてを肩代わりしてくれたわけじゃない。


 それでも、あの子のそばにいてくれたことを、お礼したかった。


「お礼を言われることではない」


「それでも言いたかったんだ」


「……あなたは、本当にあの子の母親だな。そういう心根がよく似ている」


「それは私のセリフだよ、フェンリルおばあさん」


「……参ったな、聞こえていたのか」


「ううん、聞こえていなかったよ。だけど、こうしてあなたと話をしてわかった。あの子があのとき言った「おばあちゃん」っていうのが貴女のことだというのがね。……これからもあの子を支えてくれませんか? 今後は私も頑張りますので」


「もちろんだ。できうる限りのことをしよう。あの子はかわいい孫娘だからな」


 フェンリルは、いや、おばあさんは涙を拭って笑ってくれた。


 その笑顔はすこし前に見た大人びたものではなく、プロキオンの笑顔によく似たものだった。


 私とプロキオンがよく似ているというけれど、おばあさんもプロキオンと似ている。


 恥ずかしがられるだけだろうから、あえて言うことはしないけれどね。


「……ねぇ、おばあさん」


「なにか?」


「話をしてもらえる? あの子がどんな生活をしていたのかを」


「長くなりますよ?」


「大丈夫」


 指を鳴らして、「刻の世界」を発動させる。おばあさんは一瞬目を見開くも、すぐに呆れたように溜め息を吐いてしまった。


「やれやれ、娘の話を聞くためだけに時間の経過を遅くさせるなぞ、親バカですな」


「あら、いまさら気付きまして?」


「まさか。とっくに気付いておりますよ」


 おばあさんと一緒に笑い合う。プロキオンには弱いのだということはお互いによくわかっていることだった。


「それでは、ゆるりと語りましょうか」


「ええ、存分に」


「ははは、お手柔からに」


 おばあさんは苦笑いしていた。苦笑いするおばあさんを見つめながら、私とおばあさんはプロキオンについてを長く語った。


 大変なものを背負うことになったあの子の幸福を祈りながら、お互いの知るプロキオンの話を遅くまで語っていったんだ。

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