rev5-78 優しい匂い その2
優しい匂いと悲しそうな匂い。
ベティちゃんが言った、具体的ではないどころか、概念的すぎる言葉。
獣人のうちでも、よくわからないものをベティちゃんは辿々しい言葉で精一杯に説明してくれていた。
「えっとね。すこしまえまで、おかーさんはかなしそうなにおいをずっとしていたの」
「ルクレティア様が?」
「うん。そのころは、いろいろとあったの。ベティにはよくわからないことだったけど」
「どういうこと?」
「えっと、おとーさんとおかーさんは、おかーさんのおくにでであったの。それからふーふになったの。そのころのおかーさんはとってもしあわせそうで、やさしいにおいもいっぱいしていたの」
「うん」
「でも、おばーちゃんへーかのおくにで、おとーさんとままはとてもなかよしさんになっちゃったの。それでおかーさんはいつもこわいかおをして、かなしそうなにおいをするようになっていたの」
「それって」
辿々しい説明でも、状況は理解できてしまった。
ルクレティア様の国──海洋国家リヴァイアクスでレン様とルクレティア様は出会い、夫婦となられた。
うちの知るレン様は、ヒナギク様にぞっこんだったのだけど、どうにも複雑なご事情があるようだから、あえてそのことは聞いていなかった。
ルクレティア様は、ご結婚の当初は幸せそうだったようだけど、おばーちゃんへーかの国──山岳国家であるベヒリアのアリシア陛下の元で身を寄せていたときに、アンジュ様とレン様が関係を持つようになって一変してしまった。
たしかに、ベティちゃんではよくわからないことだなぁと思う。
その一方で、レン様がそんな不貞をされるとは思ってもいなかった。
人は変わると言うけれど、さすがに変わりすぎだと思う。
うちの知るレン様は不貞をやらかすような人ではなかったのに。
「あのね、フブキおねーちゃん。おとーさんをわるいひとにしないでね?」
「いや、そんなつもりは」
「うん、わかっているの。でも、ベティだって、おとーさんのしちゃったことはいけないことだってしっているよ。だけど、おとーさんはいろいろとあったらしいの」
「いろいろって?」
「ベティもよくはしらないの。だけど、ルリおねーちゃんとイリアおねーちゃんがいっていたんだけど、ベティにはほんとうなら、もうふたりおねーちゃんがいたらしいの」
「らしい?」
「カティおねーちゃんにはちょっとだけあったことはあるけれど、ほとんどしらないの」
レン様が変わってしまった理由を、ベティちゃんはベティちゃんのおねーちゃんがいなくなってしまったからだと言っていた。
プロキオンちゃんとは別のおねーちゃんがベティちゃんにはいたらしい。らしいというのは、ベティちゃんも会ったことがないからのようだ。
「ふたりはいっていたよ。おとーさんは、さいしょ、「またいりく」ってばしょにいて、そこでままやおかーさんとはべつのおよめさんたちがいたって。そのなかには、ままのおねーちゃんもいたらしいの」
「……なにやら複雑な関係やね」
「ばぅ、そーなの?」
「まぁ、普通に考えれば」
どうにもレン様がこの世界に来てからの人間関係は複雑だ。複雑だけど、なんとなく「そんなつもりじゃない」のに関係が複雑になっていったんだろうなぁと思う。
レン様は一見慎重そうなのに、うかつなところがある人だった。
たぶん、そのうかつさが余計な仕事をしてしまい、複雑な関係を築くことになったんだろう。
「だけど、いろんなことがあって、おとーさんはおよめさんたちも、ベティのおねーちゃんたちもめのまえでうしなっちゃったんだって」
「……え?」
「とくに、おかーさんのいとこさんのプーレままが、おとーさんのうでのなかでしんじゃったのがすごくつらかったみたいなの」
「どうして?」
「プーレままいがいが、みんなしんじゃったからなの。それでも、プーレままだけはまもりたいとおもっていたのに、プーレままもまもれなくて、それからおとーさんはかわっちゃったらしいの」
「それは」
そうだろうと思った。
複雑な関係だし、情を抱いていたかはわからない。
でも、目の前で関係を築いていった人たちを失い、まともでいられるほど、うちの知っているレン様は強い人ではいない。
うちの知るレン様のままであれば、間違いなく壊れてしまうはずだ。
「ベティはおとーさんがかわっちゃってからしかしらないの。ベティのしっているおとーさんは、いつもおめんをつけていたの」
「お面?」
「うん。みぎめだけがみえる、おめんをつけていた。そのころのおとーさんは、いつもかなしそうなにおいがしていたの。ベティといっしょのときは、やさしいにおいがしていたけれど」
「……そう、なんや」
「うん」
ベティちゃんの言うお面、おそらくは仮面がどんなものなのかはわからない。
でも、仮面で顔を隠すほど、当時のレン様は追い詰められていたのだろう。
大切な人や娘たちを目の前で喪ったことで、レン様は大きく変わってしまったのだろう。その変化を現すのが仮面だったんだと思う。
その仮面をいまのレン様は身につけておられない。その理由まではうちにはわからないけれど、いまのレン様はうちの知るレン様と同じだった。
うちの知る頃よりも精神的に成熟されているけれど、ほぼ変わっておられない。
それもすべては辛い別れを経験されたからなのだろう。
「だけど、おばーちゃんへーかのおくにで、おねえさまうえとなかよしさんになってから、おとーさんはおめんをつけなくなったの。それからはかなしそうなにおいはなくなったの。いつもやさしいにおいがするようになったんだ」
「そっか」
「おかーさんも、そのくらいのころから、ままとなかよしさんになって、かなしいにおいはくなったんだ」
「へぇ」
レン様がもうひとりのレン様と和解された頃に、ルクレティア様とアンジュ様も和解された。おふたりにあった「悲しい匂い」はその頃からなくなった。
そう聞くと、もうひとりのレン様が「悲しい匂い」をなくしたようにも思えた。
「ベティはね。おねえさまうえが、おとーさんとおかーさんからかなしいにおいをなくしてくれたんだとおもっているの」
「いや、それは」
「だって、おねえさまうえが、おねえさまうえになってから、みんなやさしいにおいがするようになったんだよ? だから、おねえさまうえのおかげだってベティはおもっているの」
楽しそうに笑うベティちゃん。その笑顔を見てうちはなにも言えなくなってしまう。
たまたまだって言うことは簡単だった。
でも、実際にベティちゃんの周りから、悲しい匂いをなくしたのはもうひとりのレン様が表に出るようになってから。
そういう意味では、ベティちゃんにとってもうひとりのレン様は幸せを運ぶ優しい人なのだろうし、そういう風にも見えるのも否定はできないことだった。
「だけど、いまのおねえさまうえからは、やさしいにおいはしないの。かなしいにおいにつつまれてちゃって、ほとんどわからないくらいなんだ」
「……」
「おねえさまうえのかなしいにおいは、ほかのひとにたいしてじゃないの。おねえさまうえにむかっているきがするの。おなじくらいに、こわいにおいがおねえさまからはするの。やっぱりおねえさまうえにむかってなの」
「怖い匂い」
また新しい概念が出てきたけれど、ベティちゃんの言う怖い匂いは、たぶん怒りなんだろう。
もうひとりのレン様はご自身へと怒りを向けている。そうなる理由がなんであるのかなんて、考えるまでもない。
「あとね……フブキおねーちゃんからもするの」
「うちにも?」
「うん。……フブキおねーちゃんのこわいにおいは、おねえさまうえにむかっているけれど」
言いづらそうだったけれど、ベティちゃんはうちからも怖い匂いがするという。それももうひとるのレン様へと向かってらしい。
でも、その言葉を否定することはできなかった。
なにせ、事実だった。
うちはもうひとりのレン様に対して怒りを抱いている。いや、怒りどころか、憎しんでいる。
プロキオンちゃんがいなくなったのは、あの人のせいだ。
レン様をあの人が守ってくれなかったから、プロキオンちゃんはいなくなってしまった。だから、悪いのは全部あの人だって思っていた。
「ベティはね、むずかしいことはぜんぜんわからないの。だけど、それでもおもうの。おねえさまうえをおこっちゃだめだって」
「……」
「だって、おねえさまうえは、おねえさまうえがわるくないことでも、じぶんのせいだっておもっているもん。いまのままだと、なんでもかんでもじぶんのせいだって、おねえさまうえはおもっちゃうの」
「それ、は」
否定できないことだった。
うちはもうひとりのレン様のことを、よくは知らない。
だけど、あの人はうちやタマモ様にいつも優しい声を掛けてくださっていた。
それはつい先ほども同じだった。
もうひとりのレン様のことはよく知らない。
でも、レン様のことはよく知っている。
そのレン様とあの人は同じ声で、優しい声で話し掛けてくださっていた。
(あぁ、そうか。そうなんや)
ベティちゃんが言っていた言葉の意味がようやくわかった。
もうひとりのレン様のことをうちは知らない。
でも、レン様のことならよく知っている。
そのレン様とあの人は同じ声で、同じ優しい声をしている。
だからわかる。
あの人も、もうひとりのレン様も、レン様同様にとても優しい人なのだということが。
その優しい人に、うちは自分勝手な憎しみをぶつけていた。
プロキオンちゃんがいなくなってしまったことへの責任転嫁をあの人にしていたのだと。
あの人は必死だった。
プロキオンちゃんの怒りを受け止めながらも、必死に話をしようとしていた。
プロキオンちゃんの誤解を解こうと必死になっていた。
本当にプロキオンちゃんの言うとおりの人であれば、あんなに必死になることはしない。
演技じゃないかと問われたら、否定はできない。
だけど、あのときの必死さも、その後の涙もすべてが演技だとはうちには思えない。
だって、レン様はそういう人だ。
そんなレン様の姉君であるあの人もそういう人なんだ。
ベティちゃんはそのことをわかっている。
わかっているからこそ、もうひとりのレン様を責めないで欲しいと言っているんだ。
「……子供やなぁ」
「フブキおねーちゃん?」
「……うち、ほんまに子供やな」
腹が立ったからと言って、相手にぶつけるだけ。
相手の話を聞かず、自分の意見だけをぶつける。
まさに子供だ。
そんな子供を相手にしても、もうひとりのレン様は笑っておられた。
……きっと誰よりもご自身を責め、ご自身を恨んでいるだろうに。
そのことを考えもせずに、うちはうちの気持ちをぶつけているだけだった。
あぁ、本当に情けない。
本当に子供だ。
エリセ様がこの場におられたら、呆れられていたかもしれない。
本当に情けないったらありゃしない。
「フブキおねーちゃん? どうしたの?」
「……なんでもあらへんよ。ただ、子供やったなぁって思たんやわ」
「ばぅ?」
「ベティちゃんは気にせんでええわぁ」
ベティちゃんは意味がわからないとばかりに首を傾げる。
そんなベティちゃんにうちは笑いながら、「雪だるま作ろうか」と声を掛けた。
ベティちゃんは「そうだったの」と慌てて、雪玉を転がしていく。その後をうちは続いた。
コロコロと転がっていく雪の塊。周囲の雪を取り込んで徐々に大きくなっていく。
もうひとりのレン様もこうなっては欲しくない。
周囲の悲しみをひとりで抱え込んで欲しくはない。
そう思いながら、うちはベティちゃんと一緒にもうひとりのレン様の雪だるまを作っていった。




