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1992/2053

Sal2-18 広がる苦味

 ゆっくりと胸が上下していた。


 胸が上下するたびに、静かな寝息が聞こえてくる。


 腕の中には同じようにして眠るベティがいた。


 むにゃむにゃと眠るベティは、とても心地よさそうだった。


 静かに寝息を立てるふたりは、本当の母娘のように見える。


 外見の特徴はわりと一致している。顔の造りは違うけれど、ベッドの上で眠る姿を見ていると、本当の母娘のように思える。


 その母娘の姿を私はぼんやりと椅子に腰掛けて眺めている。


 この拠点に来てから、アンジュたちに用意された部屋に来るのはこれが二度目だった。


 以前までは、同じ部屋で寝泊まりしていたし、私もふたりと一緒に同じベッドで寝起きしていた。


 でも、この拠点に来た翌日、つまりは昨日の夜、私はこの部屋には戻らなかった。


 喧嘩をしたわけじゃない。


 別の部屋で泊まったから、部屋に戻らなかった。

 いや、別の部屋で泊まったからなんて言い方はずるいか。


 単純に私がエレーンと関係を持ってしまい、彼女の部屋で過ごしたから、昨日の夜は戻れなかっただけ。


 そもそもの話、私とアンジュは夫婦じゃないし、恋人でもない。


 私とアンジュの関係はビジネスパートナーみたいなもの。


 お互いの利益のために、お互いを利用し合っているだけの関係でしかない。


 利益のために、私とアンジュは関係を持っているけれど、そこにエレーンも加わった。


 今回のことはただそれだけのことでしかない。


 それでもアンジュにとっては、なにか思うことがあるみたいで、今日、いや、もう日付が変わってしまったから、昨日は一日アンジュは不機嫌そうにしていた。


 その理由がなんであるのかは、わからない。


 原因は私とエレーンが関係を持ったからなのは間違いない。


 だけど、私の妻でも恋人でもないアンジュが、私がエレーンを抱いたことで不機嫌になるのかがわからなかった。


 ……私の都合のいいように解釈をすれば、ひとつの可能性が浮上するけれど、それがありえないことであるのは私自身が一番よくわかっている。


 むしろ、ありえるわけがない。


 でも、ならなんでアンジュが不機嫌だったのか。その理由がわからなくなってしまう。


 アンジュに直接聞けばいいのだろうけれど、その当のアンジュはすっかりと夢の世界へと旅立っていた。


「……無理もない、か」


 アンジュとベティが一緒の部屋で寝泊まりするのは、もはや確定事項と言ってもいい。


 まぁ、時々ルクレティアが必死にお願いをした結果、ベティがルクレティアの部屋に寝泊まりすることはあるんだけど、その回数はわりと少ない。


 以前までは、ベティはルクレティアにべったりだったのだけど、いまはアンジュにべったりとしている。


 カレンとプロキオンが同時にいなくなってしまったことが原因であり理由だった。


 無理もないなぁと思う。


 大好きな「おとーさん」と大好きな「おねーちゃん」が同時にいなくなってしまった。


 ふたり分の喪失をいくらかでも埋めるために、ベティはいつもアンジュと一緒にいるようになった。


 それまではルクレティアの元にいることもそれなりにあったのに、いまはほぼアンジュ一択となっている。


 そのこと自体は、ルクレティアは「仕方がない」と思っているみたいで、特に思うことはないみたい。


 ただ、時折、ベティを構いたがりたくなるみたいで、アンジュとベティに必死になってねだるのよね。


 そのときのルクレティアは、とてもではないけれど、お清楚とは言えない。というか、お清楚という言葉をかなぐり捨てているとしか私には思えないわ。


 ……逆に言えば、ルクレティアがそうなってしまうほどに、ベティがアンジュのそばにいてしまっているということなんでしょうけど、ね。


 でも、そのことを誰も指摘できない。


 誰もが大きな喪失感と戦っているのだから。


 なのに、自分は「平気です」とばかりに、ベティの有り様を指摘するなんてことできるわけがないのよ。


 それはベティだけじゃない。


 アンジュだって同じはず。


 そして、私も同じだった。


 だからこそなのかしらね。


 私がいままで、アンジュたちと一緒の部屋で寝泊まりしていたのは。


 アンジュと体の関係を持ったからとはいえ、ベティとも過ごすことになる部屋で寝泊まりする必要はない。


 それでも、私はいままで一緒の部屋で過ごしていた。


 私もまた私の中の喪失感を、無力すぎた自分への嘆きを少しでも埋めようとしていかたのかもしれない。


 その結果が、ふたりと過ごした日々。


 その日々も、ここの拠点に来て終わりかけている。


 エレーンと関係を持ったこと。


 それがいままでの日々を壊してしまっている。


 何度も言うけれど、私とアンジュは夫婦じゃない。恋人でもない。ただのビジネスパートナーでしかない。


 だから、アンジュが私を見ていなかったとしても問題はないし、私がアンジュ以外の女性と、エレーンと関係を持ったところでなにか言われる筋合いはない。


 そう。私たちの関係は利害関係が一致したからこそのものでしかないはずだった。


 なのに、どうしてだろう?


 どうしてこんなことになっているのだろうか?


 なによりも、どうして私はまたこの部屋に来てしまったのか?


 この部屋に訪れたのはなんとなくだった。


 そう、なんとなく。


 思いつきでアンジュたちの部屋へと向かっていたの。


 普段であれば、アンジュもベティも寝てしまっている頃。


 そんな時間帯になんでアンジュたちの部屋へと向かおうとしたのかは、私にもわからなかった。


 でも、気付いたときには、アンジュたちの部屋へと向かっていた。


 体は汗ばんでいたし、汗とは違う匂いに体は包まれていた。


 元々の部屋を出る際、彼女はなにも言わなかった。


 同じように汗ばんだ体で、シーツ一枚を体に包ませながら、「行ってらっしゃい」とだけ言ってくれた。


 行ってらっしゃいと言われても、返事はしなかった。


 返事をする意味はない。


 そもそも、なんで「行ってらっしゃい」なのかがわからなかった。


「行ってらっしゃい」と言葉は、戻って来る人へと告げるものだ。


 たとえば、家を一時的に空ける人へと、同じ家に住む家族が言う言葉で、その人の道中の無事を祈るもの。


 でも、私とエレーンは家族じゃない。


 かといっても夫婦でも、同棲中の恋人でもない。


 エレーンもまた私と利害関係が一致しただけの相手。アンジュと同じビジネスパートナーのような存在だった。


 なのに、エレーンはまるで「この部屋に戻ってくるのが当たり前」というように、「行ってらっしゃい」と私の背中に投げ掛けてくれた。


 ……正直、「行ってきます」と返そうとしたことに、私は愕然としていたわ。

 

 そう、私は思わず「行ってきます」って本当に言おうとしていたの。


 私自身がエレーンのいる部屋に戻ることが当たり前のように振る舞おうとしていたの。


 もっと言えば、私はきっとエレーンに対して想いを向けてしまっている。

 

 アンジュに対しても、エレーンが教えてくれるまでは、私自身も気付かなかった想いを抱いていた。


 それはいまも同じ。


 こうしてアンジュの寝顔を見ていると、不思議と満たされる気分になる。


 満たされるけれど、どうしてか悲しみも募る。


 手を伸ばしても届かないからなのかしら?


 届かないからこそ、それが悲しくて堪らないからなのかもしれない。


「……ばぅ?」


 不意に声が聞こえた。


 アンジュの腕の中のベティが、まぶたをうっすらと開けていたの。


「おねーさま、うえ?」


「……起こしちゃった?」


「ううん、いいの。おねーさまうえもおねんねする?」


「……いえ、ちょっとまだやることがあるの。だから、先に眠っていてちょうだい」


「……ばぅ、わかったの。おやすみなさい」


「うん、おやすみ。ベティ」


「ばぅ」


 ベティは眠たそうな顔をしていて、その表情はとても愛らしかった。


 だけど、そのベティの隣で寝ることは憚れた。


 というか、いまの私が寝られるわけがなかった。


 適当な言い訳を口にして、ベティに先に寝るように伝えると、ベティは睡魔に襲われていたみたいで、あっさりと眠ってしまった。


 ベティが再び寝息を立てるのを聞いて、私は静かに部屋を出たの。


 エレーンのように「行ってらっしゃい」という言葉は投げかけれることはなかった。


 そのことにどうしようもない悲しみが募り、気付いたときには走っていた。


 走ってエレーンの待つ部屋へと戻っていた。


「お帰りなさい、香恋さん」


 エレーンはちょうど淹れたばかりなのか、コーヒーをふたつ持っていた。


 その姿を見ながら、私は──。


「──ただいま」


 ──はっきりとそう告げた。


 私の返事にエレーンはなにも言わず、そっとコーヒーを差し出してくれた。


 差し出されたコーヒーを口にする。


 ブラックだったからか、コーヒーはとても苦かった。


 苦いコーヒーの味を感じながら、私は視界が歪んでいくことに気付いた。


 目尻からこぼれ落ちる涙を拭わないまま、私はエレーンの淹れたコーヒーをゆっくりと嚥下していった。

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