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Sai1-5 うちの娘になにをしてくれているの?

 木製の壁に寄りかかっていた。


 古びた木の感触と、匂い、そしてぬくもりが伝わってくる。


 背中を預けながら、遠い空を眺めていた。


 空はとても遠い。それこそ手を伸ばし続けても届かないほどに遠かった。


 とん、と軽い音を立てながら、私は壁に寄りかかっていた。


 本当は音を立てるつもりはなかった。というか、立ち去るつもりだったのだけど、ついついと盗み聞きをしてしまっていた。


 私が聞いていたのは、ルクレティアとアンジュの会話だ。


 重ねて言うけれど、本当は聞くつもりなんてなかったのよ。


 でも、結果的にはこうして盗み聞きすることになっているのだから、ふたりに気付かれたらなにも言えないのだけど。


(……いや、アンジュには気付かれているかもしれないわね)


 私が甲板に訪れたことを彼女なら気付いていてもおかしくはない。


 まぁ、そのタイミングが悪すぎたわけだけども。


 なにせ、よりによってのことを話されてしまったのだから。


 そりゃカレンと比べたら、私が稚拙であることは間違いない。


 どうすればいいのかなんて全然わからなかったんだもの。


 カレンに抱かれ慣れているアンジュにとってみれば、私では満足できないことは明らかだもの。


 そもそも、そうなったのは私を女性慣れさせようと、アンジュがそういう状況を作ってくれたからだ。


 実際、事が終わってからは、少しだけアンジュたちを見る目が変わった。


 変な意味ではなく、物怖じしなくなった。


 いままでは、アンジュたちと接すると、若干物怖じしていたのよ。特にアンジュに対しては。


 カレンの嫁たちは、みんな美人さん揃いだけど、アンジュは特に美人さんだった。


 だから、少し物怖じしてしまっていた。


 でも、事が終わってからは、自然体で接するようになれた。


 体を重ねた程度で見え方や感じ方が変わるなんて、と事を行う前は思っていた。


 でも、実際に行ってみると、「なるほどな」とは思ったわ。


 それまではアンジュたちの不安は杞憂だと思っていたのだけど、杞憂ではなかったのかもしれない。


 もし、アンジュと肉体関係を持たなかったら、スカイディアから女性の刺客が向けられたら、それだけでアウトだったかもしれない。


 だからこそ、アンジュは自分を犠牲にしてくれた。


 本当ならカレン以外に体を許すことなんてありえなかっただろうに。それでも彼女はカレンのために自分を売った。


 金銭による売買じゃないけれど、愛する人以外に体を許したという事実だけを見れば、売ったと言うべきだと思う。


(……なにかしらね、この間男みたいな立ち位置。こういう気分になるものなの?)


 物語において「お邪魔虫」扱いされる存在はよくいるけれど、彼らないし彼女らの立場に立ってみると、堪ったものじゃないなと改めて思い知らされてしまう。


 加えて、なんとも不名誉なことも言われてしまったし。


 ……うん、まぁ、その、なんだ。


 カレンに比べられたら、そりゃ上手じゃないけどさぁ。でも、もうちょっと、こう、ね? もうちょっと言い方ってもんがあると思うのよね、私。


 ……すごっく下手くそだったと言われるよりかはマシかもしれないけれど、上手じゃなかったというのもなんだか心を蝕んでくれるわね。


 それになによりも──。


「っぷ、上手じゃなかったって、くくく」


 ──どこぞの友人にもその言葉を聞かれたってが心を抉ってくれるのよねぇ!?


「……なに、笑ってくれてんのよ、タマモ」


「ごめん、ごめん。上手じゃなかったって言われる人なんて、いるんだって思ったらおかしくなっちゃってね。くすくす」


「……そりゃいるんじゃないかしら? だって、誰だって初めてはあるでしょう? だから上手じゃなかったって言われても不思議では」


「違う違う、香恋の立ち位置で上手じゃなかったっていわれる人って意味だよ。だって、香恋っていわば間男的な人だよね? そういう人ってその手の経験が豊富で、相手を満足させられるってイメージだから、そういう立場なのに下手くそって言われる人がいるんだって思ったら」


「……下手くそって言われていないでしょう?」


「でも、上手じゃなかったってことは、下手くそってことじゃない?」 

 

 タマモはにやりと口元を歪めて笑ってくださいました。


 その言動に私の堪忍袋の緒がぶちっと切れたわ。


「……あんたぁ、死にたいわけぇ?」


「ははは、本当のことを言われたくらいで物騒なことを言うのはどうかと思うよ?」


「こんの雌狐ぇ」


「ちなみに、私はエリセにもアンリにも「凄かったです」と満足して貰えていたよ? 特にエリセのときは私も初めてだったけれど、あれ以降より夢中にさせてしまったしなぁ」


 にやにやと勝ち誇った笑みを浮かべるタマモこと雌狐に、私が怒りを懐いたのは言うまでもない。


 そんなにも剥製になりたいのであれば、応えてあげようじゃないの!


「いい度胸ね。この場で剥製に──」


「はくせい?」


「ええ、そうよ、剥製に──ぁ」


 あまりの怒りについついと大事なことを忘れていた。


 いま私の腕の中にベティがいるということをだ。


 そもそも、なんで私たちがここにいるのかというと、ベティがぐずってしまったのよね。


 コサージュ村が氷から解放されたことを知り、ベティは皆と会いたがっていたの。


 だけど、アンジュがぼろを出さないために、すぐに出発することになってしまったのよね。


 コサージュ村の皆で会えたのは、ゲイルさん夫婦だけ。


 それでもベティはとても喜んでいたわね。


 ゲイルさん夫婦は揃って、再会したベティを抱っこして喜んでくれた。


 本当ならそのままベティを連れてコサージュ村で一泊してもよかったのだけど、いまのアンジュは以前のアンジュとは別の存在になってしまっている。


 ただでさえ、私もアンジュも救世主扱いになっているのに、女神になったことを知られれば、本当に現人神となってしまう。


 アンジュはそれを嫌がったの。


 アンジュにとってコサージュ村は故郷であり、コサージュ村の住人は家族同然の存在なの。


 その家族同然のみんなに崇め奉られたくなんかなかったのでしょうね。


 だからこそ、ぼろを出す前に「急ぎ旅だから」という下手な言い訳を使ったの。


 故郷を故郷のままにしていたかったから。アンジュは念話で私に話を合わせるようにと言っていた。


 そのときのアンジュの声は、いまにも泣きそうなほどにとても弱々しかった。


 あのときほど、私は私自身を恨んだことはないわね。


 もし、あのとき、そばにいたのが私でなく、カレンであればきっとアンジュを慰めてくれていたはずなのよ。


 でも、私はカレンじゃなかった。


 だから、アンジュを慰めることはできなかった。


 できたのは、アンジュの言葉に従うことだけ。


 そのせいでベティに、皆と再会をさせてあげることもできなかった。


 結果、ベティがぐずってしまったのよ。


 私とアンジュを見送りに来てくれたゲイルさんたちと会ったことで、よりベティはみんなが恋しくなってしまったみたいね。


 考えてみれば、当然よね。


 ベティにとって、コサージュ村の皆は、家族を失った後に得た仲間たち。


 コサージュ村を出たあとの旅でも、表面上は明るくしていたけれど、本心としては寂しがっていたはず。


 その仲間たちとの再会ができなかったことで、だいぶ落ち込んでしまった。


 ゲイルさん夫婦との再会でどうにかなるかと思ったのだけど、かえって拗らせてしまったのよね。


 サラとティアリカがどうにかあやそうとしていたのだけど、ベティは「まま」や「おかーさん」って泣いていたから、こうしてベティを連れて甲板にまで来たのだけど──。


「はくせい、じゃないの」

 

「あ、あ、ち、違うのよ? ベティ、そういう意味じゃなくてね?」


「ベティは、ベティだもん」


 ──大失敗してしまったわ。


 ベティはまん丸な目に大粒の涙を溜めながら、ひっくひっくとしゃくり上げてしまう。


 ベティ相手に「剥製」という言葉がどういう意味を持つのかなんてわかっていたはずだったのに。


 私ったらなんて失敗をしてしまったのよ。


 タマモもおろおろと慌てている。


 私を煽りすぎたからこそだけど、私も煽られたからと言って、ベティにとっての禁句を口にしてしまうなんて。


 数十秒前の自分をぶん殴りたい気分だわ。


 でも、どれだけ自分を殴り飛ばしたくても、いまはそんなことをしている場合じゃない。


 いま大事なのは──。


「……ばぅぅ~、ばぅぅぅ~」


 ──泣く子を、 ベティをあやすということなのだから!


 っていうか、どうやってあやせばいいの!?


 子供をあやしたことなんてないから、全然わからないんですけど!?


 タマモを見ても、タマモも狼狽えているだけだから、戦力外なのは明らか。


 肝心なときに、使えねえわねぇ、こいつ!?


「ちょっと、香恋? なんで私を「使えねえ」みたいな顔で見ているの!?」


「事実だからでしょうが!? 散々人を煽ってくれたくせに、こういうときに役立たずだからよ!?」


「役立たず言うな! そもそも、君が「剥製」なんて言うからで──」


「ば、バカ! いま、そんなことを言ったら──」


「はくせいじゃ、ないもん!」


「「あ」」


「ベティは、ベティは、ベティはぁ、はくせいじゃないもん! ばぅぅぅぅぅー!」


 ベティは再度の「剥製」という一言で、大泣きしてしまった。


 目元を両手で擦りながら泣きじゃくるベティ。


 そんなベティに私もタマモも大慌てしてしまう。


「待って、待って、待ってぇぇぇ!? ベティちゃん、違う、違うんだよぉぉぉ!?」


「そ、そうよ、ベティ! 落ち着いて!? 誰もあなたが「剥製」なんて言ってな──ぁ」


「アホかぁぁぁ!? なんで、それをいま言うんだよぉぉぉ!?」


「し、失言しただけよぉぉぉ!? わざとじゃないのぉぉぉ!」


 私もタマモも大慌てする中、失言を続けてしまう。


 その失言にベティがより激しく泣きじゃくっていく。


「ばぅぅぅぅぅー!」


 腕の中でじたばたと暴れるベティ。


 どうすればいいのか。


 どうしてあげればいいのか。


 伯母である私にはわからなかった。


(どうすればいいの? どうしたらいいの、カレン)


 泣きじゃくるベティをどうすればいいのかわからず、私たちがふたり揃って狼狽えていた、そのとき。


「落ち着いて、ベティ」


 ひょいと腕の中にいたベティを取り上げられてしまった。


 同時に、アンジュが優しくベティに囁きかけていた。


「まま、ベティは、ベティはぁ」


「うん。知っている。ベティはベティでしょう? おとーさんとおかーさん、それにママのかわいい、かわいい娘だよ」


「ばぅ。むすめ」


「そう、かわいい娘だよ。そうでしょう?」


 ベティを抱きながら、こつんと額を合わせるアンジュ。ベティは泣きじゃくりながらも、「……うん」と頷いた。


 アンジュに抱かれたことでベティは少しずつ落ち着きを取り戻していく。よかったと私もタマモもほっと一息を吐いたところで──。


「だから、大事な娘を泣かされるのは、とっても、とっっっても不愉快になるよね?」


 ──アンジュが突如ベティを胸に掻き抱くと、とても冷たい微笑みを私とタマモに向けてくれました。


 その微笑みにははっきりと「うちの愛娘になにしてくれんのよ」と書かれていました。


 さぁと血の気が引く音がはっきりと聞こえました。


「ルクレ、お願いできるかな?」


「ええ。もちろん。うちの愛娘をいたずらに傷付けるような相手には相応の対応が必要だものね?」


 冷たい微笑みを浮かべているのはアンジュだけではなく、ルクレティアも同じだった。


 特にルクレティアってば、リヴァイアサン様まで持ち出しているじゃありませんか。


 私とタマモが「あ、やべえ」と思ったのは言うまでもないわ。


「ベティ、ママと一緒におねんねする?」


「……する」


「そう。じゃあ、行こうか」


「……おかーさんは?」


「おかーさんはあとで来てくれるって。ねぇ?」


「ええ。ちょっとしたら行きますからね。だからちょっとだけ我慢してください、ベティちゃん」


「……ばぅ、わかったの」


 私とタマモが戦慄している間、アンジュとルクレティア、それにベティはとても穏やかな会話をしていた。


 それまでの冷たい微笑みは掻き消えて、とても穏やかで優しい笑みを、それこそ慈母のごとき笑みを浮かべるふたり。


 眩しいなぁと思いつつ、すこし前までの笑顔との温度差に風邪を引きそうになってしまう。


「さて、それじゃお先にルクレ」


「ええ、また後でね」


 ひらひらと手を振るアンジュとアンジュと一緒に手を振るベティ。そんなふたりにルクレティアは笑顔で返していた。


 そうしてふたりが甲板からガリオンさんの内部に戻ったと同時に、ルクレティアの笑顔は冷たいものへと戻っていった。


「さぁて、お覚悟を。タマモ様、香恋様?」


「ご、ご寛恕を」


「ど、どうか、お慈悲をですね」


「うん、ダメです」


「「デスヨネェ~」」


 ルクレティアからの死刑宣告を受けて、私もタマモも揃って胸の前で十字を切った。


 その後のことは、まぁ、語るまでもないわね。


 あえて言うとすれば、私とタマモが復帰したのは夕食後で、そのときにはベティの笑顔は戻っていたということ。


 そしてベティを除いた全員から白い目で見られるという、とても居心地の悪い状況に至ったということくらいかしらね。


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