Sal2-20 迫る終わり
風が吹き抜けていく。
「エルシディア」の街中を吹き抜ける風は、荒々しくはなく、とても心地いい。
私の髪は短く切り揃えてあるけれど、それでも吹き抜ける風によって、髪が煽られてしまう。
荷物の持っていない左手で、髪を押さえつける。
髪を押さえつけているのは、私だけじゃなかった。
目に見える範囲でいる女性の大抵が髪を押さえつけていた。
中にはスカートが短かったからゆえか、風によって裾がだいぶ捲れてしまい、慌てて押さえつける女性もいる。
風によってスカートを捲られてしまった女性は、顔を真っ赤にしていた。
反面、周囲にいた男性は「いいものを見られた」とばかりに鼻の下を伸ばしている。
女性は居たたまれなかったみたいで、そそくさとその場を立ち去っていった。
「不運な女子じゃな」
隣にいるルリ様が、なんとも哀れそうな目を件の女性に向けていた。
ルリ様の言葉に私も「そうですね」と頷いた。
同じ女性から見て、件の女性はあまりにも哀れだった。
見た目はそれなりに整っているし、体つきも非常に女性らしいもの。
だからこそ、その女性らしさをアピールするために、スカートを短めにしていたのだろうけれど、それが徒となってしまった。
その点、私は基本的にパンツルックだから、どれほど強い風が吹いても、捲られることはありえない。
……捲られることはないけれど、常にパンツルックというのは女性としてはどうなのだろうと思うけども。
かといって、下手にスカートを身につけて、あの女性みたく風に煽られても困るのだけど。
特に私は誰にも肌を見せようとは思っていない。
任務によってではあるけれど、男に抱かれることもあったから、肌を露出することに忌避感があるわけじゃない。
そう、肌を見せることくらいは別に問題はない。それこそ先ほどの女性のように下着を見せたとしても、特に思うことはない。
が、それでも私はたやすく赤の他人に肌を見せたり、下着を見せたりはしない。当然、その先も見せることはしないし、触らせることもしない。
私がそうするのは、私自身が選んだ人だけ。そういう関係を持っても問題はないと判断とした人だけだ。
その点で言えばレン様は、主様は私にとって最上の人だった。
少しばかりうかつな人ではあったけれど、それを補って余りある魅力のある人だった。
そんな主様をいつからか私は心の底から愛していた。
最初は贖罪だった。罪を償うために、私だけではなく、姉様の罪を償うために私は甘んじて主様の従者となることを決めた。
たとえ、この命が尽き、生まれ変わったとしても、未来永劫、あの方の従者であり続けることを決めた。
その最中で、私はあの人に心を奪われてしまった。
かつて姉様がそうだったように、私もまた主様の女になることを望んでしまった。
姉様と違うのは、姉様は結局キスはできても、主様に抱かれなかったが、私はカルディアさんの代わりに主様に定期的に抱かれた。
同じ人に想いを抱いても抱かれることのなかった姉様と、何度も抱いてもらえた私。
違いはほんのわずか。
でも、そのわずかな違いが決定的な差を生じていた。
とはいえ、それももう終わった話。
主様はもういない。
主様の体を使って、主様のように振る舞う化け物はいるけれど、私はあの化け物を主様だと思ってはいない。
見目も声もまなざしも。すべてが主様そのものであっても、中身がまるで違うのだ。
あれは主様ではなく、ただの化け物だった。
その化け物は化け物である本性を隠して、私たちの仲間として振る舞っている。
仲間面をする化け物相手でも、私は主様の従者として従順に振る舞っている。
従順に振る舞いはするけれど、私があれに体を許すことはない。
たとえどれほどに求められたとしても、私があれに体を許すことは絶対にありえない。
それは私だけではなく、主様の女であれば、誰だって同じだと思っていた。
だけど、どんなとき、どんな場所にも例外は必ずいるものだった。
それがアンジュ様だった。
かつては呼び捨てにしたり、痛めつけたりすることもできた人。
だが、いまの彼女はあまりにも格上の存在となってしまっている。
いまや、私ではなにをしても彼女を痛めつけることはできない。
むしろ、危害を加えようと考えるだけで、まだなにもしていない段階でも「報復」をされる可能性もありえた。
それほどまでに彼女はでたらめな存在へとなってしまっている。
スカイディア様と同じ神になってしまっていた。
しかも、こちらにはその神があと二柱いる。アンジュ様を含めて三柱いるが、その神々の知名度はほぼない。
スカイディア様もお名前自体は知名度がない。
が、あの方こそが真の母神であるため、「スカイスト」神でなく、「母神様」と崇められれば、それはつまりあの方を崇めるということになる。
その点で言えば、スカイディア様の知名度とは比べくもない。
この世界の唯一神であり、この世界を創造したのが母神であることは、この世界に住まう者は誰もが知っていることだった。
数の上では「ドラグニア」が勝り、知名度で言えば圧倒的に「ルシフェニア」側が勝っている。
これが兵力という意味合いであれば、圧倒的に「ルシフェニア」側だけど、「ドラグニア」は兵の数は少ないが、その分圧倒的な練度を誇っている。
そのうえ、個としても粒ぞろいと来ている。中でも「ドラグニア」のトップ三人は伝説に謳われた「原初の竜王」たち。
「ルシフェニア」の国王であるお父様も伝説に謳われた方ではあるけれど、「六神獣」以上の力を誇るであろう「原初の竜王」たちと比べると、力の差は歴然と言ってもいい。
しかも「原初の竜王」だけではなく、蝶姉妹と謳われる鱗翅王の姉妹に、最上位の伝説のスライムなど「原初の竜王」以外にも超越者がいるという始末。
さらに神器遣いはふたりいるし、「神代における最悪の化け物」と称されたフェンリルや神器に宿った神獣様とて「ドラグニア」に組みしている。
「ドラグニア」はまだ国として成立していない。
だが、その戦力は「ルシフェニア」をはるかに凌駕している。
もし、神々の介入なしという条件であれば、「ルシフェニア」はどうあっても「ドラグニア」に勝つことはできない。
神々ありきであっても、アンジュ様たち三柱によって、スカイディア様が抑えられる可能性も十分にありえる。
スカイディア様が抑えられれば、「ルシフェニア」が「ドラグニア」と戦っても結果は見えていた。
……そう、あくまでも私というイレギュラーがいなければの話だけども。
もっとも、それもいままでは抑え込まれていたのだけど。
なにせ、いままでは身動きをまともに取ることさえ許されなかった。
特にアンジュ様が神となり、あの化け物が主様と和解してからは。
主様は私を疑うことはされなかった。
だけど、アンジュ様と化け物は違っていた。
私を常に監視されていた。
その監視網は凄まじく、手洗いと入浴時以外は常に見張られていたほど。
まさに膠着としか言えない状況だった。
まるで岩と岩の間に飛びこんだかのように、身動きひとつさえ許されなかった。
そんな日々ももう昔。まるであの日々が嘘のように私は自由になっている。
それこそ風が、すべてを薙ぎ払うような風が、膠着を吹き飛ばしてくれたようだった。
周囲を取り巻いていた岩と岩は、穴だらけになったかのよう。
それこそ強風に晒され続けた結果、徐々に表面が削られ、風化してしまったように、私を覆う状況は穴だらけになってしまっている。
それは私が動きやすくなったということ。これ以上となくやりやすくなったということに他ならない。
だけど、どれほどに動きやすくなったとしても、私の周りに超越者が揃っているということは変わらない。
むしろ、超越者しかいないという状況に陥りつつある。
いままではそのうえでガチガチに監視されていた。
おかげで、まともに身動きさえ取れなかった。
でも、その監視の目はひどく緩んでいる。
というか、私を監視している余裕がないのかもしれない。
余裕がないからこそ、私が自由に動ける下地ができつつあるわけなのだけど。
でも、それが誘いである可能性もあった。
動きやすくなったからと言って、動けるわけじゃない。
むしろ、動ける下地ができつつあるいまだからこそ、慎重に動く必要があった。
そう、いままで通りに「ドラグニア」側の者として在り続けるしかなかった。
たとえ、心ならずしても、「ドラグニア」の一員としていなければならなかった。
……それもそろそろ終わりかもしれないけれども。
「イリア? どうかしたか?」
「いえ、なんでもありません、ルリ様」
今日はここ最近と同じで、ルリ様と同じく買い出しに向かっていた。
その買い出しも終わった。
あとは店に帰るだけ。
そう、やるべきことは終わった。
それは「イリア」としての日々も終わりを迎えつつあるということでもある。
本当に終わるかどうかはまだわからない。
だけど、着実にその日は近付きつつあった。
その日が来るまで、私はいまのままで居続けなければならない。
それが私の役目だから。
「帰りましょう、ルリ様」
「あぁ、そうだな。帰るとしよう」
ルリ様が頷いた。
「最悪の化け物」と称されていたとは思えないほどに、穏やかなルリ様。
それがいつまで続くのだろうと思いながら、私はルリ様と一緒に「ドラグニア」軍の拠点である喫茶店へと帰っていった。
着実に迫る終焉の日を思い浮かべて。




