Sal1-41 はじまりの朝
空がゆっくりと明けていく。
明けた空は不思議な色をしていた。
基本的には瑠璃色──濃い紫みが強い青なのだけど、一方では朝焼けの赤が、もう一方では夜空の黒が、ほんのうっすらとした黒が残っていた。
三色に染まる空は不思議だけど、同時に美しかった。
ほんのわずかな時間しか、それもごく短時間しか見られないであろう空の色を私はぼんやりと眺めていた。
アンジュとベティはまだ眠っている。
起床するにはまだ早い時間だったし、昨日は遅くまでるーちゃんを含めて三人で話していたということもあるのでしょうね。
そのるーちゃんはぷかぷかと空中を漂う形で眠っている。
どこにあるのかは一目ではわからないけれど、鼻提灯を出しながら、すぴすぴと眠る姿はとても愛らしい。
……愛らしくはあるのだけど、時折ギザギザの歯が見えるので、愛らしさも半減しているというところかしら。
その点、アンジュとベティには半減する要素は皆無。
アンジュはベティを抱きかかえるようにして眠り、ベティはアンジュの腕の中で心地よさそうに眠っている。
あいにくと私の位置からでは、アンジュの背中しか見えないけれど、少し場所を移動すればアンジュの寝顔もベティの寝顔も同時に見られる。
ただ、そのためには椅子を動かさないといけないよのね。
いまの私は部屋に備え付けられたサイドテーブルに腰掛けている。
少し前にアンジュが書類仕事をしていたのと同じサイドテーブルにね。
いまはサイドテーブルの上にはなにも置かれていない。
せいぜいがアンジュのお父さんの形見である眼鏡くらいかしら?
雑にぽんと置かれているように見えて、その実、何重もの結界に覆われて保護されているの。
粗末なケースに収めるよりもはるかに安全ではあるのだけど、「ここまでする?」と思わずにはいられないわね。
まぁ、その何重もの結界は眼鏡だけではなく、ベティに対しても行っているあたり、アンジュがどれほどまでにベティを愛しているのかがよくわかるわね。
……カレンも親バカではあったけれど、アンジュもアンジュで人のことは言えないわよね。
そのアンジュもいまはすっかりと夢の中に旅立っているわけだけど。
それでもベティを決して放さないとばかりに抱きしめている姿はとても微笑ましい。
微笑ましいけれど、やりすぎ感があるのは否めないのよねぇ。
「……まぁ、らしいと言えばらしいかしらね」
くすくすと笑いながら、改めて窓の外を眺めた。
空の色はもう三色ではなくなっていた。若干の赤みがある青空へと変わっている。
青い空を眺めながら、ぼんやりとしようとした、そのとき。
「……香恋さん、起きていたんだ?」
ふと背後から身じろぎの音がしたと思ったら、アンジュに声を懸けられていた。
振り返ると、ベッドの上で眠たそうにまぶたを擦るアンジュがいる。体を起こしてはいるけれど、ベティを起こさないようにして起き上がっていた。
アンジュの隣で、ベティは体を丸めて静かに眠っているわ。すやすやと眠る様を見る限り、そう簡単に起きそうにはないわね。
しかも自身のふさふさの尻尾を抱き枕にしているからなのか、とても心地よさそうね。
ベティの尻尾はアンジュとルクレティアがいつもブラッシングしているからか、とてもふさふさとしているのよね。
ふたりの手が空いていないときは、フブキちゃんかイリアがブラッシングしているわね。
サラとティアリカもできると言えばできるけれど、ふたりのブラッシングはあくまでもシリウスとカティ向けのものであり、ベティ向けのブラッシングではないのよね。
ルリに至っては、「……無理じゃ」と言って避けるもの。まぁ、そのルリの尻尾はベティが時折ブラッシングしているけれど。
どうにもルリはブラッシングが苦手みたいね。もしくは自分が触れてはいけないと思っているのかもしれないけど。
……そんなことあるわけがないんだけども、ルリは聞き入れてくれないのよね。
まぁ、ルリのことはいいわ。
いまさら聞いてくれるわけもないし。
そもそも、ルリがいつまで私たちのそばにいてくれるかもわからないというのもあるし。
ルリが私たちのそばにいるのは、あくまでもカレンと盟約を交わしていたから。
そのカレンがいまは眠っている以上、その盟約もうやむやになったようなもの。
それはイリアも同じだけど、イリアはたぶん私たちのそばにいるでしょうね。……複数の意味でね。
でも、まぁ、イリアに関しては問題ないでしょう。
以前まではともかく、いまはタマモやマドカちゃんだっている。
事実上の飼い殺しができる状況だものね。
……まぁ、カレンは気付いていなかっただろうけれど。
実にあのバカらしいことだわ。
だからこそ、イリアも絆されてしまっていたのでしょうけども。
「どうしたの?」
「うん?」
「なんだか難しい顔をしているけれど?」
「……別に? いい天気だなぁと思っただけ」
「そう?」
「ええ」
アンジュには私の考えていることはお見通しでしょう。
それでもあえてアンジュは泳がせているんでしょうけどね。
「……そろそろだと思う?」
「……たぶんね」
「……あの人にぞっこんだったから問題はなかったんだけどね」
「悪いわね」
「ううん、香恋さんのせいじゃないよ。問題は彼女自身だもの」
「……ベティが悲しみそうね」
「……そう、だね」
アンジュは傍らにいるベティを見つめると、眉を顰めて悲しげに見つめていた。
「……あぁ、そうだ」
「なぁに?」
「おはよう、アンジュ。すっかり挨拶を忘れていたわね」
「うん、そうだね。おはよう、香恋さん。今日は早起きさんだね?」
それまでの不穏な会話を終えて、私とアンジュは笑いながら朝の挨拶を交わし合う。
挨拶を交わしながら、「コーヒーでも淹れるね」とくすくすとアンジュは笑いながら、ベティを起こさないようにベッドを降りようとしていた。
が、途中で「ありゃ」という小さく呟いて、ぴたりと動きを止めていた。
どうしたのだろうと思っていると、アンジュはおかしそうに笑いながら自身の袖を、右の袖を指差す。
アンジュの右の袖は小さな手でしっかりと掴まれていたの。
「……ベティったら」
仕方がないなぁと言うように、アンジュは小さく溜め息を吐いていた。
溜め息を吐いているけれど、その顔はとても優しかった。
私もカレンも直接は知らないけれど、その顔こそが母親が浮かべるものなのだろうなとは思う。
「コーヒーは私が淹れるわ」
「そう、だね。ごめんね」
「いいのよ。気にしないでちょうだい」
サイドテーブルから立ち上がり、私はまっすぐに部屋に備え付けられた簡易キッチンに向かった。
簡易キッチンは、本当に簡易的なもので、小さなコンロと小さなシンクがある程度で、本格的な調理を行うのは不向きね。
せいぜい、宿舎の一階にある売店でコーヒーないしお茶を部屋で飲める程度かしら。
私たちの場合は、ヨルムさんから分けて貰った紅茶とコーヒーがあるので、それを飲むことにしているの。
……私よりもアンジュの方が上手に淹れられるのだけど、今日ばかりは仕方がないわよね。
「……ばぅ~」
「ふふふ、かわいいな」
アンジュは笑っている。小さく鳴くベティを見つめて、とても穏やかに。
その笑顔に胸の奥がどくんと高鳴るのを感じながら、私は簡易キッチンでお湯を沸かしていく。
ことこととヤカンが沸いていく。
その小さな音を聞いていると、不思議と心が穏やかになっていく。
あと数時間もすれば、そんな穏やかさとは無縁になるというのにね。
それでも、いまだけは。
そう、いまくらいは穏やかな気持ちでありたい。
穏やかな日々はもう終わる。
これからは戦いの日々が始まるのだから。
この世界の母神と称される邪神との戦いが正式に始まりを告げる。
いつ終わるとも知れない戦い。
その始まりの日。
その始まりまであと少し。
あと少しの時間を、いまはせめて穏やかに過ごしていたかった。
「……ばぅ?」
ベティの声が聞こえた。
アンジュの腕の中でベティのまぶたが開く。
まだぼんやりとしているベティに、アンジュは笑いながら「おはよう」と笑いかけていく。
ベティは「おはよーなの」と笑っていた。
そんなベティに私もまた「おはよう」と挨拶をしながら、私とアンジュのコーヒーを淹れていく。
コーヒーを淹れると、次はベティの分の、ホットミルクのキャラメル和えを作るべく、ミルクとキャラメルを小さなな鍋に入れて火を掛けていった。
そうして私たちは始まりの日の朝を迎えたの。




