rev5-71 魔道を進みし王
視界のすべてが紅かった。
なにもかもが紅く染まっている。
青白い空間であるはずなのに、目の前は赤黒く染まっていた。
私の胸を、毛だらけになった胸を紅が汚していく。
「……ぱぱ?」
震えた声だった。
はじめ、誰の声なのかもわからなかった。
それくらいに声は震えきっていた。
でも、すぐに声の主がわかった。
すごく簡単だった。
だって、声の主は私だった。
私の声はひどく震えていた。
いや、声だけじゃない。
体も震えていた。
体を震わせながら、寄りかかっているパパに声を掛ける。
パパは私をじっと見つめている。
見つめているのに、その瞳には光がない。黒と紅のオッドアイからは、もう光はなくなっていた。
あの穏やかで優しい光はもうなくなってしまっていた。
光の代わりに、パパの胸からは、穴の空いた胸からはどくどくと血が流れていく。
流れ出す血が私の体を紅く染めていく。温かな血が私の体を、真っ赤に染め上げていく。
「あな、た」
声がまた聞こえた。顔を向けると、ベティを抱いたママが表情をなくして立ち尽くしていた。
ううん、ママだけじゃない。
ルクレさんも、ルリ様も、イリアさんたちも。ティアリカさんやサラママも立ち尽くしていた。
タマモさんや、フブキ、トワ先生やカナタ先生、シュトロームさんや、ティアリさんやメア伯母上も。誰もが言葉を失っている。
「ママ、おとーさんは、どうしたの?」
でも、ひとりだけ、ベティだけは状況を理解できていないみたいだ。
正確にはママがベティの目を手で隠していた。だから、ベティにはなにがあったのかがわからない。パパになにがあったのか、わからないんだ。
「めのまえがまっくらで、わからないの。おとーさんは、どうしたの? まま、なんでこたえてくれないの?」
ベティの声がこだまする。
その言葉に、ママはなにも答えることができないまま、ベティを強く、強く抱きしめていた。
パパが見えないように、腕の中に閉じ込めるようにして、ママはベティを抱きしめていた。
ベティは「まま?」と不思議そうにしているけれど、ママはなにも答えない。答えないまま、ただ涙を流していた。
ママだけじゃない。
ルクレさんたちも呆然とパパを、もう言葉を発することもできなくなったパパを見つめている。
「あは、ははは、あははははは! 私の邪魔をするからいけないんですよ。お姉ちゃんが邪魔ばかりするから。だから、これは償いなんですよ、お姉ちゃん? あはははははは!」
白い人が嗤っている。
物言わなくなったパパを見て、嗤っている。なにがおかしいのか、私にはわからなかった。
「『なにが、おかしいの?』」
気付けば尋ねていた。
声はまた二重になっていた。
でも、さっきまでは違う。
同じ二重の声だけど、さっきまでとは違う。
さっきまで、私は私のことがわからなかった。
でも、いまは違う。
いまは私は私のことを理解している。
さっきまでは、目に映るすべてが血袋と贄としか思えなかった。
大好きなパパとママでさえも贄としか見えていなかった。
でも、いまは違う。
いまはわかる。
いまは皆を、大好きな皆を理解できる。
そう、いまの私はフェンリルじゃない。邪神なんて存在じゃない。
少し前までは、神様みたいな視点だった。
けど、いまの私はもう神様なんかじゃない。
大好きな人たちを血袋や贄なんて抜かすような神様じゃない。
大好きな人を守れなかった神様なんかじゃない。
いまの私はさっきまでの私とは別の存在になっていた。
「おや? 再び邪神に堕ちましたか。私の手駒にしたかったのですが、首輪のつけられぬ狂犬なんぞいたところで、ねぇ」
白い人はまだ嗤っている。
しかも、私の言葉を理解しないまま。
どうして理解してくれないのだろう?
どうして質問に答えてくれないのだろう?
意味がわからないよ。
「『質問に答えて。なにがおかしいの?』」
パパを抱きしめながら、白い人の隣に移動する。
白い人は私の動きが見えていなかったみたいで、「……は?」とあ然とした。
あ然としていたけれど、隣から声が聞こえたことで、私が隣に移動したことを理解できたみたい。
慌てて距離を取りながら、「いつのまに」と冷や汗を搔いていた。
うん、やっぱり理解できていないみたいだ。
私はただ質問に答えてほしいだけなのに。
「『どうして、質問に答えてくれないの?』」
距離を取られた分だけ、距離を詰める。今度は隣じゃなく、目の前に迫ってあげた。
白い人は目を大きく見開いていた。その顔にと手を伸ばし、そっと頬を掴んだ。
そう、そっと頬を掴んだはずだったのだけど、白い人は唇の端から血を噴き出させていた。
力加減、間違えちゃった。
でも、どうでもいいや。
いまはただ質問に答えてほしいだけなのだから。
パパが、パパがいなくなってしまったことのなにがおかしいのか。
その理由を私は知りたいだけなんだから。
「『ねぇ、答えて? パパを殺してなにがおかしいのか。教えてよ』」
白い人の頬を掴みながら、淡々と尋ねる。徐々に頬を掴む手に力を込めながら。いや、力を込めてしまっていた。
「この、力っ! 化け物、め」
白い人はやっぱり答えてくれない。
私の声が聞こえていないのかな?
その耳は飾りなのかな?
あぁ、もしくは、その耳のような飾りのせいで、よく聞こえないのかな?
じゃあ──。
「『聞こえていないみたいだから、それいらないでしょう?』」
──聞こえやすいように、取ってあげよう。
パパをより腕の中に仕舞い込み、空いている方の手を伸ばし、白い人の耳を掴み、そのまま引きちぎった。
白い人は最初なにがあったのかわからなかったみたいで、呆然としていた。
でも、耳が宙を舞ったことで、なにが起こったのかがようやくわかったみたい。
一拍遅れて悲鳴があがった。
悲鳴はとてもうるさかった。
すごく耳障りだった。
だから、今度は頬を少しだけ強く握ってあげた。
それだけで白い人はなにも言えくなった。
うん、これでようやく質問に答えてもらえるかな?
「『ほら、これで私の声聞こえるよね? いままでは、その飾りの耳のせいで聞こえなかったんでしょう? でも、いまはなくなったからちゃんと聞こえるよね?』」
笑いかけてあげると、白い人の顔に明かな怯えの色が見えた。
どうしてだろう?
私はただ笑っただけなのに。
嗤ってじゃなく、笑ってあげたのに。
それのどこが怖いんだろう?
やっぱりわからないや。
パパだったら教えてくれたのかな?
……でも、もうパパはなにも教えてくれない。
もう私を抱きしめてくれもしない。
頭を撫でてもくれない。
……愛していると言ってくれない。
「『……ねぇ、教えて? パパを殺してなにがおかしかったのか? どうして笑えるのか。私からパパを奪い取って、おまえはなんで笑っているの? 教えて。ううん、教えろ、おまえはなんの目的で、私たちからパパを奪ったんだ?』」
あぁ、ダメだ。
頭の中が沸騰しそう。
怒りで頭の中が真っ白になっていく。
いますぐこいつをめちゃくちゃにしてやりたい。
いますぐこいつの喉笛を噛みちぎってやりたい。
私たちから、大好きなパパを奪い取った贖罪をさせなければ気がすまない。
そう思う一方で、私にも責任はあるとも思う。
私が邪神なんてものになってしまったせいだ。
そう、すべては私が闇に堕ちてしまったから。
私が堕ちなければ、パパは死なずにすんだ。
こいつなんかに殺されなかったはずなんだ。
だから、すべて私が悪い。
私が神様になんてなってしまったから。
誰も守れやしない神様になんかなってしまったから。
そうだ。
神様はなにも守れない。
神様はただ導くことだけ。
守ることはできないし、しないんだ。
そんなものになってしまったから、私はパパを喪ったんだ。
すべて私が神様なんかになってしまったから。
じゃあ、私はなにになればよかったんだろう?
ふと浮かんだ疑問に対する答えは、すぐに出た。
だって、私は知っているから。
すべてを、愛するすべてを守ろうとする人たちの背中を。
その有り様を。
そのまなざしを。
だから。
だからわかる。
私が本当になるべきだったものを。
そうだ。
私は神様なんかにならなければよかった。
私がなるべきだったもの、それは──。
「『答えろ。答えよ。我が問い掛けに答えよ』」
「っ、何様のつもりですか? たかが闇に堕ちた獣風情が」
「『……獣風情? は、その獣風情に言いように痛めつけられている分際で、よく吼えるわ。だが、あえて答えてやろう』」
白い人、いや、愚者に向かって嗤いかける。笑うではなく、嗤ってやった。
もう、これに掛ける情けなどない。
情けなど掛けてやる理由がない。
情けなど掛けないが、あえて問い掛けには答えてやる。
私、いや、我がなにになったのかをだ。
「『我は王。神などでは、愛する者を守れもしない惰弱な神などではない。さりとて、正しき王ではない。正しき王は、みずからの醜き感情に突き動かされることはない』」
そうだ。
我は王になるべきだった。
すべてを、愛するすべてを守る王に。
だが、我の有り様は、我の知る正しき王たちとは違う。
この身は怒りや憎しみに突き動かされている。
正しき王は、そんなものに突き動かされはしない。
ゆえに、我は正しき王ではない。
ルクレティア女王やアリシア女王のような、民に愛されし王たりえない。
王道を進む王ではない。
では、我が進むべき道はなんなのか?
簡単なことだ。
我が道は魔道。
魔に魅入られし醜き道。
魔道を進みし王。
そう。
ゆえに我は──。
「『我は魔王。魔王プロキオン。我が愛するすべてを守りし王。そのためであれば、すべてを屠る魔道の王である』」
愚者に向かって告げる。
愚者は「魔王、ですって」と驚愕していた。
「『そう、我は魔王だ。愛するすべてを守るために魔道に堕ちた王。それが我だ。ゆえに、愛する者を守るために、我は貴様を処する。もう二度と我の愛するものを奪われないために』」
空いている手を強く握りしめる。
愚者を相手など何度もしたくない。
ただ一撃を以て殺す。
これを殺したところで、パパが戻ってこないことはわかっている。
それでも、それでも、我はこれを殺さずにいられない。
これを許すことなどできないのだから。
「『報いを受けろ、愚者!』」
愚者に向かって腕を振り抜こうとした、そのとき。
パパの手が私の腕を掴んだ。
死んでしまったはずのパパが、私の腕を掴んだ。
「『パパ?』」
「バカな。たしかに心臓を潰したのに」
パパが私の腕を掴んだことに、私も愚者も揃って驚いた。
いや、私たちだけじゃない。
この場にいる全員が驚愕の目をパパに向けていた。
「……」
でも、パパはなにも言わなかった。なにも言わずに、俯かせていた顔を上げると──。
「……やめなさい、プロキオン。あなたは魔道に堕ちてはダメ。そんなことをカレンは望んでなんかいないのだから」
──涙を流しながら、パパは首を振っていた。
いや、違う。
パパじゃない。
パパだけど、パパじゃなかった。
だって、この人は──。
「『お姉様、上?』」
──いま私の目の前にいるのは、声しか知らなかったお姉様上なのだから。
「ええ、私は香恋。あなたのパパの姉の香恋よ」
お姉様上は静かに頷いた。頷きながら、その目から大粒の涙を流し続けていたんだ。
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今夜14話更新です。
あのギルマスが登場です。




