Sal2-13 絆されたわけではなく
吐息が熱かった。
漏れ出す吐息はひどく熱くて、それでいてとても激しかった。
目の前には理性を失ったように、いや、理性を一時的に飛ばした香恋さんがいる。
そうなるように私が仕向けたからだ。
方法は実に簡単。口づけた際に、催眠の魔法を掛けただけ。
たったそれだけで、香恋さんは理性をなくした。
口づけたときは、香恋さんは私の体の下にいた。
でも、いま彼女は私を組み伏して、私を抱いている。
泣きながら、私を抱いていた。
大粒の涙を流す姿は、まるで失恋でもしたかのように見える。
だけど、彼女がしているのは、泣きながら私にしていることは、あまり褒められたものじゃない。
抱いているとは言ったけれど、実態は犯されているようなものだ。
普段の彼女ならば、そんなことはしないだろう
でも、いまの香恋さんはいつもの彼女ではなくなっている。
魔法で理性を飛ばしているということもあるでしょう。
だけど、一番の理由は、自分の想いが決して想い人に届かないとわかったから。
泣いている様子は、本当に失恋したようだ。でも、実際に彼女は失恋したような状況にある。
相手はアンジュ様。
天上の美と称せるほどに美しい女性にして、香恋さんの妹であるカレンちゃんの妻にあたる人。
カレンちゃんは、いま香恋さんの中で眠っている。いつ目覚めるとも知れない深い眠りの中にだ。
そのカレンちゃんをアンジュ様は待ち続けておられる。そのことを香恋さんは誰よりも理解している。
香恋さんもまたカレンちゃんの帰りを待ち続けている人なのだから。
だからこそ、アンジュ様の気持ちを香恋さんは誰よりも理解していた。
そう、理解しているからこそ、香恋さんはアンジュ様に惹かれてしまった。
あまりにも一途にカレンちゃんを待つアンジュ様の有り様に、心を奪われてしまった。
だけど、どれほどに心を奪われたところで、アンジュ様のお心に、一番大切な人という席に座れるのは香恋さんではない。
その席に座れる資格を持つのは、カレンちゃんだけなのだから。
香恋さんもそのことを理解していた。
理解していたからこそ、あえて自分の気持ちと向き合わずにいたんでしょう。
向き合ったところで、成就するはずのない気持ち。
決して報われることのない想いに、香恋さんは耐えられないと自分で思ったのかもしれない。
それでもアンジュ様と関係を持ち続ける様は、異様だった。それこそ言葉は悪いけれど、滑稽とも言えた。
だからなのかな。
私は気づいたときには、香恋さんにあえて抱かれようと思った。
決して絆されたわけじゃない。
絆されたからこそ、身を許そうとしたわけじゃない。
私はただ共感してしまったんだ。
香恋さんの有り様が、どれほどに愛しい人がいても、決して成就しない想いを持ち続ける様が、不思議と私と重なって見えた。
私も一応はカレンちゃんの嫁という立場ではある。
あの人に抱かれたことはあるし、愛していると言って貰えたことだってある。
だけど、抱かれたからと言って、愛していると言われたからとしても、私がカレンちゃんの一番の存在にはなれないことは明らかだった。
「魔大陸」時代の頃からだってそうだった。
カレンちゃんは、私だけではなく、私と同じく嫁になる人たちに対して、いつも優しく、そして大切にしてくれていた。
だけど、どれほどに大切にされても、それはほかの人たちと変わらない。
同じ嫁という括りの中では、他の人たちと変わらない程度でしかなかった。
愛してくれるし、抱いてもくれる。
だけど、それは私だけじゃない。
他の人たちも同じだった。
「嫁」という括りの中にいるという意味で、私は他の人たちとなんら変わらなかった。
それでも私の想いが揺らぐことはない。
揺らぐことはないけれど、どうしても諦観を抱いてしまうことはあった。
それが特に顕著になるのが、カルディアさんを見たとき。
彼女は、誰よりもカレンちゃんに愛されていた。
愛し合ったうえで、カレンちゃんの前で命を落とした彼女。
そんなカルディアさんはカレンちゃんの中で自然と最上位に置かれていた。
そのカルディアさんの妹だからこそ、アンジュ様にカレンちゃんは惹かれていった。
最初はうり二つな彼女に苛立ちを覚えていたでしょう。
だけど、次第に彼女から目を離せなくなり、気づいたときには彼女を求めるようになった。
決して、カルディアさんの代替品ではなく、アンジュ様その人を求めるようになった。
結果、カレンちゃんの最上位にはカルディアさんとアンジュ様、アルスベリア姉妹が君臨することになった。
私が、いや、あの姉妹以外の面々がどれほど欲しても手が届かない場所に、あのふたりは自然と席を置ける。
だからなんでしょうね。
どれほど求めたところで届かないというところが、私と香恋さんの共通点となってしまった。
そのことに気づいたとき、「なにかをしてあげたい」と思うようになった。
とはいえ、アンジュ様の気持ちを香恋さんに向けさせることはできない。
むしろ、できるわけがない。
あの方は、香恋さんをカレンちゃんの代替品としか見ていないのだから。
そんな人の気持ちを変えさせることなんてできるわけがない。
私にできることがあるとすれば、それは慰めてあげることだけだった。
きっとルクレティア陛下たちも、香恋さんの気持ちには薄々と理解されているはず。
でも、彼女たちもまたカレンちゃんの帰りを待ち続けている人たちだ。
アンジュ様のように、アンジュ様を一時的にでも忘れられるようにその身を捧げることはできない。
たとえ、香恋さんに女慣れをさせるためというお題目を掲げたとしても、それでもアンジュ様のように一線を超えることはできないでいる。
それがより一層香恋さんの感情を、アンジュ様へと向ける想いを加速させることになるとわかっていたとしても、だ。
そう、アンジュ様だけと関係を持つというのは、あまりにもまずい。
たしかに女慣れさせるだけであれば、人数なんて関係ないと言えるでしょう。
だけど、アンジュ様しか知らないということは、アンジュ様だけが特別という風になってしまいやすいことでもある。
人は誰しも特別というものには弱い。
特別な出来事、特別な関係、特別な相手。
それらはすべて香恋さんが、アンジュ様へと抱くものだ。
それらがあるからこそ、香恋さんは日に日に拗らせてしまう。
決して届かない想いを拗らせて続けてしまう。
それが悪いとは言わない。
ダメだとも言わない。
届かない想いを時間を掛けて昇華することも、愛というものの形のひとつではある。
けれど、私には香恋さんがそんな芸当ができるとは思えない。
香恋さんはスカイスト様が言うには、ほとんど箱入り娘のような人だ。
もっと言えば、世間知らずなところがある。
そんな人が届かない想いを昇華させることができるとは、まっとうな形で昇華させられるとは私には思えなかった。
それこそ、下手をすれば周囲を巻きこんだうえでの大騒動に繋がりかねないナニカをしでかす可能性が高い。
そうなるまえに、香恋さんがこれ以上傷付く前に、教えてあげたかった。
香恋さんとアンジュ様の関係は、決して特別ではないのだ、と。
一部では当たり前のように行われている程度のことでしかないのだ、と。
そう教えるべきだと思った。
それを絆されたというのであれば、仕方がない。
けれど、私にとってこれは授業のようなものだ。
世間知らずな箱入り娘さんに、現実を突き付けてあげること。
きっと私のしていることは、エゴだろう。
それも香恋さんを違う形で傷付けるであろうエゴ。
でも、傷付ける人数を減らせることは間違いない。
私と香恋さん以外の誰も傷付かない。これ以上とない導き方だと思う。
香恋さんにとっては大きなお世話かもしれないけれども。
「──あ、あ、あー!」
香恋さんは叫んでいた。
泣きながら叫んでいる。
まともな言葉にはなっていない。
でも、その気持ちはよくわかる。
満たされることのない想いに揺れ動くことは私もよくわかっている。
いまの行為はただの代替にしかならない。
それでも、少しでもいい。
ほんの少しでもいいから、香恋さんの無聊を晴らすことができればいい。ほんのわずかであっても、この人を慰められればそれでいい。
香恋さんの背中に腕を回す。
香恋さんの目には理性の光はない。
あるのは、ただ悲しみの色だけだった。
その悲しみを少しでも晴らせれるように。
明日への活力を得られますように。
そう祈りながら、私は香恋さんに抱かれていった。




