Sal2-55 浮気と再会
通りの向こう側からは数人の子供の声が聞こえていた。
子供たちはずいぶんとはしゃいでいるみたいで、元気に遊んでいるようだった。
やっぱり子供は元気に遊ぶものだよね。
平和という言葉で一番連想しやすいもの。それは子供たちが元気よく笑って過ごせること。
昔、読んだ本でそんな記述があったけれど、当時は「どういうことだろう?」と思ったけれど、いまはそれがよく理解できる。
平和でなくなると、真っ先に子供の声が失われる。
それは子供たちが笑う気力を失うということもあるけれど、子供たちは真っ先に安全な場所へと避難させられるからもある。
危険な場所では子供たちの笑い声は聞こえてこない。
安全な場所でなければ、命の危険もなく、穏やかに過ごせる場所でなければ、子供たちの笑い声は聞こえない。
その点、この街はいまのところ安全で、平和なんだろうね。
子供たちの笑い声を聞きながら私はしみじみとそう思った。
「──そろそろ落ち着いた? ルクレ」
「……ええ、どうにか」
子供たちの笑い声を聞きながら、私は隣に座るルクレを見つめていた。
地下でいろいろとあって、すっかりと意気消沈してしまったルクレ。
そんなルクレを連れ出して、私はお店の外に出ていた。
ちょうど裏口の階段にふたりして腰掛けながら、よく晴れた青空の下で、いままで無言でいた。
無言だったのは、それまでルクレが声もなく泣いていたからというのが大きい。
ルクレがそこまでなってしまったのは、ベティによる思わぬ一撃を受けてしまったからだね。
ルクレも悪気があったわけではなかったんだろうけれど、ルリちゃんじゃなく、ルリちゃんの中に眠っていたカティちゃんに、ベティが「お姉ちゃん」と慕うカティちゃんに「犬」と呼んでしまったのが仇となってしまったんだ。
まぁ、そうなってしまったのも、カティちゃんがルクレを散々煽ってしまったからなんだけど。
どうしてあそこまでルクレを煽ったのかは、なんとなく理解できた。
最近のルクレは、あの人が眠ってからのルクレは精神的にだいぶ不安定になってしまっている。
些細なことで騒ぎ出したり、ヤキモチを妬いたりしてしまっている。
そんなルクレをベティは若干邪険にしているんだよね。
ベティから嫌われているわけではないけれど、いまのままだといつか嫌われてしまいかねないところまで、ルクレは行き着きそうだった。
そうなる前にどうにかしないといけないのだけど、あいにく私もつい先日までルクレのことではなく、自分のことで精一杯すぎた。
それにルクレの問題はまだそこまで表面化していなかったというのも、ルクレの問題に手をつけなかった理由だった。
もし、あの人がいれば、とっくにルクレの問題に関しては決着を着けていたと思う。
でも、いま表に出ているのはあの人ではなく、香恋さんだ。
香恋さんにあの人のするべきことを肩代わりさせるのは、さすがにかわいそうだった。
そもそも、ルクレが香恋さんの話を聞いてくれるかもわからないからね。
だからこそ、一時的に放置をしていたのだけど、その放置をしていた問題が、いま完全に表面化してしまったんだ。
結果、ルクレはベティから「もうおかーさんじゃない」と言われてしまい、抜け殻みたいになって泣きじゃくってしまったわけ。
そんなルクレをこうして私は外に連れ出し、いままで黙って寄り添っていたんだ。
でも、それもルクレがようやく泣き止んでくれたので、そろそろ話を聞こうと思い、声を懸けた。
声を懸けるとルクレは、完全に意気消沈したように小さな声で頷いてくれた。
かなり重傷だけど、それも仕方がないか。
ルクレにとって、ベティがどれほど大切な存在なのかは私もよぉく知っている。
いまの私になる前は、ルクレとベティの仲のよさを羨んでいたもの。
いまの私になる少し前に、ベティは私を「まま」と呼んでくれるようになって、それまでのような邪険な扱いはされなくなった。
それでも、ベティにとって「おかーさん」であるルクレは特別なはず。
それはルクレだって同じ。プロキオンのこともかわいがってくれていたけれど、ルクレにとって一番はベティだった。
お互いに特別だと思っているはずのふたりの間に亀裂が入ってしまった。
もともと燻っていた問題が、カティちゃんの煽りを受けて肥大化した結果ではあるけれど、結果を生じさせた原因はルクレにある以上、私もどう接してあげればいいのかは、よくわからない。
わからないけれど、「わからない」からと言って放置していいと思わなかった。
だからこそ、私はこうしてここにいるわけなのだけど、さて、どうしたものかな?
「……アンジュ」
「うん?」
「……私は「おかーさん」失格なんでしょうか」
「……そう、だねぇ。どうなのかなぁ。最近のルクレは余裕なさすぎたからね?」
「……そんなに余裕なかったでしょうか?」
「うん。それは自信を持って言えるよ。あの人がいたときはまるで別人みたいだなと思う」
「……別人」
「うん。ベティの大好きな「おかーさん」であるルクレとはだいぶずれてしまっていたよね」
「……」
ルクレはなにも言わずに、両手をぐっと握りしめていた。
「……ねぇ、ルクレ」
「なんです?」
「ルクレもさ、香恋さんと寝てみない?」
「え?」
ルクレは意味がわからないとはっきりと顔に書きながら私を見つめていた。
まぁ、私も自分でなに言っているんだろうと思うけれど、わりとありだとは思うんだよね。
「ルクレの余裕のなさは、いろいろと溜めこみすぎているからだと思うんだ。だから、一回発散するために、香恋さんと寝てみるのもありじゃないかなぁと」
「……私は旦那様に貞操を捧げていますし、旦那様に失礼です」
「その旦那様であるあの人がいけないんだよ」
「え?」
「だってさ、いまみたいなことになっているのは、ぜぇんぶ、あの人が悪いんだよ? ……親バカなのはわかっていたけれど、だからと言って、自分の命を投げ捨てるバカがいるかって思わない?」
ははは、と私は笑った。笑いながら視界が歪んでいた。
視界を歪ませながら、ルクレを見やると、「……アンジュ」と悲しそうに私を見つめていた。
「だから、少しくらい意趣返しとして、浮気くらいは目を瞑ってほしいと思わない? そもそも、あの人だって傍から見れば浮気しまくりなんだから、私たちだって他の人とそういう関係を持っても文句を言われる筋合いはありません」
「……でも、その相手は香恋さんですよ? 旦那様のお姉さんで、お体は旦那様だし」
「そう。だからこそより都合がいいでしょう? 中身は違うけれど、外側は同じ人なんだから」
「なんですか、その理屈?」
「ん~? 屁理屈?」
「自分で言いますか、それ?」
ルクレがおかしそうに笑っていた。私も同じように笑っていた。
まったく解決策にはなっていない。
それでも、少しでもルクレの気持ちが上向きになればいい。そう思っていた。そんなときだった。
「『ママ?』」
聞き間違えるはずもない声が耳朶を打った。
同時に、風が吹いた。
強い風が、周囲の土を巻き上げるほどの強い風が吹いたんだ。
風がやんだとき、あの子が、変わり果てたプロキオンが立っていたんだ。
驚いた顔をしたプロキオンが私とルクレを見て呆然としていた。
呆然とするプロキオンを見て、私は「……プロキオン」と愛おしさを抱きながら、その名前を呼んでいたんだ。




