Sal1-11 ベティの涙
芳しい紅茶の香りが漂っていた。
ヨルムさんお手製のロイヤルミルクティーの香りが会議室の中いっぱいに広がっていった。
でも、その香りを楽しんでいる者は誰もいない。
ミルクティーで唇を濡らすこともなかった。
そもそも、ティーカップがソーサーの上から動いていない以上、香りと味を楽しむことなどできるわけもない。
そうなるくらいに、会議は暗礁に乗り上げていた。
会議の議題は、プロキオンへの対応策へと移っていた。
タマモが口にした議題の内容だったのだけど、その対応策がまったくと言っていいほどに思いつかなかったのよ。
プロキオンはみずから「魔王」を自称したけれど、「魔王」となってもプロキオンがプロキオンであることは変わらない。
プロキオンの性格を踏まえれば、あの子が表舞台に出てくるにはだいぶ時間が掛かるはず。
あの子は必勝の策ないし、勝利が確約される状態になるまで、決して表に出てくることはないでしょう。
ああ見えて、かなり慎重派な子だ。そんなプロキオンがそうたやすく表に出てくるなんて考えられなかった。
だからこそ、あの子への対応策と言われても出てくる答えは「裏で暗躍を続ける子を表に引っ張り出す方法なんてあるわけがないだろう」ということになる。
ゲームで言えば、真の黒幕である裏ボスを、ゲームクリア前提で登場する裏ボスに、ゲームクリア前から挑む方法を考えようと言っているようなものよ。
答えが不可能となるのは当然のこと。
そもそもゲームクリア前提で登場する相手なのに、その前提を無視して挑めるわけがないでしょうに。
タマモが議題の内容を変えようと、今後に必須とは言えない「エンヴィー」についての話から変えようとしたのはわかるけれど、そうして変えた内容も議題を交わしようがないことだった。
早速議題が暗礁に乗り上げたと誰もが思っていた矢先、アンジュが「プロキオン相手であればやりようはある」と言い出したのよ。
やりようはあると言い出したアンジュの顔は、自信に満ちあふれている。
さすがはプロキオンが「ママ」と慕うだけはあると言いたいところだけど、どうにも嫌な予感が拭えなかった。
最近のアンジュはどうにも自分の身を顧みない言動を取ることが多い。
今回もやはり自分の身を顧みていないんじゃないかという不安はどうしてもよぎってしまった。
「やりよう、とな?」
聖風王様がアンジュを、いや、全員がアンジュを見やる中、アンジュははっきりと告げたの。
アンジュを見つめる全員の顔には、少なからず不安の色が見え隠れてしていた。
そうして誰もが不安を見せる中、アンジュは迷いなく自身の考えを口にしていった。
「ええ、あの子の目的を踏まえれば、答えは簡単に出てきます」
「目的……香恋を殺すこと、かい?」
アンジュがまず口にしたことは、プロキオンの目的だった。
いまのあの子は、私への殺意と憎悪に突き動かされてしまっている。
カレンが深い眠りに就いたのは、すべて私が恋香と結託したからと勘違いしているの。
……まぁ、状況的に踏まえたら、あの子がそういう勘違いをしてしまうのも無理もない状況ではあったのだけど。
その勘違いを糺すことはできなかった。糺すための時間は与えらず、現在に至っていた。
逆に言えば、あの子の目的が私への復讐を果たすということは明確だった。
その目的を逆に利用するのだとアンジュは言った。
その言葉によぎった不安が煽られていくのをはっきりと感じ取った。
でも、それを口にするよりも早く、アンジュは話を続けてしまった。
「香恋さんを殺すこと。それがあの子の目的であることは間違いありません。あとは「あの人」を取り戻すことも」
そう、プロキオンの目的は決して私への復讐を行うことだけじゃない。
眠りに就いたカレンを起こすこともまたあの子の目的のひとつ。
いまのところ、その方法があるとは、とてもではないけれど思えないわけなのだけどね。
仮にあるとしても、さしものプロキオンにも手が余る件でもあることも間違いはないでしょう。
どちらにしろ、いまのあの子では力が足りなさすぎた。
力が足りないという自覚があるからこそ、あの子は私たちの元から離れた。つくづぐ自分の動きの遅さに苛立ちを抱くわね。
「でも、あの子のふたつの目的のためには、あの子はいまの自分では力が足りないと考えている。となれば、あの子がしようとすることはなんなのかは自ずと知れます」
「……他者を補食、か?」
ルリが重たい声で告げる。口にすることさえ憚れると言わんばかりの口調だった。
そのルリの言葉にアンジュは、申し訳なさそうにしながらも、はっきりと頷いたのよ。
「……あの子が他者を喰らうことで強くなろうとしているのは間違いない。喰らう対象は強ければ強いほど望ましいのもまた。となれば、強大な魔物、たとえば魔物の大きな群れの長やその地域を収める魔物が襲われるはずです」
「なるほど。そういった群れや支配者をしらみつぶしに探せば、辿り着くということか」
「その分、いつになるかはわからないけれど、少なくとも当てもなく探すよりかは効率的でしょう」
アンジュは自身の考えを述べてくれた。
述べてくれたけれど、どうにも違和感が拭えない。
というか、まだ言っていない言葉があるというのがはっきりとわかってしまった。
アンジュはまるで話は終わりと言わんばかりの口調だけど、私にはまだすべてを話し終えていないというように聞こえて仕方がない。
そもそも、いまアンジュが語った内容は、対応策というにはいささか弱すぎる。
もちろん当てもなく探し回るよりかは、はるかに効率的と言えることでしょうけど、それにしてもどうにも違和感があるし、なによりも迂遠すぎる気がしてならない。
もちろん、迂遠とはいえ、やらないよりかははるかにましではあるのだけど、アンジュの口調を振り返る限り、アンジュにはもっと確実にプロキオンを見つけるないし、おびき出す方法があるように思えてならないのよね。
……それこそ、アンジュの自身の身を省みないやり方で。
アンジュが行き着いた、アンジュ自身の身を省みないやり方で、プロキオンを引っ張り出す方法。私が思いつけたのはひとつだけだった。
「……ねぇ、アンジュ? あなた、もしかして自分を囮にするとか言わないわよね?」
「……なんのこと?」
「いま、言葉が詰まっていたのはなに?」
「考えていなかったなぁと思っていただけだよ?」
にっこりと笑うアンジュ。でも、私が指摘した瞬間、その顔がわずかに曇ったことを私は見逃していない。
「じゃあ、いまわずかに顔を曇らせたのは、どういうことかしら?」
その顔を私はあえて指摘した。その言葉に会議室にいる面々の表情が変わっていく。アンジュは苦々しげに表情を歪めていく。
「……やっぱり、あなた、自分を囮にするつもりだったわね? そもそも大きな群れのボスや、強大な個体を探すと言っていたけれど、そのためにはどうしても「餌」が必要よね? あなたはその「餌」になるつもりだった。違う?」
じっとアンジュを見つめる。
アンジュの腕の中にいたベティもじっとアンジュを見つめている。ベティの顔は信じられないものを見ているように、驚きと衝撃のふたつの色に染まっていた。
「……おねーちゃんをみつけるために、ままがえさになるの?」
「……なにを言っているの、ベティ? そんなことあるわけがないでしょう?」
「……うそなの。まま、いまめをそらしたの」
「逸らして、ないよ」
「ううん、そらしたの。ままはうそをついているの。うそつきさんはダメなの」
むぅと唸りながらベティがアンジュを見やる。珍しく怒った顔をしているベティだけど、怒りながらもその目尻には涙が溜まっている。
さしものアンジュもベティの言葉と視線には敵わなかったみたいで、小さくため息を吐いて、「降参」とだけ言ったのよ。
「プロキオンがそこにいるとわかったうえで、確実に捕まえられるときだけだよ。それ以外では囮にはならないつもりだから、大丈夫だよ」
「それのどこが大丈夫なのよ? どう考えても大丈夫じゃないでしょうに」
「……だけど、確実性はどんな案よりもあると私は思うけれど?」
アンジュは覚悟の灯った目で私を見つめた。
強い、強い意志の篭もった瞳。
その瞳に私はたじろいでしまった。
たじろいだのは私だけじゃない。
この場にいるほとんどのメンバーがたじろいでいた。
それでも、ひとりだけ。ベティだけはアンジュの視線にたじろぐことはなく、アンジュを見つめ返していた。
ほろほろと涙を零しながら。
「……まま、だめ、なの。いなくなっちゃ、やなの。まままでいなくなったら、ベティ、さみしいの。さみしいのは、もう、やなの」
アンジュの服を掴みながらベティは泣いていた。
大きな瞳から大粒の涙を流しながら、ベティは自身の気持ちを、アンジュまで失いたくないと懇願したの。
その懇願にアンジュはただ言葉をなくして、ベティをそっと抱きしめたの。
それでもベティの涙は止まることはなく、会議室の中をベティの嗚咽がしばらくの間響き続けていた。




