Sal1-29 今日も頓挫する
「──っ!?」
芳しい紅茶の香りが漂っていた。
今日も、私たちは会議室に赴き、プロキオンちゃん対策についての話し合いを行うことになっていた。
昨日はアンジュさんの問題発言で会議は中断から延期になってしまった。
その続きを今日朝からする予定だったのだけど、その当のアンジュさんたちがまだ現れていなかった。
というのも、どうにもアンジュさんが寝不足になっていたみたい。
考え事をしすぎたのか、それとも香恋が無理をさせたのかまではわからないけれど、少なくとも平常時のアンジュさんではなかったことは明らかだったそう。
私自身は迎えには行っていなかったのだけど、迎えに行かれたルクレティアさん曰く、「完全に寝不足でしたね」と呆れを滲ませていた。
どうやら神の力を以てしてもどうにもならないほどの寝不足をしてしまったみたい。
でも、その割りには同じ部屋で寝泊まりしていたはずの香恋は、平常通りだった様子。
つまり、香恋がアンジュさんを無理させたわけではないということだ。
香恋がアンジュさんを無理させたというのであれば、香恋もまた寝不足になっていないとおかしいだろうから、昨日はそういうことに発展しなかったみたい。
……単純に、アンジュさんも香恋も、昨日はそういうことをしたくなかったのかもしれない。
昨日は板長と女将さんにあてられてしまったものの、それだけでは、行為にまで行き着くことはできなかったんだ。
行為に行き着けないほどに、プロキオンちゃんのことは、ふたりの中でも尾を引いていたんだろう。
あとは、昨日はベティちゃんも一緒に寝泊まりしていたということも大きかったのかもしれないけれど。
どちらにしろ、レンさんの娘さんたちという要因が絡んだ結果だ。
香恋はともかく、アンジュさんは、香恋への想いはない。
アンジュさんが想いを向ける相手は、香恋の中で眠るレンさんだけ。
たとえ、ほぼ同一人物と言ってもいい香恋相手であっても、香恋とレンさんは別人だ。
いわば、アンジュさんにとって香恋は、驚くほどに夫にそっくりな別人という程度の存在だった。
その別人と閨を行う。
いったいどれほどの覚悟と悲壮な決意があったのかは、私にもわからない。
すべては愛する夫であるレンさんを取りもどすため。
道半ばで香恋に斃れられないために、アンジュさんは自身の体を捧げている。
本当はレンさん以外に体を許すつもりはなかっただろうに。
本当に強い人だと思う。
そんな強いアンジュさんが、寝不足になった。
それも香恋とは関係ないことでだ。
いったいなにがあったのか、とは言わない。
というか、香恋が無理をさせた以外のことで、アンジュさんが寝不足に陥ることなんてひとつしか考えられない。
アンジュさんにとって、レンさんと同じ重きをおける存在。
レンさんとは若干ベクトルが異なるけれど、同じく愛する者。
レンさんとの間の娘たち。
つまりはベティちゃんとプロキオンちゃんのこと。
そして今回は間違いなく、プロキオンちゃんのことだろう。
ベティちゃんは傍らにいたのだから、彼女が考えていたのは間違いなくプロキオンちゃんについてだ。
なにせ、昨日の会議を中断ないし延期にしたのは、彼女が考えたプロキオンちゃんへの対策案のせいなのだから。
強大な魔物ないし、大きな魔物の群れに彼女単独で向かい、そこに現れるであろうプロキオンちゃんを捕捉する。
単純明快でありつつも、これ以上とないほどに有効な手段だった。
もっと言えば、プロキオンちゃん相手であれば、最善手と言ってもいいくらい。
だけど、問題もある。
第一に、そんなに都合良くプロキオンちゃんが現れるかわからないということ。
第二に、強大な魔物や大きな魔物の群れなんて、そうぽんぽんとあるわけがないということ。
そして第三、というか、一番の懸念が彼女単独で、ということだ。
第一は、そのままの意味。たまたま赴いた強大な魔物や大きな魔物の群れをプロキオンちゃんがちょうど見つけるなんて、あるわけがない。
来るか来ないかの二択ではあるけれど、その二択に至るまでの要素を加えていくと、確率はそれこそ天文学的な数字にまで膨れ上がっていくことだろう。
第二についても同じだ。プロキオンちゃんが狙いそうな強大な魔物や大きな魔物の群れなんて、そうそう点在するわけがないでしょうに。
いくら「修羅の国」みたいな「聖大陸」であっても、そんなのがたやすく点在していたら、そもそも人が住める土地ではなくなってしまう。
まぁ、逆に言えば、点在していないからこそ、探しやすいということでもある。
でも、それはあくまでも私たちはだ。私たちはお師匠様の軍の情報網を使って調べることはできる。
けれど、プロキオンちゃんは単独だ。単独で調べて行き着けるほどに、強大な魔物や大きな魔物の群れなんて、そう多くはない。
外部協力者でもいない限りは、だけども。
もっとも、その外部協力者筆頭になりそうな方々も、今回の件についてはノータッチだろう。
やはり、プロキオンちゃん単独で捜索することになると、どうしても限界はある。
その限界と私たちの捜索がちょうど重なり合うかどうかは、かなり怪しいところ。
そして一番の懸念点である、アンジュさんが単独で赴くということ。
これに関してはもはや説明するまでもない。
誰がどう考えても危険すぎる。
この世界における四柱目の神とはいえ、危険が及ばないというわけじゃない。
神になってわかったことではあるけれど、神様っていう存在は、案外できることが少ないものだった。
全知全能という言葉はあるし、その言葉が神様を讃えるために存在するものだということは知っている。
でも、その全知全能であるはずの神様だって、得手不得手は存在する。
そもそも神話を紐解けば、神様にはそれぞれ司っている分野がある。
司っている分野においては優れているだろうが、司っていない分野においてはわりと不得手だ。
わかりやすく言えば、戦いを司る神様相手に家事がうまくできますようにと願われても、当の神様にしてみれば「門外漢なんですけど」としか言いようがない。
まぁ、その「門外漢」なはずの神様に対しても、家庭に関するお願い事ができるようにしちゃっているのが日本なわけですが。
……いまこうして改めて振り返ってみても、日本という国は本当におかしいよなぁと思うよ、マジで。
江戸時代以前は、武士も農民も関係なく、ナチュラルボーンバーサーカーだし、よその国からの料理が入ってきたら、自分たち好みに魔改造するし、よその国の宗教のお祭りをやはり魔改造するわ、とやりたい放題。
こうして神様になって、改めて出身国についてを考えると、日本ってすげえなぁと思うよ、うん。
まぁ、とにかく。
神様であっても、できることとできないことは明確にある。
アンジュさんのしようとしていたことは、できないことではないのだろうけれど、それでも危険なことであることには変わりない。
そのことはベティちゃんでも理解できた。
まだ幼いベティちゃんであっても、アンジュさんのやろうとしていることが危険行為であることはわかっていた。
だからこそ、ベティちゃんはアンジュさんに縋り付く形で泣いてしまった。
これ以上家族を失いたくなかったから。
ベティちゃんはもともとの家族を喪っている。
家族を失う悲しみと辛さを知っている。
知っているからこそ、アンジュさんに縋り付いた。
ベティちゃんが泣き出してしまったことで、会議は中断し、そのまま延期した。
それでも、きっとアンジュさんのことだ。
いざ、そのときが来たら躊躇なんてしないんだろうな。
香恋に抱かれることを決めたように。
プロキオンちゃんを捕捉するためであれば、彼女はきっと自分の身を危険にさらすことに躊躇はしないだろう。
アンジュ・フォン・アルスベリアという女性は、そういう人だから。
アルスベリア家に流れる血を、連綿と受け継がれた気高き血と誇りを、「愛する者を守るために戦うこと」を至上とする精神を彼女も持ち合わせているのだから。
言うなれば、アルスベリア家流のノブレス・オブリージュなのだろう。
止めることはきっと誰にもできないんだろう。
そういうところは、本当にレンさんとそっくりだと思う。
似たもの同士が惹かれ合ったということなんだろうね。
本当にお似合いの夫婦だ、と痛感していた、そのときだった。
会議室でアンジュさんたちを待っていた面々の中で、ひとりいきなり席を蹴飛ばすようにして立ち上がった人がいたんだ。
自然とその人に視線が集中する。
立ち上がったのは、ルクレティアさんだった。
アンジュさんと同じレンさんのお嫁さんのひとりで、アンジュさんとは対照的に香恋と肉体関係を持っていない人。
そんな彼女はいまのいままで優雅にミルクティーを楽しんでいたはずだったのだけど、いまはなぜかぷるぷると震えていた。
それもやけに強ばった表情でだ。
いったいなにがあったと。誰もが目を向ける中、彼女は突然目をくわっと見開くと叫んだんだ。
「私も旦那様の嫁ですけどぉ!?」
……。
……えっと、ドウイウコト?
ちょっと、あの、うん。
まるで意味がわかりません。
え、なに?
なんで、いきなり叫んでんの、この子?
しかも内容がよくわかんない。
いったい誰に対して叫んでいるんだろう?
「あ、あの? ルクレティア陛下?」
フブキが恐る恐るとルクレティアさんに話し掛けた。
ルクレティアさんのあまりにも唐突な宣言に、困惑しているのは明らかだった。
いや、まぁ、困惑しているのはフブキだけじゃなく、全員がなんですけどね。
「なんですか? フブキちゃん」
全員が困惑を見せる中、当のルクレティアさんは叫んだことですっきりとしたのか、いつも通りの笑顔を浮かべています。
……いや、「なんですか?」はこっちのセリフなんですけどねぇ。
「えっと、その、叫ばれたさかい」
「あぁ、その件ですか。なぜか、いま「アンジュと旦那様がお似合いの夫婦だ」という妙な言葉が脳裏をよぎりまして。反射的に叫んでしまいました」
「……そ、そう、どすか」
ルクレティアさんは輝かんばかりの笑顔を浮かべていた。
その笑顔にフブキはドン引きしながら、完全に怯えていた。
怯えながら、「タマモ様~」と涙目になって私に縋り付いてきた。
……うん、怖かったよね。わかるよ。私もいますごく怖かったもん。
縋り付いてきたフブキの頭を撫でながら、抱きしめてあげた。
ルクレティアさんは私とフブキのやり取りを見やりながら、「どうしたんですか?」と怪訝そうな様子を見せています。
……うん、女って怖いなぁとつくづく思います。私も女だけどね?
「お待たせしました、ってなにこの空気?」
「なにかありました?」
「……ばぅ。おかーさんのせいだとおもうの。たぶん、いつものほっさなの」
「「……あぁ」」
「ベティちゃん!? アンジュと香恋さんもなにを!?」
凍り付いた空気が漂う会議室に、ちょうどアンジュさんたちが現れたんだ。
アンジュさんと香恋はなにがあったのかわからないでいたみたいだけど、ベティちゃんが正確に状況を言い当てたことで納得していた。
が、当のルクレティアさんにしてみれば、言いがかりのようなものなのだろう。
……まぁ、言いかがりではないんだけどね。
「……今日も会議になりそうにないなぁ」
今日もまともな会議にはならないだろうなぁと
思いながら、私は泣きじゃくり始めたフブキを宥めていったんだ。




