rev5-Ex-2 こぼれ落ちる涙を拭えず
地上がはるか遠くにあった。
海も大地もはるか遠い。豆粒みたいな大きさとまでは言わない。
海も大地もいまいる場所から見ても、私よりも大きい。
だけど、地上からでは見られない光景を、その全体像を見ることができていた。
それができるのも、いま私が地上よりもはるか高い場所にいるからだ。
雲でさえもいま私のいる場所からは遠い。
その雲どころか、成層圏よりも高い場所に私はいる。
「天空殿」──。
それはこの世界における母神が座す社にして、私とお母様が住む家だった。
そんな「天空殿」から眺めた地上は、航空写真を切り取ったように思えた。
「……航空写真、か」
ふとあの頃のことを思い出してしまった。あの頃、私が地球にいた頃のことを。私が一時的に神でなかった頃のことをだ。
当時、私はただの人だった。
というか、私が私であることを認識していなかった。
いろんな要因が重なり、私は神であることを忘れて、力もなにもないただの女性として、あの世界の、平和な国で過ごしていた。
そんな頃、航空写真を初めて見て、無性に懐かしさを感じたことがあった。
あのときは、どうして航空写真を見て、毅の地理の教科書に載っていた写真を見て、心が揺り動かされていたのかがわからなかった。
当時の私は記憶のない女性でしかなかった。
産まれた場所も、育った国も、そして自分の名前さえもわからない。
なにもかもがわからない、記憶をなくした女。それが当時の私だった。
だからこそ、当時の私は人として生きていた。
神であることを知らなかったから。神だったことを忘れて人として、鈴木空美という名前で生きていた。
名前も憶えていない私が当時名乗っていた名前は偽名だった。
……いや、偽名というのは言い過ぎか。
単純に私が一時的に名乗っていた名前が鈴木空美だったというだけ。
その名前は、私自身が付けた名前じゃない。
私を拾ってくれた、剛さんたちが付けてくれたのが空美という名前だった。
由来は、よく晴れた日に、いままで出会えたこともないくらいにとても美しい人だから、というなんとも言えないものだった。
お義母さんやお義父さんが仰るには、私の名前を真っ先に考えついたのは剛さんだったそう。
というか、衝動的に剛さんは言っていたそうだ。
ただ、当の剛さんはそのことを口にされていなかったけれど。
剛さんは「お袋が考えた」とか、「親父がなんとなく言っていたから」とか、その時々で誰が考えたのかを変えていた。
その時点で「あぁ、この人は嘘が下手な人なんだなぁ」と思った。
嘘が下手だからと言って、必ずしも誠実というわけではない。
でも、剛さんはいつも誠実に私に接してくれた。
自分の名前さえもわからない、身元不明の女なんかにあの人はいつも誠実だった。
そんなあの人をいつからか愛していた。
そうして気付けば、あの人と結ばれ、あの人との子を産んでいた。
そして最後に産んだのが香恋と歩だった。
あのふたりを、いや、香恋を産んだとき、私はようやく自分が誰なのかを思い出した。
地球に来て、すでに二十年近く経っていた。
香恋と歩を身ごもったとき、それまでにない感覚があった。
毅の教科書で航空写真を見たときも、懐かしさがあった。
和樹や宏明のときにも、航空写真以外でも懐かしさを憶えたことがあった。
たとえば、和樹が将棋をしていたとき、たとえば宏明がお義父さんに剣の稽古をしてもらっていたとき。
それぞれで私は妙な懐かしさを感じていた。
その理由は当時はわからなかった。
だけど、香恋を身ごもったとき、それまで以上のものを感じた。
見覚えのない景色がフラッシュバックするようになった。
どこまでも広がる大地。
牙を剥くファンタジー色の強い生物。
そして飛び交う無数の魔法。
それらを私は見つめていた。
そばにいる仲間たちと一緒に見つめていた。
そのフラッシュバックは、日に日にはっきりとしていったし、日によって見るものも変わっていった。
そんな日々を過ごしながら、あの子たちを産んだとき、いや、香恋をこの腕で抱いたとき、私は私が誰であるのかをようやく思い出せた。
そして、私はあの子たちを捨てて、この世界に戻ってきた。
あれから十六年経った。
香恋をこの腕で抱いたのはあの日っきり。
それ以来、私はあの子を抱いたことはない。
もう抱くような歳じゃないことはわかっている。
それでも、いつかまたあの子を抱く日が来て欲しいと願っていた。
だけど、その機会を永遠に失った。
「……呑みすぎじゃないですか?」
からんとグラスの中の氷が転がる音とともに、呆れたドラームスの声が聞こえた。
壊れた機械竜の姿ではなく、本来の人の姿であるドラームスだ。
ドラームスは私を呆れ半分という顔で見ていた。
「……うるさいな」
目の前にある瓶を取り、空になったグラスに注ごうとしたのだけど、それよりも早く横合いから奪われてしまった。
瓶を取ったのはドラームスではなく、カルディアちゃんだった。
「呑みすぎだよ?」
「……返してちょうだい」
「ダメ。呑みすぎ」
「いいから返してよ」
どんとテーブルを叩く。
ドラームスもカルディアちゃんも気遣うような視線を私に向けている。
その視線が非常に不愉快だった。
カルディアちゃんの手から無理矢理瓶を奪い取り、そのまま口を付けて呷った。
喉を焼く熱さがいまは心地よかった。
「……あれ、何本目なの?」
「……取っておいた最後の瓶ですね」
カルディアちゃんとドラームスの話をぼんやりと聞いていた。
そう、いま呑んでいるのは、香恋と一緒に呑むように取っておいた日本酒。
あの子が産まれた日に買った、あの子の産まれた年に作られた、私の好きな日本酒だった。
一本だけではなく、ついダースで買っていたのだけど、そのダースのうち、一本をブレイズさんに渡していた。
その一本以外をすべていま呑み終えた。
……呑みすぎだってのはわかっている。
言われなくても理解していた。
それでも。
それでも呑まずにはいられなかった。
「……どうして? どうしてあの子が」
涙が視界を歪ませる。
どうしてこうなってしまったのか。
どうしてあの子が死ぬことになってしまったのか。
まだ死んではいない。
致命傷を受けて、あの子は深い眠りに就いている。
その傷がいつ癒えるのかはわからない。
もしかしたら、このまま眠り続ける可能性だって、二度と目を醒まさないことだって十分にありえた。
あの子がなにをしたというのだろう?
……そりゃあ、倫理的に「まずくない?」と思うことはよくしている。
特に女の子を取っ替え引っ替えしているのは、母親の私から見ても「ちょっと」と思うことはある。
でも、あの子は手を出した子たち全員に誠実だった。
全員を平等に愛していた。
まぁ、そのせいでよくお嫁さんたちに追いかけられることもあったけれど、その関係は良好だった。
そしてあの子の中にいたもうひとりのあの子に対しても、あの子は「姉」と認めていた。もうひとりのあの子もまたあの子を「妹」として愛してくれるようになった。
あのふたりは同じ体を共有するけれど、たしかに姉妹だった。
仲睦まじい姉妹としてあってくれていた。
すべては私の事情のせいなのに。
そのせいで、同じ体を共有するという歪んだ関係性であったけれど、それでもあの子たちは姉妹として仲睦まじく日々を過ごしていたのに。
その日々はあっさりと奪われてしまった。
なんでと思うには十分すぎる。
どうしてと嘆くのも当然だ。
なによりも、見ていることしかできなかった私自身の情けなさに怒りが沸く。
その怒りをぶつける先がどこにもなかった。
気付いたときには、あの子たちが成人したときのためにと取っておいた日本酒を開けていた。
一緒に呑んでお祝いしたかった。
……こういうのは父親がするようなものなのだけど、あいにくと剛さんはそこまでお酒に強くない。
外見はあきらかにザルみたいなのに、実際は下戸に近い。
そんなギャップも私は好き。
ギャップに弱いという点はあの子と同じ。こういうのも遺伝なのかもしれない。
……まともに顔を合わせたこともないのに、遺伝するなんておかしな話ではあるのだけど。
「……どうして、香恋? どうしてよぉ」
涙がこぼれ落ちる。
拭っても拭いきれないほどに涙がこぼれ落ちていく。
私はこぼれ落ちる涙をどうすることもできないまま項垂れた。
「……ねぇ、なんで旦那様が死んだ前提で話しているの?」
そんな私の耳に、カルディアちゃんの声が、不機嫌そうなカルディアちゃんの声が聞こえてきた。




