Sal2-17 わからない想い
インクの匂いが部屋の中に充満していた。
カリカリと小さな音が部屋の中にこだましていく。
「ばぅ~」
備えつけられたテーブルの端から、興味深そうな顔でベティが私の手元を、私が認めている書類を眺めていた。
私の隣で腰掛け、テーブルに顔を乗せて私が認める報告書を眺めているベティ。
プロキオンとは違い、お勉強が苦手なベティはまだそこまで字を知っているわけじゃない。
簡単な字は読めるけれど、報告書の字はとてもではないけれど簡単とは言えないもの。もっと言えば、かなり畏まった言い回しなため、その意味をベティが読み解くことはできていない。
それでもベティは興味深そうに私の認める報告書を眺め続けていた。
いつもならすでに眠っている時間。それでも今日は寝ることなく、私の仕事が終わるのを待ってくれていた。
何度か「先に寝ていていいよ?」と言ったのだけど、「まっているの」と言って、首を縦に振らなかった。
そういうところは、一度こうと決めたことは貫き通そうとするところは、本当にあの人そっくり
だった。
プロキオンもそういう頑ななところはあったから、あの人の娘はみんなあの人の頑なさを受け継いでしまうのかもしれない。
そう理解していても、あえて私はベティに尋ねた。
「退屈じゃないの? ベティ」
「先に寝ていていいよ」じゃなく、「退屈じゃなか」と尋ねた。
どう考えても、いまの状況はベティには退屈なものだろうし。
まぁ、退屈というのも、あくまでも私の観点からしてみればの話。
いまも興味深そうに私の手元を見つめているのを見る限り、ベティが退屈そうにしているとは思えない。
ちらりと、ベティに視線を向けると、やはりベティは興味深そうな私の手元をじっと眺めていた。
眺めていたのだけど、私の問い掛けにベティは顔をあげると、ベティはふりふりと首を振った。
「ままといっしょなら、たのしいの」
「そう?」
「そうなの」
「そっか」
手を止めて、左手でベティの頭を撫でてあげると、ベティは「ばぅ~」と嬉しそうに尻尾を振る。
尻尾を振りながら、私の左手にぐりぐりと頭を擦りつけてくれるベティ。
いつものベティらしい姿に、私は頬を緩ませて笑った。
「ごめんね、本当なら絵本を読んであげたいんだけど」
「いいの。おしごとだもん」
「……うん。ごめんね」
「いいの。でも、おわったら」
「うん。絵本、一緒に読もうね」
「ばぅ!」
無邪気に笑うベティ。その笑顔に心が洗われていくのがわかる。
本音を言えば、仕事なんてどうでもいいと切り捨てたいところなのだけど、さすがにそろそろ纏めておかないと問題だった。
まぁ、そもそもの話、神様になった私がいまさら以前の私の仕事をするなんてナンセンスな気はするのだけど、いまの私は以前の私の地続きだった。
地続きだからこそ、ナンセンスだなと思っても以前の仕事をこなしてしまっていた。
まぁ、以前の私と比べて身体的な能力はもちろん、こういった雑務に関する処理能力もはるかに向上しているし、いざとなれば「刻」の力を使えばいくらでも時間は捻出できる。
だけど、今日は「刻」の力をあえて使っていない。
報告書を纏めると言っても、折を見ては認めていたので、そこまで量はない。
かく言ういまもすでに終わりにと差し掛かっていた。
もう締めの文言を書き始めているので、もう間もなく書類仕事は終わる。
残るは各種資料というところだけど、これに関しても折を見て進めていたこともあり、もう終わり。
事実上、今回の報告書はすでに終わっていると言ってもいい。
というか、いま終わった。
「はい、おしまい」
「ばぅ、おつかれさまなの」
「うん、ありがとう、ベティ」
父さんの形見である眼鏡を外し、愛用のペンを拭きながら、そっとテーブルに置く。
そこでようやく一息を吐いた私に、ベティはふりふりと尻尾を振りながら労ってくれた。
ありがとうとお礼を言い、改めてベティの頭を撫でてあげると、ベティはさきほどのように「ばぅ~」と鳴きながら私の左手に頭をぐりぐりと擦りつけてくれる。
かわいいなぁと思っていると、ベティが不意に大きく口を開けてあくびをした。
「おねむかな?」
「……ばぅ~。でも、えほん」
「絵本なら明日でも大丈夫だよ。ママのお仕事はちょうど終わったからね。いつでも大丈夫だよ」
「ちーがーうーの。きょうがいいの~」
「そっか。そうだね。なにせ、いままで起きて待ってくれていたもんね」
「ばぅん! だから、えほん、なの」
力強く頷くベティだったけれど、すぐにそのまぶたは降りてしまい、小さく船を漕ぎ始めてしまう。
なんだかんだで限界だったみたい。
無理そうなら先に寝ていいと言ったのだけど、そういうところもベティらしい。
「じゃあ、絵本を読もうか。先にベッドに入っていて」
「はーいなの」
ベティは私の言葉を素直に聞き、よろよろと立ち上がると重たい足取りでベッドに向かい、いつもの定位置で寝転がった。
ベティの定位置はベッドの中央。あの人やプロキオンがいたときも、一緒に寝るときはいつもベッドの真ん中に陣取っていた。
まぁ、真ん中に陣取ろうとしても、プロキオンが先んじて動いて中央をあっさりと奪い取ってしまうことも多々あったんだけど。
奪い取られるとき、ベティはいつも「おねえちゃん!」と怒った。
怒るのだけど、姉妹とはいえ、プロキオンとは明かな格差があるため、いつもあっさりと捻られてしまい、「ばぅぅぅ!」と悔し涙を流すことも多かった。
そんなプロキオンをあの人は「お姉ちゃんなんだから、譲ってあげないとダメだろう?」と窘めるのだけど、プロキオンは「異議ありです」と反論してしまう。
プロキオンの反論に、あの人はいつもたじたじになっていた。
だけど、それでもプロキオンはあの人に懐いていたし、あの人もプロキオンを愛していた。
それは私やベティだって、いや、ルクレやサラちゃんやティアリカちゃんだって同じ。
真っ当とは言えない形だけど、私たちはたしかに家族だった。
その家族はいま離ればなれになっていた。
誰かが原因というわけじゃない。
誰も悪くはなかった。
あえて言えば、そうだな。巡り合わせなのかな。
そう、巡り合わせだ。
私たちの家族は、巡り合わせで成り立ち、そして巡り合わせで離ればなれとなってしまった。
きっかけはなんだったんだろう?
どうしてこうなったんだろう?
脳裏に浮かぶ問い掛けに対する答えはなにもない。
神様になったとはいえ、所詮はこんなもの。
どんな力を誇ろうとも、家族相手にはなにもできない。
なんのために私は神様になんてなってしまったのだろう?
あの人とプロキオンがいなくなってから、私はいったい何度この問いかけをしてきたんだろう?
もう数えることもできないし、そもそも数える気もない。
「まま、よほん」
「あ。うん。ちょっと待っていてね、ベティ。……ベティ?」
ベティの声で現実に戻された。慌ててベティの待つベッドへと向かおうとして気付いた。
ベティはいつもの定位置である中央に寝転んでいる。
だけど、いつもとは違い、すでに丸まっていた。
それも私に背を向ける形でだ。
どうしたのだろうと思い、ベティの正面へと回ると、ベティのまぶたは閉じられていて、静かな寝息を立てていた。
「……寝言か」
どうやら寝転んですぐに睡魔に負けてしまったみたい。
逆に言えば、それだけベティに無理をさせていたということ。
悪いことをしてしまったなぁと思いつつも、私はベティの隣に、ベティの正面側に回って横たわった。
するとベティは私の匂いに反応したみたいで、私にすり寄ってくると、いつもみたいに私の腕の中に収まっていた。
残念ながら私はルクレやマドカちゃんたちみたいに、胸の膨らみなんてものはないので、胸に顔を埋めてもとは思うんだけど、ベティは寝るといつもこうして私の胸に顔を埋めてくれる。
私の胸なんかで安心できるのかなと思うのだけど、ベティの顔はとても安らかなもので、私なんかでも安心してくれているみたい。
ベティを起こさないように気を付けながら、そっとベティを抱きしめた。
ベティは「まま」と舌っ足らずな声で私を呼んでくれている。
いつもなら「なぁに?」とか「どうしたの」って声を掛けるけれど、いまはなにも言わずに手櫛で髪を梳くだけに留めた。
ベティはより安心したみたいで、満足そうに微笑んでくれた。
その笑顔を見ると、今日起きたことを、私の中で沸き起こったよくわからない想いが消えていくようだった。
いまの私になってから、私の感情は希薄になった。
なのに、どうしてだろうか。
今日見た光景は、今日見た光景で感じた想いは、どうしてか消えてくれなかった。
エレーンちゃんの首筋につけられた痕を見てから、私はずっと不機嫌になっていた。
どうして不機嫌になったのかは、自分でもわからない。
香恋さんが誰と関係を持とうとも私にはどうでもいいことだった。
それこそ、私以外と関係を持つのであれば、いまの関係も終わらせたとしてもいいくらい。
だというのに、なんで私は香恋さんが刻んだだろう痕を、香恋さんが着けたキスマークを見て不機嫌になってしまったのか。
「……わかんないなぁ」
自分で自分の気持ちがわからなかった。
こんなにもわからないのは、あの人への気持ちを自覚していなかった頃以来だ。
あの頃は、めまぐるしく移り変わる状況に着いていくので精一杯だったということもある。
でも、いまはそうでもない。
なのに、なんで私は私の気持ちを理解できないんだろうか。
わからない。
私は私の気持ちがまるで理解できなかった。
「……ねぇ、私はどうしたらいいのかな? あなた」
あまりにもわからなさすぎて、眠り続けるあの人にと問い掛ける。
答えは当然のように返ってはこない。
なにせ、いまその体の持ち主は、この部屋にはいないのだから。
「……またエレーンちゃんのところかな?」
どうでもいいことだけどと思いつつも、浮かびあがった言葉をいつのまにか口にしていた。
わからない。
本当になにがなんだかわからなかった。
わからないまま、私はいつのまにか押し寄せていた睡魔に、そのまま身を任せた。
思いのほかに疲れていたみたいで、私はあっさりと意識を手放した。
意識を手放す間際、部屋のドアが開くような音が聞こえた気がしたけれど、確認することはできず、私は腕の中のベティのぬくもりを感じながら眠りに就いたんだ。




