Sal1-30 またひとり
真っ白な尾びれが左右に揺れている。
尾びれを揺らしながら、真っ白な流線型の体がぷかぷかと宙を舞っていた。
本来ならありえない光景だけど、そのありえない光景はいまや日常となりつつあった。
宙を舞っているのは、デフォルメ白シャチのるーちゃん。
ベティちゃんの使い魔となったレイクオルカで、スカイスト様たちから魔改造されてしまった子でもある。
そのるーちゃんの背には主人であるベティちゃんが乗っていた。
ベティちゃんはるーちゃんの背中に跨がって、ここ最近のお気に入りである空中散歩を楽しんでいる。
今日の空中散歩は、るーちゃんと出会った例の湖畔。いまは湖の上空をぷかぷかとるーちゃんは泳いでいた。
「ベティー、気をつけなさいよー?」
「はーいなの」
空中散歩を楽しむベティちゃんにと、香恋が声を掛けていた。
その傍らでは、アンジュさんとルクレティアさんがいるのだけど、ルクレティアさんはアンジュさんの肩を掴んで体を揺さぶっていた。
どうやら、今日の会議が延期になった原因についてをアンジュさんに問いただしているよう。
……アンジュさんがなにかをしたというわけではなく、やらかしたのはルクレティアさん本人なわけなのだけどね。
とはいえ、ルクレティアさんにしてみれば、言いがかりのようなもの。
ああして、アンジュさんの肩を掴んで揺さぶっているのも納得がいかないから。
どんなに納得がいかないとはいえ、事実は事実であるのだから、どうしようもないのだけどね。
それでも、ルクレティアさんはああしてアンジュさんを問い詰めている。
当のアンジュさんは、「いつものことか」という態度で、揺さぶられながらも平然としている。
ある意味で、いつも通りの光景だった。
いつも通りの光景だけど、いまの私はいつも通りとは言えない。
その影響だからかな?
ベティちゃんはるーちゃんの背中の上で、楽しそうに空中散歩を楽しんでいる。
でも、時折、私の方をちらりと見つめていた。
楽しんでいるのは明かなのだけど、それ以上に気遣いを見せてくれている。
ベティちゃんが気遣っているのは、他ならぬフブキに対してだった。
フブキはいま私の腕の中にいた。……なお、決して変な意味ではない。
文字通りに、私の腕の中にいるというだけのこと。決して他意はない。
まぁ、他意はないけれど、いまのフブキを腕の中に収めているのは理由がある。
「……そろそろ落ち着いた、フブキ?」
「……はい」
フブキは体を縮ませながら、小さな声で頷いてくれた。
まだ涙声であり、精神的に落ち着いていないのは明らかだ。
そんなフブキを私は後ろから抱きしめていた。
フブキの体温は、年齢特有の高めのもので、寒い日にこうしたら暖が取れそうだ。
加えて、ほんのりと香る匂いは、どこか懐かしいものだった。
ベースとなるのは土の匂い。
農耕種族の妖狐族にとっては特有のものだ。そこに家事をする関係だからか、いくらかの石鹸の香りと若干の香辛料の匂いもする。
そこにどことなく甘い香りも、香水の匂いが加わったのが今日のフブキの匂い。
私が懐かしいと感じているのは、その香水の匂いだった。
エリセが纏っていた香りだ。
今日のフブキは、いつもとは違って香水を纏わせている。
どうしてなのかは、あえて聞かない。
聞く意味がない。
というか、理由なんて私が一番よく知っている。
だから、聞かない。
でも、いまは「今日に限ってかぁ」と思わずにはいられなかった。
よりにもよってな日に、ルクレティアさんもやらかしてくれたものだよ。
おかげでこうしてフブキを抱きしめなきゃいけなくなってしまった。
別に、こうして抱きしめるのが嫌というわけじゃない。
以前も時折抱きしめていたからね。
ただ、当時はまだいまのように背は伸びていなかった。
私もフブキも当時はまだ幼かったからね。
姉が妹を抱きしめているように見えていただろうね。
まぁ、当時から私よりもフブキの方が年長者だったから、実際には姉が妹をではなく、姉が妹に抱きしめられているというわけだったけど。
でも、当時の私にとってフブキは妹のような存在だった。
それも、とても傷付いてしまった妹。
その妹を慰めることが、当時の私の日課になっていた。
妹分の円香は当然面白くはなかっただろうけれど、フブキの事情をあの子は知っていた。
面白くはなかったはずだったのに、あの子はフブキに優しく接してくれていた。
いつからか、あの子にとってもフブキは妹のような存在になっていった。
その円香はいまここにはいない。
本音を言えば、円香がいてくれればありたがい。
でも、あの子まで私の事情に付き合わせるわけにはいかない。
スカイスト様たちであれば、円香もまたこの世界に転移させることはできただろう。
けれど、それは同時にあの子の地球での日々を終わらせるということだ。
だから、私は円香にはなにも言わなかった。
円香になにも伝えずに、この世界に来た。
たぶん、エルド神は円香に私のことを伝えていることだろう。
きっと円香のことだ。
へそを曲げているだろうね。
もし、また会えるようであれば、そのときにはたくさん謝らないといけない。
謝ってもそう簡単には許して貰えないと思うけどね。
もしくは、「私も行きます」とか言い出しそうで怖い。
あの子だけは、この世界とは関わり合いがないようにしてあげたい。
平穏な地球での日々を過ごして欲しいと思う。
でも、あの子のことだから、きっと知れば真っ先に来てしまうんでしょうね。
もしくは、もうこの世界にいるかもしれないわね。
それこそ、「閃光の剣士」とか。そんな字で呼ばれていてもおかしくないのよね。
新進気鋭の女性冒険者とかで、有名になっていてもおかしくない。
……どうしよう。
考えれば考えるほど、その光景をありありと思い浮かべてしまうわね。
スカイスト様からもクラウディア様からも、いまのところ円香がこの世界に来ているという話は聞いていない。
だけど、あのおふたりのことだから、「サプライズ」とか言って、すでに呼び込んでいたりして……。
「……どうしよう。否定できない」
「え?」
ありえそうな現実に、頭を抱えそうになっていると、腕の中にいるフブキが、不思議そうに私を見上げていた。
「あ~、そのね。円香のことをちょっと、ね」
「マドカ様どすか?」
「うん。憶えているでしょう?」
「ええ。ぎょうさん、ようしてもらえたさかい」
円香の名前を口にすると、フブキは嬉しそうに笑ってくれた。
……ちょっとジェラシーを感じてしまうけれど、私のジェラシー程度で、フブキが笑ってくれるのであれば、なんの問題もない。
「あの、タマモ様?」
「うん?」
「マドカ様も、お越しになられるんどすか?」
「……あー」
なんと言えばいいのか。
可能性は十二分にある。
それも、結構な高確率で。
とはいえ、そのまま言うのもどうかなぁと思うし、そもそもあくまでも私の勝手な想像にしかすぎない。
なら、なんで円香の名前を出したんだとか言われそうだし。
実に困った。困ってしまったよ。
どうしたものかなぁと考えていると、不意にベティちゃんの声が聞こえてきたんだ。
「ばぅ? だれかおっこちてくるの」
「……は?」
聞こえてきた言葉に私があ然とする。
いや、あ然としているのは私だけじゃない。
香恋もアンジュさんもルクレティアさんも、意味がわからないとあ然としていた。
が、そんな私たちとは違い、当のベティちゃんは「ほら、おっこちてきているの」と空を指差した。
その言葉に導かれるように、私たちは揃って空を見上げた。
空の上にはたしかに誰かがいた。
それもなにやら叫びながら落ちてきていた。
「本当に誰かが落ちてきているじゃない!?」
香恋が慌てたように叫ぶ。
慌てながらミカヅチを抜き放とうとしていた。
アンジュさんもいまにも飛びだそうとしていた。
そこにフブキの声が、呟くようなフブキの声が聞こえてきた。
「この匂いは」
フブキが期待に満ちた目をしていた。
その意味を私も理解していた。
いや、正確には、フブキが嗅いだ匂いを私も嗅ぎ取っていた。
「……本当にあの人たちは!」
私はフブキを抱きしめたまま、上空へと向かって駆けた。
「タマモ!?」
香恋の声が聞こえたけれど、返事をすることなく、まるで階段を駆け上るようにして空へと駆け上がっていく。
空へと駆け上がるたびに、件の人物との距離は縮まっていく。
縮まるたびに、その外見が徐々にはっきりとしていった。
上空にいたのは、ひとりの妖狐族の少女だった。
年頃はルクレティアさんやプーレさんと同じくらいかな。
服装は最後に見たアバター時のものと同じ。もっと言えば、青い上衣の着物に、短い袴、そこに青い波動を携えた刀を手にしている。
髪の色は以前リアルで会ったときとは違って、茶色に染色されていた。
でも、顔つきは同じ。正確に言えば、以前会ったときよりも大人びた顔立ちをしている。
「やっぱり」
腕の中のフブキが嬉しそうに笑う。
その笑みを眺めながら、私も自然と笑っていた。
笑いながら、彼女の元へと向かい、そして──。
「よっと」
フブキを片手に抱き直して、空いた方で彼女を抱き留めた。
彼女はいきなりのことに「え? え?」と驚いているようだった。
「……まったく、本当にいきなりすぎでしょうに」
やれやれとため息を吐きながら、腕の中にいる彼女を見やる。
彼女は状況をまだ飲み込めていないのか、私をじっと見上げていた。
そんな彼女にとフブキが嬉しそうに話し掛けていく。
「おひさしぶりどす、マドカ様」
にっこりと彼女に、円香に笑いかけるフブキ。それでようやく円香も状況に思考が追いついたみたいだった。
「……フブキちゃんがいる、ってことは」
恐る恐ると私を見やる円香。私は円香に「そのまさかだよ」と笑いかけた。
「久しぶり、円香。元気にしていたみたいだね」
「……はい、姉様。不肖ながら、お助けに参りました」
円香は感無量とばかりに涙目になりながら、私の腕の中で不格好な敬礼をしたんだ。
こうしてまたひとり「ヴェルド」の英雄が、この世界に訪れたんだ。




