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rev5-69 涙の理由

 意味がわからなかった。


 目の前にいるのは、ただの贄。極上のごちそうとはいえ、ただの贄でしかない。


 なのに、その贄の言葉に我らは揺れ動いてしまっていた。


「──君はプロキオンだ。俺とアンジュの愛娘だ」


 白い血袋に似た贄が言った。


「プロキオン」という名前は聞き覚えがあった。


 はっきりとは思い出せないが、その名前は不思議と心地よかった。


 どうして心地いいのかはわからない。


 わからないまま、気付いたら贄と話をしていた。


 なにせ、贄はおかしなことを抜かしたのだ。我らが贄の娘であるとそう言うのだ。


 我らに親などいない。いるわけがない。


 我らは邪神。邪悪なる者たちが崇め奉る神。神たる我らに親などいるわけがない。


 だというのに、贄は我らを娘と呼ぶ。あまりにも愚かすぎて、喰らう気が失せ始めた。


「『娘? なにを抜かすのだ? 我らに親など』」


「いいや、ここにいる。君のすぐ目の前にいるよ」


 そう言って、贄は自身の胸を叩いた。


 やはり、意味がわからない。


 というか、気がたしかなのかと言いたくなる。


 なにを以て、我らを娘と抜かすのか。


 見た目の上で我らと贄にはなんの共通点も見いだせない。


 せいぜいが瞳の色──右目の色が似たような色であることくらい。


 それ以外で贄と我らの共通点はない。


 親子とは、見目の共通点が、似たところがある者たちのこと。


 だが、我らと贄とでは、右目しか共通点を見いだすことはできない。


 それとも、目ひとつだけでも共通点があれば、親子と言えるのか?


 バカバカしい。


 あぁ、まったくバカバカしい。


 バカバカしいにもほどがある。


(……なんなのだ、この愚者は?)


 贄、いや、愚者の言葉がまるで理解ができない。


 贄だと思っていたが、これは贄というよりかは、ただの愚者である。


 そう思わぬと、その言動のおかしさの理由がわからない。


 そう、愚者だから、意味がわからぬことを抜かすのだろう。


 愚者だからこそ──。


「──君はとても優しい子だよ、プロキオン」


 ──我らを優しいなどと抜かすのだろう。


(優しい? 我らが優しいだと?)


 一瞬あ然となった。


 唐突な言葉に、我らを相手に優しいと抜かす、そのお気楽極まりない言葉にあ然となってしまった。


 それこそ、怒りさえも沸き起こらぬほどに。


「『貴様、我らの言葉を──え?』」


 怒りは沸き起こらずとも、呆れはした。


「なんなんだ、こいつは」と思いながら、面倒だから喰らおうかと思い始めたとき、我らは再びあ然となった。


 いや、愕然としたと言うべきか。


 我らの視界が歪んでいたのだ。


 視界を歪ませながら、頬を熱い雫が伝っていたのだ。


 それがなんなのかわからないわけがなかった。なにせ、それは我らの好物のひとつ。食前酒にふさわしきものだった。


「『なぜ、我らは泣いている?』」


 そう、涙こそが我らの食前酒。死の恐怖に晒された際に流れる涙は、美食への添えものとしてこれ以上となく相応しいのだ。


 その涙が我らの頬を伝っていた。愚者のものではない。


 愚者は泣いていない。


 愚者は笑っていた。口角を上げて優しげに笑っていた。


 その笑みは見覚えがあった。


『──』


 脳裏になにかがよぎる。


 映像のようななにかがよぎるとともに、ずきりと痛みが走る。


(これは、なんだ?)


 愚者の笑みを見ると、映像がよぎり、我らが頭を痛ませていく。その痛みとともに涙が途切れることなく流れていく。


 わけがわからない。


 いったい、我らの身になにが起こったというのか。


 いや、いったい、この愚者は我らになにをしたというのか。


「邪神が、涙を?」


 誰かが言った。別の血袋たちか? それともグレーウルフを抱いた贄か? 誰の声なのかはわからなかった。


 だが、その一言は雄弁に我らの状態を言い表していく。


「『なぜ、涙を流しているのだ? 我らになにがあったのだ?』」


 涙を流す理由がわからない。


 なぜ、我らは泣いているのか。


 どうして泣く必要があるのか。


 なにもかもが理解できなかった。


「嬉しいから涙を流すこともあるんだよ。頑張るだけ頑張ったことを認めて貰えたら、誰だって嬉しいんだ。そのときに涙を流すこともあるんだよ」


 理解できないでいると愚者は言った。


「嬉しいから涙を流すこともある」と。


 だが、その言葉が事実なのかはわからない。


 我らが知る涙は、死の恐怖に晒された際のもの。


 恐怖に怯えるからこそ、涙は流れる。それが我らの知る涙だ。


 だから、「嬉しいから涙を流す」などということを我らは知らない。


 本当にその程度のことで涙を流すことなどあるのだろうか?


 いや、あるわけがない。そんな涙などあるわけがない。あっていいわけがない。


(これは危険だ。危険すぎる。こんな危険な愚者などいるわけがない!)


 これは危険だ。


 我らの根底を覆すような存在が、愚者などであるわけがない。 


 疾く。


 疾く排除せぬと、我らが我らでなくなってしまう!


 強い衝動だった。


 それこそ、すぐにでも殺さないと思うほどに。


 その口を二度と開かさないようにしなければと思うほどに、強い衝動だった。

 

 だが──。


「やっぱり君はプロキオンだ。俺たちの大切な愛娘のひとりだよ」


 ──我らが衝動に突き動かされるよりも速く、彼奴は言った。


 我らを「プロキオン」と優しげな声で呼んだのだ。


 知らぬ名前であるはずなのに。


 その名で呼ばれることがとても心地よかった。


 だが、いくら心地よくても、その心地よさに身を任せることなどできない。


 我らは彼奴から離れた。


 たったそれだけで我らの呼気は乱れていた。


「『なにを、なにを言っている? なにを言っているのだ、貴様は!? 我らはフェンリル! 邪神フェンリルなり! プロキオンなどでは』」


「違う。君はプロキオンだ」


「『いい加減にしろ! 我らは邪神! 邪悪なる神ぞ! その我らを娘だと!? 図に乗るのも』」


「娘を娘と言ってなにが悪い?」


「『っ、貴様、狂っているのか? もうよい。貴様の顔は見飽きたわ!』」


 右手の爪を伸ばす。


 これが最後通牒であることを暗に伝えてやった。


 これ以上、わけのわからぬことを抜かすのであれば、その顔に風穴を開けてやる。爪を伸ばすことでそれを伝えてやったつもりだった。 


「何度でも言う。君はプロキオンだ。もう悪ぶらなくていいんだよ」


 だが、彼奴は思った以上に愚かであった。


 いや、愚かというよりも、これは狂っている。狂人である。狂人相手に常識など通ずるわけがない。


 いや、狂人などこれ以上相手にする必要はない。


 せっかくの最後通牒も無駄であったが、もうどうでもいい。いまはただこの狂人を黙らせられればそれでいい。


 そんなに顔に風穴を空けさせてほしいのであれば、そうしてやろう。


「『黙れぇぇぇぇぇぇ!』」


 邪魔な結界ごと、散るがいい。我らは躊躇泣く、奴の顔目がけて右腕を振り抜いた。


 その途中で結界と我らが爪がわずかに拮抗する。


 が、すぐに音を立てて、結界は砕け散る。


 奴と我らを阻むものはなにもない。あとはただ、奴の顔に風穴を──。


『それはダメ』


 ──空けられると思った。だが、その途中でなぜか我らの右腕は奴の顔から逸れていった。


 真ん中を狙っていたのに、我らの右腕は大きく逸れ、奴の頬を抉るだけで終わってしまった。


 頬を抉ったことで血の香りが辺りを漂い、我らと奴の足元に奴が流した血がこぼれ落ちていく。


 だが、それは我らの想定とは違う。我らがしたかったことではない。


 この一撃を以て仕留めるつもりだったのだ。それがなぜ頬を抉っただけで終わるのか。


 意味がわからなかった。


(そもそも、あの声はなんだ?)


 風穴を空けようとしたときに、聞こえてきた声。あの声の正体はなんなのか。


 わからぬ。


 なにもわからぬ。


 なにが起こっているのだ?


 いったい、我らの身になにが起こっている?

 

 状況に驚愕しつつも、我らはどうにか笑った。


 笑うことで「いまのがわざと狙いを外したのだ」ということを強調してやった。


「『は、ははは、どうだ? これでも我らを娘と抜かすか? いまはあえて逸らしてやったが、その気になれば貴様の顔に穴が空いておったのだぞ? それでも我らを』」


 これでどうにか黙らせられるようにと願った。そう願ったのだが、相手はあまりにも悪すぎた。


「……君は俺たちの娘だよ」


 彼奴はまっすぐに我らを見詰めた。


 黒と紅のオッドアイはとても真剣で、そしてとても穏やかな光を宿しながら我らを見据えていた。


 その二色の瞳に、その瞳に宿る優しげな光に絆されそうになりそうだった。


「『っ! あぁ、あぁ、あぁ! もうよい。もう喋るな。貴様の声などもう聞きたくない! 我が贄となるがよいわ!』」


 が、絆されるわけにはいかぬ。


 我らは邪神。邪神フェンリルなり。邪神が情に絆されるなどあっていいわけがない!


 風穴を空けられぬのであれば、喰らい尽くせばよい。


 手始めにその右肩を噛みちぎってやる。そうすれば、自分がどれほど狂っていたのかを理解できるだろう。


 あぁ、楽しみだ。楽しみでならぬ。


 これでようやく食事にありつけるのだ。


 嗤いながら奴の右肩に噛みついた。


 グレーウルフを抱いた贄の悲鳴が聞こえる。この狂人を喰らった後に、あれも喰らってやる。


 だが、その前にこの狂人をゆっくりと喰らってやる。


 愛娘だなんだと抜かしても、徐々に喰われていく様を見れば、化けの皮などすぐに剥がせるというもの。


(あぁ、いったい、どんな表情を浮かべるのだろうな)


 楽しみだ。実に楽しみだと。そう思っていたとき。


「……ぬくもりは変わらないね、プロキオン」


 我らの背中に彼奴の両腕が回された。


 なにをすると思ったときには、彼奴はとても穏やかな声で我らを「プロキオン」と呼んだ。


 その声に顎から力が抜けた。


 肩から骨が砕ける音がやんでいく。


 なぜ?


 なぜ、これは変わらぬ?


 なぜ、これは怯えぬ?


 なぜ、これは──。


「何度でも言うよ。君はプロキオンだ。邪神なんかじゃない。俺の大切な愛娘のひとりなんだ」


 ──こんなにも優しい声で、我らに声を掛けるのだ?


 わからぬ。


 もうわからぬ。


 これはいったいなんなのだ?


 いったい、なぜ、こんなにも優しく、我らを、私たちを撫でてくれるの?


 肩の砕けた右腕で、まともに動かないはずの腕で、どうして私たちの頭を撫でてくれるの? こんなにも優しくしてくれるの?


「パパは君を愛しているよ、プロキオン」


 そっと囁かれた言葉は、やはりとても優しかった。


 囁かれた言葉に涙が再び零れた。


 口の中だけで、血まみれになった口の中でだけ囁かれた言葉を、「パパ」という言葉を反芻する。


 たったそれだけ。


 たったそれだけで荒ぶっていた心が凪いでいく。


 心の奥底まで穏やかになっていく。


 頬を幾重もの涙が伝っていく。


 なぜ、私たちははまた流しているの?


 どうして、涙が流れてしまうの?


 悲しくなんかないのに。


 辛くもないのに。


 こんなにも涙が止まらないの?


 どうして?


 なんで?


 わからない。


 わからないよ。


 誰か。


 誰でもいいから教えて。


 私たちはなんで泣いているの?


『パパが言っていたのを忘れたの? パパは言ってくれたよ。嬉しいときでも涙は流れるんだよって』


 また誰かの声が聞こえた。


 あぁ、そうだ。


 たしかにそう言われいた。


「パパ」はたしかにそう言っていた。


(……そっか。「パパ」が言うなら、間違いないのかもしれない)


「パパ」と呼ぶだけで、より心が凪いでいく。気付いたときには噛みついた肩から牙を抜いていた。


「パパ」が痛みに喘ぐ声がわずかに聞こえた。


(……謝らないといけないよね)


 謝り方はわからない。それでも謝らないといけないと思った。


 でも、どう謝ればいいのだろうか。


『大丈夫。パパは許してくれるから。だって、パパは優しいもの。そんなパパが私は大好きなんだから。きっとあなたもパパを大好きになれるよ』


 誰かが言う。


 まともな答えになっていない。


 でも。


 でも、たしかにその通りなのかもしれない。


「パパ」ならきっと許してくれる。


 不思議とそう思った。


 だから、私たちは謝ろうとした。


「『パ──』」


「パパ」と呼ぼうとした、そのとき。私たちの視界を紅が覆った。


 噴き出た血が私たちの顔を濡らしていく。


「パパ」の背中から噴き出た血が、背中を大きく斬られた「パパ」からあふれ出た血が私たちを紅く染めていく。


「あなた!」


「旦那様!」


 幾重もの声が聞こえた。


 その声に反応することなく、「パパ」は私たちにもたれ掛かる形でずるずると倒れていく。


「恋、香……っ」


「パパ」は苦しげに呟いた。


 その呟きに反応するようにしてそれは、「パパ」に似た白い血袋は、パパの血に濡れた白い血袋は血を滴らせた剣を握りしめながら嗤っていた。


「ははは、これ以上好き勝手にはさせませんよ、お姉ちゃん」


 白い血袋は「パパ」の血に染まりながら嗤っていた。嗤いながら剣を逆手に握ると、パパの背中へとその剣を突き刺したんだ。

https://kakuyomu.jp/works/16818093080456940494

現在12話まで連載中です。


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