Sai1-26 胸に宿る想い
ほのかな灯りが広がっていた。
真っ暗な部屋の中で、サイドテーブルに予め置かれていた小さな燭台が、テーブルの上だけを照らしている。
照らされたテーブルの上には、書類が広がっていた。
広がる書類は、すべてモルガンさんに提出するためのもの。
神様になったとはいえ、それでも私がモルガンさんの部下であることには変わらない。
そのモルガンさんへの報告の書類を、ここ最近はなかなか纏めることができていなかった書類を、いまこうして記していた。
本当は昼間のうちにでもしようかと思っていたのだけど、プロキオン関係のことですっかりと時間を取られてしまって、気付いたら夜が更けてしまっていた。
本当は昼間にやるべきことをすまして、夜はベティや香恋さんと一緒に寝るつもりだった。
正確に言えば、ベティを先に寝かせて、香恋さんの女慣れの特訓をするつもりだった。
でも、昼間に行えなかった分、そのしわ寄せがいま訪れてしまった。
念のために「刻」属性を行使して、時間の経過を遅くしての作業だった。
私の体感時間で言えば、すでに朝になってもいいくらいなのだけど、実際の作業時間はまだ十分も経っていないくらいかな。
こういうときは「神様になってよかったなぁ」と心の底から思える。
「前の私」であったら、それこそ夜通しで書類と格闘することになっていたし。
でも、神様になったことで、夜通しの格闘はしなくてもよくなったことは、素直にありがたい。
神様であっても、夜更かしが健康の敵であることは変わらない。
というか、神様だろうと、人間のままであろうと、寝不足が辛いことには変わらないんだよね。
その寝不足とは神様になって以降、すっかりと御縁がなくなっている。
具体的に言うと、「刻」属性って本当に便利だなぁと思う。
プロキオンも夜遅くまで本を読んでいた日は、十分に睡眠ができるまで「刻」属性で体感時間を遅れさせて、睡眠時間を擬似的に増やしていたからね、あの子。
そのママである私も神様になって以降は、同じようなことを何度かしている。
本当に神様、様々って感じだよ。
「──ん、これでおしまい」
「刻」属性の素晴らしさをしみじみと体感していると、あれだけあった書類も最後の一枚の締めの一文となっていた。
その一文も最後の文字を書き終え、全体的に読み返してから問題がないことを確認して、ペンを置く。
ペンを置いてすぐ背筋を伸ばした。
凝り固まっていた体が、地味に嫌な音が聞こえたけれど、それだけ集中していたということだから問題はないと思う。
……実際の時間で言えば、ほんの十分ほどでそんな音がするとか、どれだけ運動不足なんだろうと思うけれど、これはこれ、それはそれだよね。
ふぅと燭台の火に息を吹きかけると、火はすぐに消えてしまう。
火が消えた部屋の中はあっという間に真っ暗となる。
その代わりに窓の外から光が差し込んでいた。
「星、かぁ」
窓の外には満天の星空が広がっていた。
天上を彩る無数の星々は眩く輝いていて、その輝きが地上にある、この宿舎にまで降りそそいでいる。
地上からでは決して届くことのない星々。その輝きはとても純粋で、そしてとても美しい。
まるで地上の穢れとは無縁のように、なんの穢れもなく輝き続ける様は、とても神秘的だった。
そんな光輝く星々を、灯りを消したサイドテーブルから見上げる。
隣からは寝息が、香恋さんとベティの寝息が聞こえてくる。
ふたりの寝息を聞きながら、書類仕事を始めたときから羽織っていたギルドの紋章入りの外套を羽織りなおして、今度はベッドを見やった。
ベッドの上では香恋さんがベティを抱きしめるようにして眠っていた。
その腕の中でベティもやはり穏やかに眠っているようで、かわいらしい寝息を立てている。
それだけを見ると、まるであの人が帰ってきたみたいに思えてしまう。
だけど、違う。
悲しいほどに違う。
あの人は帰ってきてなんていない。
ここにいるのは香恋さんで、あの人のお姉さんであって、あの人じゃなかった。
あの人ではないけれど、その体はあの人のもの。
あの人の体だったものを、香恋さんがいまは使っている。
あの人ではないけれど、外見だけで言えば、あの人のまま。
真実を知らない人にとってみれば、中身が違うなんてわからないだろう。
でも、真実を知っている私たちにとっては、そのわずかな違いが決定的な違いとなっている。
その決定的な違いを常に私たちは突き付けられている。
それでも、みんな表面上はこれといった行動には出ていない。
誰も彼も受け入れているように振る舞っている。
それは私も同じ。
私も傍から見れば香恋さんを受け入れているように見えるでしょう。
実際のところは、全然違うというか、真逆ではあるけれど。
そう、私は受け入れてなんかいない。
私が愛しているのは香恋さんではないのだから。
なら、なぜ香恋さんに抱かれているのか。
そんなのは簡単なこと。
香恋さんに死なれると困るからだ。
香恋さんの体はあの人の体。その体のいまの持ち主が、女慣れしていなかったという程度で、スカイディアからの女の刺客に狙われて、あっさりと死なれてしまうなんて、冗談でも笑えないことだった。
そうならないためにも、私は私の体で香恋さんに女慣れをさせている。
女慣れをさせるのであれば、もっと肉感的というか、凹凸のある女性相手にするべきだとは思うのだけど、残念ながら私の体はかなりフラットで、肉感的とはとてもではないが言えない。
そんな私でも、あの人は夢中になって抱いてくれた。香恋さんもなんだかんだで私に夢中であるようだった。
最初は躊躇していたのに、夜ふたりっきりになって、私が肌を見せればすぐに食いつくようになったし、香恋さんが私に夢中になっていることはたぶん間違いない。
……正直なことを言うと、申し訳なさはある。
香恋さんは本命の人がいる。
そしてその本命は、あの人がかつて本命としていた人なんだと思う。
というか、実際に言っていたからね。
香恋さんが「我らの花嫁」とそう言っていた。
黒騎士たちの元となった人。アマミノゾミという女性が、香恋さんの本命さん。
アマミノゾミのことは、イリアちゃんから聞いている。
曰く、とてもきれいな子だと。
加えて、私とは違って、肉感的な体の持ち主だとも。
そして、お姉ちゃんと同じ、あの人にとって一番の女。それがアマミノゾミ。私にとっては目の上のたんこぶのような子。
そのアマミノゾミが香恋さんの本命。
「……面白くない、な」
ぽつりと呟いたのは、私自身でもよくわからないことだった。
香恋さんの本命が誰かなんてどうでもいいはず。
私にとっての最大のライバルはお姉ちゃんであり、アマミノゾミではない。
でも、私はどうしてかお姉ちゃんではなく、アマミノゾミをライバル視している。
どうしてなのかはいまいちわからない。
私がいま重要視していることは、あの人が帰ってくることと、プロキオンを元に戻すこと。
ベティを立派に育てることはまた違うベクトルで重要だけれど、目下における一番の問題はあの人のこととプロキオンのこと。
決してアマミノゾミをライバル視することではない。
そのはずなのに、どういうわけか、ここ最近香恋さんに抱かれるたびに、私はアマミノゾミのことを考えていた。
その理由はいまいち理解できないけれど、なんとなく察することはできている。
要は、香恋さんの刺客として、アマミノゾミを模したような相手が来る可能性を危惧しているということなのだと思う。
アマミノゾミは「混沌の母」という存在になっている。
つまりはスカイディアの手の中にいる。そうなれば、スカイディアのことだ。アマミノゾミを模した存在を香恋さんの刺客として送り込んでくることは容易に想像できる。
意中の人そのものが刺客となってきたら、さしもの香恋さんでもコロッと騙されるのは目に見えている。
そうなれば、あの人が帰ってくることは絶望的となってしまう。
私がアマミノゾミを危険視しているのはそういうこと。
それ以外に理由などあるわけがない。
そう、それ以外に胸が騒ぐ理由なんてない。
なのに、私はどうして「面白くない」なんて言ったんだろう?
自分の気持ちが自分でよくわからなかった。
「……まぁ、いいかな」
香恋さんのことなんてどうでもいいことだった。
あの人を取りもどすために、私は香恋さんを利用し、香恋さんも香恋さんであの人を取りもどすために、私を利用している。
私と香恋さんの関係はお互いに利用し合っているというもの。
もっと言えば、ビジネスパートナーに近い存在であり、それ以上でもそれ以下にもなりえることはない。
その香恋さんは、いまあの人のようにベティを抱きしめながら眠っている。ベティもまるであの人に抱かれているときみたいに、穏やかな寝息を立てていた。
……その光景を見て、私の心はなぜか弾んでいた。
意味がわからない。
意味はわからないけれど、穏やかに眠るふたりを起こす気にはなれない。
「……プロキオン」
視線を外して、空を見上げた。見上げてすぐに眩い光を放つ白い星が見えた。
あの人が教えてくれた星で、そして私とあの人の娘の名前の元になった星。
その星の名前を呟きながら、脳裏には愛おしい娘の姿が浮かびあがる。
ベティと変わらないくらいに愛おしい子。私のかわいいプロキオン。
本の虫で、知識欲に貪欲で、でも、とても甘えん坊な、ベティのお姉ちゃんであるプロキオン。
プロキオンが私たちの側から離れてしまって、まだ数日。
ほんの数日で、私はプロキオンが恋しくなってしまっている。
あの子を抱きしめてあげたかった。
一緒にいられた頃のように、あの子を強く抱きしめてあげたかった。
でも、プロキオンはいま私のそばにはいない。
そもそも、どこにいるのかもわからない。
ただ、昼間、あの子の声が聞こえたような気がした。
泣きそうな声で「ママ」と呼ぶ声が聞こえた気がしたんだ。
でも、当然近くにプロキオンはいない。
気のせいだとは思ったけれど、それでも居ても立ってもいられなかった。
探しに行きたいと思ったけれど、そのときは会議が始まる直前で、結局探しに行くことはできなかった。
会議の最中は気が気でなかった。
でも、声が聞こえたからなんて理由で、会議を抜けだすことはできなかった。
仮に言ったところで、気のせいと切り捨てられるだけなのは目に見えていたし、私自身「幻聴だ」って半分思っていた。
でも、いまは探しに行けばよかっただろうかと思っている。
探しに行けば、もしかしたらプロキオンに会えたかもしれない。
変わり果ててしまった愛娘に会えたかもしれない。
でも、その可能性を私はみずから捨ててしまった。
会いたいと思う。
会って抱きしめてあげたい。
もう頑張らなくていいんだよ、と言ってあげたかった。
だけど、それを告げる相手はいない。
どこにもいない。
それがひどく悲しかった。
でも、その悲しみもすぐに霧散していく。
それがまた悲しかった。
霧散する度に悲しみが顔を見せる。
ここ最近はずっとそう。
私はあとどれだけ悲しめばいいんだろう?
どれだけ見えない涙を流せばいいんだろう?
答えは誰も教えてくれない。
誰にも教えられない答えに、胸を痛ませながら、私はベッドに腰掛けて星空を見上げた。
眩く輝く真っ白な星を、あの子の名を冠する星をただただ眺め続けた。胸の中にあるよくわからない想いを見据えながら。




