rev5-68 変わらないもの
プロキオンがいなくなった。
アンジュや香恋、タマちゃんからはそう言われていた。
でも、すぐに信じることはできなかった。
信じられるわけがない。
だって、あの子はたくさん辛い目に遭ってきた。そのすべてを俺は知らない。
でも、概要は知っている。
植え付けられた記憶でアルトリアを「まま上」と慕っているのに、当のアルトリアからは「出来損ない」扱いをされ続けてきたこと。
トラウマになるほどの虐待をされ続けてきたことを俺は知っている。
だからこそ。
いままでが不幸のどん底だったからこそ、俺とアンジュの元にいる限り、幸せにしてあげたかった。
泣き顔ではなく、無理に作った笑顔でもなく、子供らしい笑顔を浮かべさせてあげたかった。心の底から幸せそうな笑顔をあの子に浮かべさせたかった。
だから、信じられなかった。
目の前にいるのがプロキオンではないなんて、信じられるわけがなかった。
たとえ、腕の一振りでカオスグールを殲滅するほどの暴風を起こせたとしても。
たとえ、野生の獣じみた、全身の要所を黒い剛毛で覆い尽くそうとも。
たとえ、愛らしい声が二重に聞こえてきたとしても。
それでも、目の前にいるのがプロキオンだと信じたかった。
どれほど変わったとしても、俺とアンジュの愛娘であることには変わらない。そう思っていた。
でも、その想いはあっさりと裏切られてしまった。
いや、現実を突き付けられてしまった。
「『あぁ、喰らいたい。疾く喰らいたい』」
アンジュが張った結界に触れながら、血の瞳を爛々と輝かせて嗤う姿は、俺の知るプロキオンではなかった。
プロキオンに似たナニカとしか思えなかった。
それでも。
信じたくなかった。
あぁ、愚かだとは思う。
馬鹿げているとも思う。
それでも、心が納得してくれない。
理性的に考えれば、目の前にいるのは、プロキオンじゃない。
あの子じゃない、別の存在だった。
そう、頭ではわかっている。
でも、心が納得してくれない。
どれほど変異しようと、プロキオンはプロキオンだと俺の心が叫んでいた。
いい加減にしろと自分でも思う。
親バカにもほどがあるだろうとも思う。
それでも。
俺は目の前にいるのがプロキオンだって思ってしまっていた。
見た目も声も中身までも変わってしまっても、それでもプロキオンだと思ってしまっていた。
「……プロキオン」
結界越しに、プロキオンが触れる部分に結界内から触れた。
薄い膜のような結界だというのに、手と手を結界越しに触れさせているというのに、あの子のぬくもりは伝わってはこなかった。
「『? 誰のことを呼んでいる?』」
プロキオンは不思議そうに首を傾げた。
仕草はプロキオンのまま。血の瞳に光はない。光はないが、俺を見上げる姿はプロキオンのままだった。
「あなた、離れて!」
アンジュが叫ぶ。
アンジュからしてみれば、いまのプロキオンはもうプロキオンではないんだろう。
神に至った彼女には、もうプロキオンがいなくなってしまっていることをわかっているんだろう。
タマちゃんや香恋もそれがわかっている。
もしかしたら、他の皆も理解しているのかもしれない。
特にルリは、大元のフェンリルだったルリならば、いまのプロキオンがプロキオンではないことを理解しているだろう。
ルリはずっと俯いていた。
俯きながら、その小さな手を強く強く握りしめていた。
掌が破け、血を滴らせるほどに強く自身の手を握りしめている。
ルリがどんな葛藤をしているかはわからない。
自分さえいなければ、とまた思い込んでいるのかもしれない。
そう、自分さえいなければ、悲劇は起こらなかったと考えているのかもしれない。
ルリらしいと思う。
ツンケンしているけれど、本当は誰よりも心優しいあいつらしい。
「あなた、離れて、お願いだから! あなたまでいなくならないで!」
アンジュが叫ぶ。
神になってから、彼女が叫ぶことはなくなった。
そのアンジュが珍しく叫んでいる。
必死になって叫んでいた。
でも、その声に応えてあげることはできない。
「……プロキオン」
「『だから、誰のことを言っている? 我らは邪神。邪神フェンリル──』」
「いや、君はプロキオンだ。俺とアンジュの愛娘だ」
「『娘? なにを抜かすのだ? 我らに親など』」
「いいや、ここにいる。君のすぐ目の前にいるよ」
結界に額をそっと押しつける。
プロキオンは結界に張り付くようにして立っていたから、ちょうどプロキオンの額に触れ合う形になった。
そこまでしても、結界越しにあの子のぬくもりは感じられない。
後ろからはアンジュたちの「離れろ」という声が聞こえる。
誰もが俺を心配してくれている。
まるで少し前の焼き直しのようだ。
プロキオンがひとりでカオスロイヤルたちの元へと躍り出たときのように。
あのときは、なんでプロキオンがそんなことをしたのかはわからなかった。
あの子だけが背負う必要はなかったのに。
なんで、プロキオンはひとりで突っ走ってしまったんだろうか。
その理由はいままでわからなかった。
でも、いまはわかる。
プロキオンは背負い込んだわけじゃなかったんだ。
この子はただ助けたかっただけなんだろう。
会ったこともないママを、シリウスがママと慕う希望と同一存在である彼女たちを助けたかったんだ。
たとえ、自分の身がどうなろうとも。
呪われた運命から、彼女たちを解放してあげたかったんだ。
俺とアンジュがプロキオンを解放したように。
プロキオンもまた彼女たちを解放したかったんだ。
あぁ、わかる。
いまならその気持ちがよくわかるよ。
本当に。
あぁ、本当にこの子は──。
「──君はとても優しい子だよ、プロキオン」
「『貴様、我らの言葉を──え?』」
プロキオンが苛立っていた。苛立っていたのだけど、その声は途中で途切れてしまった。
アンジュが「嘘、でしょう?」という驚いた声が聞こえた。
無理もないかな。
アンジュにとって、いや、いまのプロキオンにとってもそれはありえないものだった。
「『なぜ、我らは泣いている?』」
プロキオンは血の瞳から大粒の涙を零していた。
血の瞳に反射しているからなのか、まるで血の涙を流しているように見えた。
血のような涙も、頬を伝い、顎から滴り落ちたときにはもう透明な涙へと変わっていた。
「邪神が、涙を?」
誰かが呟いた。その声が誰のものなのかはわからなかった。
わからないまま俺はプロキオンを見詰めた。
プロキオンはわけがわからないとその顔に書きながら、困惑しているようだった。
「『なぜ、涙を流しているのだ? 我らになにがあったのだ?』」
自身に降りかかる未知の出来事に、プロキオンは困惑している。
見目は変わっても。
声が二重に聞こえても。
プロキオンは変わっていなかった。
いや、この子はこの子のままだった。
「嬉しいから涙を流すこともあるんだよ。頑張るだけ頑張ったことを認めて貰えたら、誰だって嬉しいんだ。そのときに涙を流すこともあるんだよ」
いつものように。
いつものようにプロキオンに教えてあげた。
もう、俺ではプロキオンに教えられることはほとんどない。
知識という面で、プロキオンは俺よりも多くのことを知っているだろう。
知らないことはなんだって知ろうとする。
時折、暴走して無茶なことをしてしまうけれど、目をきらきらと輝かせて知らなかったことを知っていく姿はとても愛らしい。
ベティを妹として愛しているのに、ときどき虐めてしまうも、その後はちゃんと謝り、元通りの仲良しな姿を見せてくれる。
とても純粋で、とても素直で、そしてとても繊細だ。
そんなプロキオンを俺は愛している。だって、この子は俺の大切な愛娘のひとりなのだから。
「やっぱり君はプロキオンだ。俺たちの大切な愛娘のひとりだよ」
プロキオンに微笑むと、プロキオンは頭を抱えながら結界から離れた。
「『なにを、なにを言っている? なにを言っているのだ、貴様は!? 我らはフェンリル! 邪神フェンリルなり! プロキオンなどでは』」
「違う。君はプロキオンだ」
「『いい加減にしろ! 我らは邪神! 邪悪なる神ぞ! その我らを娘だと!? 図に乗るのも』」
「娘を娘と言ってなにが悪い?」
「『っ、貴様、狂っているのか? もうよい。貴様の顔は見飽きたわ!』」
プロキオンが右手の爪を伸ばした。ひとつひとつの爪が鋼鉄よりも強靱に見える。いや、きっと鋼鉄さえも簡単に切り裂けるほどに強靱なんだろう。
だけど、それがどうした?
「何度でも言う。君はプロキオンだ。もう悪ぶらなくていいんだよ」
「『黙れぇぇぇぇぇぇ!』」
プロキオンは叫びながら、アンジュの結界に、いや、俺に向けて右手を振り抜いた。
アンジュの結界はほんの一瞬拮抗したけれど、音を立てて砕け散った。
アンジュが「あなた!」と叫ぶ声が響く中、プロキオンの右手がまっすぐに俺の顔に向かい、大きく逸れ、頬をわずかに抉っていた。
血が地面を濡らし、その臭いが立ちこめていく。
「『は、ははは、どうだ? これでも我らを娘と抜かすか? いまはあえて逸らしてやったが、その気になれば貴様の顔に穴が空いておったのだぞ? それでも我らを』」
「……君は俺たちの娘だよ」
「『っ! あぁ、あぁ、あぁ! もうよい。もう喋るな。貴様の声などもう聞きたくない! 我が贄となるがよいわ!』」
プロキオンが苛立ったように叫ぶと、その口を大きく開けて、俺の肩に噛みついた。
アンジュやルクレたちの悲鳴染みた声が聞こえた。
悲鳴染みた声が響く中、プロキオンの牙が俺の肩に食い込んでいく。
肩の骨が徐々に砕けていくのがわかる。プロキオンが得意げに嗤っているのもわかる。
それでも俺は徐々に動かなくなっていく腕を無理矢理動かして、プロキオンの背中に回した。
もう片方の腕も回して、プロキオンを強く抱きしめた。
いつものように。いつもと変わらないように大切な愛娘を抱きしめていく。
「『っ!?』」
腕の中でプロキオンが驚くのがわかった。
見目も変わり、声も二重に聞こえ、らしくないう表情を浮かべても、変わらないものはあった。
「……ぬくもりは変わらないね、プロキオン」
そう、ぬくもりだけはなにも変わっていない。
俺の知る、俺の大切な愛娘のひとりであるプロキオンのままだった。
「何度でも言うよ。君はプロキオンだ。邪神なんかじゃない。俺の大切な愛娘のひとりなんだ」
噛みつかれた方の腕でそっとプロキオンの頭を撫でていく。
すると肩の骨が砕ける音がやむ。腕の中でプロキオンが震え始めた。
震える理由はまだわからない。
わからないけれど、俺は構うことなく、プロキオンを抱きしめていく。
たとえ、もう二度と肩が上がらなくなってもいい。
義肢になったとしても構わない。
この子を取り戻せるなら、それでもいい。
「パパは君を愛しているよ、プロキオン」
腕の中にいるプロキオンにそう語りかけながら、俺は腕の中の愛娘を強く、強く抱きしめ続けたんだ。




