Act0‐2 お墓参りと母の声
とりあえず、先日に引き続き、更新します。
ちょっと先日は長すぎたので、今回は刻みつつ、更新したいと思います。
あと早速ブックマークしてくださった方、ありがとうございました。
俺が住んでいたのは空見町という町だ。
電車一本で新宿駅に行けるし、準特急が停まるようになってからは、交通の便はよりよくなってくれた。
その分朝の時間帯に踏切が開かない時間が増えてしまい、地元民の不満が増えてしまっていた。
準特急が停まるので、駅は改築された。併せて駅前も再開発されて、駅前だけを見れば都会っぽかった。
けれど駅前から少し離れると、ちらほらと畑が見える。
電車の車窓からも畑を見かけられるけど、その畑は専業農家というわけではなく、税金逃れのための畑だった。
更地にしているよりも畑にしているほうが、税金は安い。真面目に農業をしている人もいるけれど、そう言う人は少数派だった。
大多数は、道楽程度に農業をやっている。最初は道楽だったけど、のめり込んでしまってビニールハウスを建ててしまった人もいる。
土地持ちが多いからか、年配者はわりと裕福だ。そんな土地柄だからか、妻帯しても両親と同居している割合はそれなりに高い。
実際俺の家もそうだ。
うちの家族は、大黒柱である親父にはじまり、兄貴たちとその嫁さんである義姉さん、それにじいちゃんと俺で構成されている。
うちも一応土地持ちだった。
ただの土地持ちではなく、会社を経営している。
ほぼ家族経営の会社で、名前は「なんでも屋すけひと」だ。
なんでも屋ではあるけれど、いまは清掃部門と地域部門に分かれていて、基本は清掃メインになっている。
親父の代になってから、清掃部門がメインになったらしいが、俺が所属しているのは地域部門だ。
なんでも屋の屋号の通り、犬の散歩やじいさんばあさんの話し相手まで、なんでもしている。
そんな地域部門の仕事を今日も無事に終えて、幼なじみ兼嫁(仮)の希望と一緒におばあちゃんに会いに行ったんだ。
おばあちゃんがいるのは、見上げるほどに高く長い階段を登った先だ。
まだセミが鳴く季節には早いけれど、高く長い階段には、セミの鳴き声がBGMというイメージがある。
セミが鳴く頃にはいまの格好━━「すけひと」の社名が入った黒いつなぎだと、罰ゲームかなにかかという状況になるのだけど、いまの季節はまだそういうことにはならない。
長い階段を前にして、手足を捻っての準備体操をしていく。そんな俺を希望は呆れた顔をして見ていた。
「香恋って本当におバカだよね」
「希望もする?」
「しないよ。意味ないもん」
希望は首を振っていた。残念だなと思いつつ、希望より先に階段へと向かって駆け出した。階段を駆け上がるにつれて、空が近づいてくる。
俺は昔から空が好きだ。
物心がついたときには、空をいつも見上げていた。
昔からわりと飽きっぽい性格だけど空を見上げることだけは飽きることはない。
その空に近づける階段を駆け上がる。
我ながら、若いなぁと思う。
町内会のじいさんやばあさんが見たら、きっと笑われてしまう。実際に、希望には呆れられてしまっているから、もうどうしようもない。
「なんで青春一直線なんてするかな?」
希望はいつもそう言う。時々呆れつつも付き合ってくれるけど、希望は体力がないから、早々にギブアップするか、汗まみれになって荒い呼吸を繰り返すかのどちらかになる。
その姿がとんでもなくエロいのは言うまでもない。これだから巨乳さんは困るんだよね。なにをしてもエロティックになるんだもん!
……希望を巨乳にしたのは俺ですけどね?
ただあえて言おう。ああなるとは思っていなかった、と!
だってさ、同性の幼なじみに毎日乳を揉まれた程度で、巨乳化するなんて誰が思いますか?
俺は思いませんでした。その結果が、十五才にしてFカップです。なお、俺のハンドパワーが通じるのは希望だけみたいで、ほかの子に試してもまるで変化がありません。
第一揉んでも楽しくないんだもん! やっぱり希望じゃないとダメですわ。あの感触を知ったらほかの乳なんざ、ね。
その分、希望はしっかりと守りますよ?
下半身で物事を考えるケダモノどもに希望を渡してたまるもんかよ。そんなのに渡すくらいならば、名実ともに俺の嫁にするわ!
もしかしたらそれがいけないんだろうか?希望の親父さん、おじさんには早く結婚して孫の顔を見せろと言われていますよ。
……おじさんには同性では子供を作れないということから理解してもらわなきゃいけないようだ。
というかさ、ご近所さん方のだいたいが希望=俺の嫁という図式になっているのはどういうことなのかな?
しまいには小学生のボーイ&ガールズ(低学年)からは、「希望お姉ちゃんが香恋お姉ちゃんとの赤ちゃんを産んだら、名前一緒に考えてもいい?」などと言われる始末!
……本当になんなん?
なんで外堀を埋められているのさ、俺は!?
俺がなにをした!?
……心当たりが多すぎて、どれから言えばいいのかはわからないけど、それでもこうも外堀を埋められなきゃいけない謂れはないはずだ!
そんな不満が爆発して、こうして階段を駆け上がるんだ。空を見るのも好きだけど、それ以上に汗だくになることで心のなかのモヤモヤを吹き飛ばす。それが俺のいつものストレス発散方法だった。
どんな発散法だよとは思うけど、それでも階段を駆け上がっていくのをやめることができない。
息を切らしながら、どうにか階段を駆け上がると、そのまますぐに境内の真ん中で倒れ込む。視界いっぱいに青空が広がっていた。空の色は希望を思わせてくれる。ここに来ても希望のことばかり。実際だいぶ下に希望がいるけど、いまはまだ同じ場所にはいない。だからか希望のことを考えてしまっていた。
俺はノーマルだと思っているけど、希望が誰かと付き合うのは嫌だった。希望と付き合いたいなら、俺を倒してからにしろと思っている。
それがどういうことなのかは自分でもわからない。でも、それでいいと思っていた。希望か俺のどちらかに好きな人ができるまで、いまのままでいい。そんなことを考えながら空を見上げていた。
つなぎの下に着ている肌着が、汗で肌にくっついてしまっている。
ほんの少しだけ気持ちが悪いけれど、ちょうどいい風が吹いてくれた。吹き抜けていく風がすごく心地よかった。
「香恋ちゃん、またやったのかい?」
おかしそうに笑う声が頭上から聞こえた。
頭を倒すと、まだ若いのに頭がつるぴかとしている人がいる。
身長は高く、体つきは身長に対して細い。紺色の僧服を着ているから、余計に細く見える。
紺色の僧服を着ているのもここのご住職だし、頭がつるぴかなのも、ご住職ゆえのものだから無理もない。
「一心さん、こんにちは」
ネックスプリングで起き上がり、振り返って挨拶をする。
ここ空廻寺の住職である小野寺一心さんだった。
一心さんは、俺の上の兄である毅兄貴の幼なじみで、希望の従兄だ。昔はよく俺に稽古をつけてくれていたが、 ここ数年は、修行に忙しくて、稽古をつけてもらえていない。
最近になってようやく修行もひと段落したみたいで、数年ぶりに顔を合せることができるようになった。
そんな一心さんが、苦笑いしながらも、こんにちは、と返事してくれた。
「相変わらず、香恋ちゃんは見た目とはまるで違うねぇ。いまも倒れたばかりだというのに、そうやって軽々と立ち上がるなんて。僕にはできないことだなぁ。こっちももう僕よりも強くなっているんじゃないかな?」
腰を落とし、左右交互で正拳突きを出しながら、一心さんはそんなバカなことを言ってくれる。
一心さんの正拳突きは目で追えなかった。
気合を発してもらい、独特の風切り音が二回聞こえたから、正拳突きを出したんだとわかっただけで、左右交互に繰り出されるのを見たわけじゃない。
だって俺がようやく目で追えたときには、一心さんは残心を終えていたのだから。
そんなざまでこの人よりも強くなったなんて言えるわけがなかった。
そもそもいまの正拳突きだって、遊びの感覚でやっただけだろうから、まったく本気ではない。
それでも俺には目で追えなかったのだから、一心さんの実力がさび付いていないのは明らかだった。
「なぁに言っているんだか、この若ハゲは」
「これは剃ったの。若ハゲではないよ」
「はいはい、そういうことにしておきますよぉ」
「……毅みたいなことを言って。そんなんじゃお嫁の貰い手がなくなりますよ? あ、香恋ちゃんには希望がいたか」
「……女同士は結婚できないからね?」
一心さんはからかうように、希望の名前を出した。……本当、どこまで俺と希望の仲は認知されているんですかね?
「そんなつまらないことはいいからさ、早く子供を作っちゃいなよ? 香恋ちゃんなら、僕のかわいい妹を任せられるし」
「……妹じゃなく従妹でしょう?」
「だからそういうことはいいんだってば。で、実際のところどうなの? 希望で卒業したの?」
にやにやと笑いながら肩を組んでくる一心さん。大きなお世話だよと言いたい。言ったところで聞いてくれるわけもないのだろうけれど。
「……そもそもそんなもんありませんからね?」
「わかっている、わかっている。一心さんは全部わかっていますよ」
なにがわかっているんだか、なんて言っても聞いてはくれないんだろうなぁ。ご近所さん方も含めて俺の周りって話を聞かない人が多すぎませんかね?
「なにがわかっているのかな?」
「もちろん、香恋ちゃんが希望で卒業をしたと──うん?」
軽快にアホなことを言ってくれていた一心さんの動きが止まる。明らかに汗をだらだらと流し始めた。誰に言ってしまったのかを理解したようで、恐る恐ると振り返り──。
「卒業ってなんのことかな?「お兄ちゃん」?」
にっこりと笑う希望とこんにちはしていた。いつもの「いち兄」ではなく、「お兄ちゃん」と言う辺り、希望の怒りが深いことがわかる。そんな希望の怒りに触れ、一心さんの表情が大きく変わる。某ボーダーラインな漫画家さんの作品チックに叫んでいた。
「の、希望!? ど、どうしてここに!」
「香恋と一緒に暁子おばあちゃんに会いに来たんだよ。さて、いち兄、覚悟はいいよね?」
にこにこと笑いながら希望が拳を鳴らした。その後どうなったのかは言うまでもない。強いて言えば、一心さんの右頬に大きな紅葉が咲いたとだけ言っておこうか。
「さて、それで今日は暁子さんかな?」
「ああ、うん。なにも持ってきていないけど」
「お花くらいは持ってこようと言ったんだけどね」
希望が呆れたようにため息を吐いた。俺個人で来る場合はいつものことなのだけど、希望はそれが不満のようだ。俺とおばあちゃんの仲なのに。
「親しき仲にもだよ?」
「まぁまぁ、いいじゃないか、希望。こういうのは気持ちだし。それになにかを持ってきても、暁子さんにはどうすることもできないからね。こういうのはなんだけど、お供えものというのは、所詮はその人の自己満足だからね」
「それはそうかもしれないけれど、住職がそんなことを言ってもいいのかよ」
「そうだよ、いち兄。それでも住職なの?」
「いいんだよ。だって僕には信心なんてかけらもないもの。信じるものは救われると言うけれど、神さまも仏さまも信心深い人からお救いになったとしても、どうしても時間はかかるからね。都合のいいときに、お救いしてくれることなんてそうそうないよ。信じるものは救われるというのは、信者を増やしてお布施を集めるためのこちらからの方便みたいなものだもの」
「……普通住職はそういうこと言わないって」
「いいんだよ。僕はなまくさ坊主だもの」
一心さんが笑い飛ばした。その笑い声の中に、どうしようもない屈託を感じたけれど、俺にはどうすることもできない。
その屈託でこの人が狂っているわけでもないし、屈託を抱えて周囲に迷惑をかけているわけでもない。
毅兄貴もこのことに関してはなにも言わない。なにも言わないまま、一心さんといまも付き合っている。
「まぁ、いいや。一心さんのことはどうでもいいし。というかさ、忙しいでしょう?」
「そうでもないよ? まぁ、暇って訳でもないけど。でも、香恋ちゃんと暁子さん、あと希望とのデートの邪魔するのも悪いかな?」
「で、デートなんてしていないし!」
希望が顔を真っ赤にして叫んだ。でも一心さんはさっきの仕返しとばかりににやにやと笑っている。うん、実に意地の悪い笑顔でございます。
「あはは、否定するなら顔を真っ赤にしていたら説得力ないよ、希望。とにかくお暑いふたりの邪魔をするのも悪いから、僕はこの辺で。では、ごゆっくり」
一心さんは合掌をし、一礼をすると本堂へと向かって行った。そんな一心さんに向かって希望が「バカ兄」と叫んだけれど、一心さんは笑っているだけだった。
「またね、一心さん」
「希望をよろしくね~。あ、ちょうどいい暗がりなら近くにあるけど、ちゃんと服かなにかを先に敷いてあげてから押し倒すか、もしくは抱き抱えながらじゃないと──」
「なにを言っているの!?」
「あははは、またね」
遠ざかっていく一心さんに向かって声をかけると、一心さんは非常にらしい穏やかな笑顔を浮かべながら、そんなおバカなことを言ってくれました。
一心さんが本堂に入っていくまで、希望はさんざん罵倒していたけど、一心さんはどこ吹く風でしたね。ただ、おかけで希望との間で妙な空気が流れていたけどね。試しに「押し倒した方がいい?」と聞くと、「やるな!」と真っ赤な顔で叫ばれました。なんとも言えない雰囲気のなかで、目的であるおばあちゃんのところに向かうことにした。
境内の脇から伸びる、幾重にも踏み馴らされた一本の道を希望と一緒になって道なりに進んでいく。
ほどなくして、視界が開けると視界いっぱいに広がる墓石が所せましにと鎮座していた。
そのうちのひとつ。ちょうど南側で日当たりのいい場所に目的地はあった。
「今年も来たよ、おばあちゃん」
「こんにちは、暁子おばあちゃん」
家名の書かれた墓石の前に座り、希望と一緒に手を合わせながら話しかけた。
当然返事はない。あるわけがない。おばあちゃんはもうどこにもいないのだから。返事なんてしてくれるわけがなかった。
俺のおばあちゃんである鈴木暁子が鬼籍に入ったのは、いまからもう十年くらい前になる。
当時俺は五歳くらいだった。それでもおばあちゃんのことは憶えていた。うっすらとしたものではあるけれど、とても優しかったことを憶えている。
俺には母さんがいないから、おばあちゃんが母さんの代りをしてくれていた。おばあちゃんは、母さんのことをいつもこう言っていた。
「空美ちゃんのことを、香恋ちゃんのお母さんのことを、恨まないであげて」
おばあちゃんは、悲しそうに笑いながら、いつも俺の頭を撫でてくれていた。
恨むもなにも俺は母さんのことをなにも知らない。俺が産まれてすぐに行方不明になってしまったそうだ。
病院で俺を産み、退院したあと、忽然と姿を消してしまった。
親父に愛想を尽かして出て行ってしまったのかな、と思わなくもないけれど、じいちゃんや兄貴たち、それにご近所さん方が言うには、夫婦仲はよかったそうだ。
親父の持っているアルバムには、親父と腕を組んでいる母さんの写真があった。
親父はいつもの仏頂面では考えられないくらいに、顔を真っ赤にしていた。そんな親父を見て母さんは楽しそうに笑っていた。
母さんは日本人離れした、白い髪に白い肌に赤い目をしていた。
アルビノという言葉が思い浮かんだけれど、実際にはわからないけど、その姿はすごく神秘的であり、とてもきれいだった。
その血が流れているから、俺はこんな面をしているのかもしれない。
でも俺の姿は母さんとは似ても似つかない。髪や目の色は親父に似てしまったのかもしれない。
でもふとしたときに見せる表情は、母さんによく似ている、と兄貴たちは言う。
口にはしないけれど、たぶん親父やじいちゃんもそう思っているのかもしれない。いなくなってしまったおばあちゃんもたぶん同じなんだと思う。
だからと言うわけではないだろうけれど、おばあちゃんが母さんを恨まないように、と何度も言っていたのは、俺の外見も関係しているのかもしれない。
俺としては会ったこともない人を恨む気にはなれない。母さんのせいで俺が苦労しているとかであれば、話は別だろうけれど、俺は別に苦労なんてしていない。
母さんはいないけれど、俺には親父がいるし、兄貴たちもいる。義姉さんやじいちゃんだっている。家族ではないけど、一心さんもいるし、なによりもずっとそばには希望がいてくれている。
だからひとりで生きているわけじゃない。母さんがいなくても別に悲しいと思ったことはない。
ただ時折無性に寂しくなることもあるけれど、それでもいつも笑っていられる。
無理に笑っているわけではなく、心の底から笑うことができている。
母さんがいなくてもなにも問題はない。強がりでもなんでもなく、心の底からそう思っていた。
「……ねぇ、おばあちゃん」
このときは、なぜかは知らないけれど、会ったこともない母さんのことが頭から離れてくれなくて、らしくないことを口にしていた。
「俺は母さんに会うことができるのかな? 母さんは俺と会いたいと思ってくれているのかな?」
問いかけたって意味なんかない。それでも気づいたら、おばあちゃんに尋ねていた。希望が「……香恋」と悲しそうに表情を歪ませていた。希望は泣き虫だからこんなことを言えばこうなることくらいはわかっていたのに、俺は言ってしまっていた。
答えてくれる人なんていない問いかけを、意味もなく口にした。感傷に浸ってしまっている。そのせいで希望を泣かせたらなんの意味もないのに。
「ごめんね、希望。妙なことを言って。お詫びにいつものクレープでも──」
奢るよと言おうとしたそのときだ。いきなり墓の周りが輝き始めた。見たこともない紋様が地面に浮かび上がっていく。
慌てて墓から離れようとしたけれど、見えない壁のようなものがいつのまにか出来上がっていて、それ以上先に進むことができなくなっていた。当然壁の中には希望も含まれていた。
「なに、これ!? どうなっているの!?」
希望が慌てている。こんなわけのわからない間も、地面に浮かび上がってきた紋様は光り輝いていく。
いまにも爆発しそうな雰囲気だ。助けを呼ぼうにも、一心さんは本堂に入っていたから気付かない。ほかにお参りに来ている人もいない。
絶体絶命っていうのはこういうことを言うのかもしれない。
「……ふざけんなよ」
どう考えてもデッドエンドまっしぐらだ。だからと言って、希望も巻き込まさせるわけにはいかない。
「なにかは知らねえけど、希望を巻き込むな!」
見えない壁に向かって殴り付ける。骨が折れてしまいそうな衝撃が走るけど、そんなものはどうでもよかった。
「希望は俺が守るんだよ!なのに、希望まで巻き込まさせるんじゃねえ!」
俺ひとりであれば、運が悪かったと諦められる。
けど、ここには希望がいるんだ。希望を守らなきゃいけないんだ。希望を死なせてたまるものか!
「俺の邪魔をするなぁぁぁーっ!」
壁をうち壊すつもりで殴り付ける。だけど、壁は壊れない。壊れてくれない。だけど、それがなんだ!
「消えてなくなれ!」
全力で壁を殴り付けると、壁は音を立てて、砕け散る。
「希望、走れ!」
「う、うん!」
障害はなくなった。一時的かどうかは知らないけど、このチャンスを逃す手はない。希望を先に走らせて、希望が紋様の範囲外に出たのを確認してから俺も出ようとした。
「香恋」
聞いたことのない声が聞こえた。いや、かすかに覚えている声。走り出そうとした脚を止めてしまう。希望の悲鳴じみた叫びが聞こえたことで、慌てて範囲外に出ようとした。けど、もう遅かった。光の壁が俺と希望の間に出来上がっていた。
「香恋! 香恋を出して!」
希望が壁を叩く。けれど、壁は光り続けている。さっきはどういうわけか壊すことができた。でもそれは俺が希望を巻き込みたくなかったから。希望だけは守りたかったからだ。
でも、もう希望は助けられた。仮にさっきのが、火事場の馬鹿力であれば、これ以上発揮することはない。
いや、希望をまだ巻き込まないと決まったわけじゃないんだ。まだ安心はできない。できないけど、たぶん大丈夫だと思えた。聞こえてきた声は、明らかに俺を呼んでいた。つまりは主目的は俺であり、希望は関係ないということだった。
「希望、離れて」
「嫌だよ! 香恋を助けるの!」
希望は泣きながら壁を叩いていた。手はもう真っ赤だ。このままだと手を切って血を流してしまいそうだ。
希望が怪我をするところなんて、もう見たくはなかった。
「俺なら大丈夫だよ」
「どうしてそんなことが言えるの!?こんなわけがわからない状況なのに!」
たしかにその通りだ。
現状はわけがわからない。
でも確信はあった。自分でも理由はわからないけど、確信と呼べるだけのなにかが胸の内側に存在していた。
「大丈夫だよ。すぐにまた会える。だから下がっていてよ」
すぐに会えるかどうかはわからない。もしかしたらこれが今生の別れってことは十分にありえる。それでも希望を安心させたくて、精いっぱいの笑顔を浮かべた。
「……約束してくれる?」
「約束?」
「絶対すぐにまた会えるって、約束してよ!じゃないと──」
「……馬鹿だな、希望は。俺が希望との約束を破ったことあるか?」
「ないよ。いままで一度もなかった」
「なら信じてよ。すぐにまた会えるから。だから下がっていてよ」
いままで一度も約束は破らなかった。
だけど、今回は初めて約束を破ることになりそうだった。
希望だってわかっている。それでも、それでも希望は──。
「絶対だからね? 破ったら、彼氏作るからね!」
「そいつは困るなぁ。うん、絶対に約束を守らないとなぁ」
笑うと希望もまた笑っていた。
希望がゆっくりと下がった。同時に壁がいままで以上に光り輝いていく。
「香恋!」
希望が叫ぶ。
けど、どんなに叫んだところで壁を壊すことはできない。
きっとこの壁は俺を逃がさないためのもの。なんとなくだけど、それがわかる。だからこそ俺は抵抗しない。そう、抵抗はしない。代わりに──。
「抵抗はしない。だから希望は巻き込まないでくれ」
さっき聞こえた声の主に向かって言う。
誰の声なのかはわからない。うっすらと聞き覚えはあるけど、それだけだった。
でも声が聞こえてきたということは、これは人工的なものってことだ。
俺になんの用があるのかは知らないけど、俺を確保するのが目的なら、俺が抵抗しないのであらば、希望を巻き込む必要はないはずだ。希望を巻き込もうとしたのは、体のいい人質にするつもりなんだろう。
でも希望はこの壁の中から出てしまった。もう人質にはできない。
それでも希望に、危害を加えるかもしれない。だからこその取引だ。
「取引だ。俺をどうしたって構わない。だから希望だけは巻き込むな」
声の主に向かって語りかけるも、返事はない。返事を待つ間もどんどん輝きは増していく。そして視界のすべてが光に覆われたとき、俺は──。
「あなたの願い、聞き届けましょう。おいでなさい、香恋」
光の中で嬉しそうに、でもどこか申し訳なさそうに笑っている母さんを見た気がした。
「かあさん?」
光の中にいる母さんに声をかけ、母さんがなにかを言おうとしたところで、俺の意識はぷっつりと途切れた。