rev5-67 お願いだから
プロキオンの変化はすぐに起こった。
恋香に防がれて、プロキオンのそばに駆け寄ることができなかった。
その間に、あの子は変わった。
突如として、頭を抱え込み、まともな言葉になっていない悲鳴を上げたんだ。
かわいらしい顔はぐちゃぐちゃに歪み、形のいい唇は大きく開き、そして愛らしい声で絶叫していた。
普段のプロキオンとはまるで違っていた。
それでも。
それでも、あの子が俺の、俺とアンジュの娘であることには変わらなかった。
「どけぇ、恋香!」
俺の前に立ち塞がる恋香を弾き飛ばして、プロキオンの元へと向かおうとした。
恋香は目を見開いていたけれど、相手をしている余裕なんてなかった。いまは恋香の相手よりもプロキオンを優先したかった。
そう、優先したかったのだけど、そのときにはもうすべてが遅かった。
プロキオンの絶叫が不意に変わったんだ。
絶叫だったそれが、いきなり遠吠えへと変わった。獣の咆哮へと変わった。そう思ったときには、プロキオンは変わってしまった。
着ていた服は破けて、白い素肌が露わになる。でも、急所となる部分やその周囲を剛毛が覆っていた。
少し長めだった髪は、いっきに長くなり、腰どころか、膝裏まで達していた。まるで髪というよりも鬣のようだ。
かわいらしい顔は酷薄な笑みを浮かべていた。カオスロイヤルたちの血に染まりながら嗤っていた。
そしてなによりも、宝石のようだった瞳が澱んでしまっていた。澱む紅い瞳はまるで血の瞳のような禍々しさだった
「プロ、キオン?」
あっという間の変化に、俺は呆然となった。
恋香を弾き飛ばし、一歩目を踏もうとした矢先だった。
踏み出した一歩。でも、その一歩は悲しく地面を踏み締めるだけ。
愛娘の元へと向かう気力が霧散していくのを感じながら、俺はただ呆然とプロキオンを見詰めていた。
そうして呆然としている間に、プロキオンは口を開き、二重の声で自身を「邪神フェンリル」と名乗っていた。
「鬼の王国」でかつてシリウスがフェンリルと化したときと同じだった。
あのときと同じでいまのプロキオンも二重の声で話していた。
二重の声で自身がフェンリルであることを告げたんだ。
『……遅かったか』
香恋が苦渋に満ちた声で言う。なにが遅かったのかはわからなかった。
わからないまま、呆然と立ち尽くしていると、恋香が笑った。
とても楽しそうに恋香は笑っていた。
まるで最初からこれが狙いだったかのように笑っていた。
笑いながらも彼女は、プロキオンに向かって「混沌の胚」を、蠢く肉塊を投げたんだ。
肉塊はまるで意識があるかのように、まっすぐにプロキオンへと飛翔していった。
「──プロキオン! 避けろ!」
顔のすぐ脇を肉塊が通りすぎていったのを見て、俺は慌ててプロキオンに声を掛ける。
俺が声を掛けたことで、プロキオンは俺をじっと見詰めていた。
瞳は相変わらず禍々しかったけれど、瞳からはいつもと変わらない感情があった。
そう、いつもと変わらない。プロキオンは俺を見詰めているときは、いつも愛情を、これでもかという愛情を込めて──。
「『あぁ、とても美味そうだ』」
──愛情を込めてくれていた。
でも、その愛情はいまは違っていた。愛情は愛情でもそれは別種のものと変わっていた。
プロキオンが俺へと向ける愛情は、大好物へと向けるものへと変わってしまっていた。
耳朶を打った言葉に俺は再び呆然となった。
言葉にならない疑問を紡ぐと同時に、プロキオンの体に肉塊がこびりついた。
恋香は勝ち誇ったように笑った。笑っていたのだけど、その笑みはすぐに消えてしまった。
「『邪魔だな』」
プロキオンはそういうと、体に付着する肉塊を無造作に毟り取った。
その光景に今度は恋香が呆然となっていた。
なにが起こったのかを理解できないとその顔には書かれていた。
それはこの場にいるほぼ全員が同じ感想を抱いていただろう。
でも、まさか、それがまだ序の口だとは誰も思っていなかった。
なにせ、プロキオンは毟り取った肉塊をおもむろに掲げると、かじりついたんだ。
ぐじゅぐじゅという気持ち悪い音を立てながら、肉塊を咀嚼するプロキオン。
恋香が唖然とした声をだす中、プロキオンは肉塊を「オードブル」と称すると──。
「『あぁ、前菜を食べて、より腹が減った。さっそくいただくとしようか』」
──にやりと嗤いながら、俺たちに近付き始めたんだ。
手を広げながら、ゆっくりと近付くプロキオン。
その足音は小さく静かなのに、全身からは強い魔力が迸っていく。
その魔力は凄まじく、相対するだけで全身から汗が噴き出るほどだった。
「っ、まさか、こんなはずが」
恋香はひどく狼狽えていた。想定外だとその顔には書かれていた。
恋香の想定では、この状態のプロキオンに首輪を付けられるはずだったんだろう。
でも、付けるはずの首輪は、プロキオンの手によって無力化した。
頼みの綱であった「混沌の胚」は前菜として食べられてしまった。
恋香の手元に「混沌の胚」がどれほどあるのかはわからない。
だが、どれほどの数があろうと、毟り取られて食べられるのは目に見えている。
恋香自身も理解している。理解しているがゆえに、恋香は「混沌の胚」の無駄撃ちをやめると──。
「カオスロイヤル! 本来の姿となりて、敵を駆逐しなさい!」」
──首なし死体として転がるカオスロイヤルたちに指示を出したんだ。
カオスロイヤルたちは、その言葉を皮切りに黒い肉塊に、カオスグールへと化していく。
カオスグールたちは一斉に咆哮を上げると、プロキオンへと向けて無数の触手を伸ばした。
触手は無数の針、いや、無数の槍と化してプロキオンに殺到した。
「プロキオン!」
俺はとっさにプロキオンへと向かって駆けようとしたが、香恋がそれを止めた。
『やめなさい、無駄よ』
「なにが」
『心配するだけ無駄なのよ』
「え?」
香恋の言葉の意味を理解できずにいる間に、殺到した黒い槍はプロキオンに直撃した。
「『……前菜の次は食前酒、か。至れり尽くせりだな』」
直撃したものの、どれひとつとてプロキオンの体を穿つことはできなかった。
いや、そもそも直撃さえもしていなかった。
プロキオンと槍の間には薄い膜のような結界がいつのまにか張られていたんだ。その結界を槍は穿つことができなかった。
「っ、私の結界よりもはるかに頑丈だね」
アンジュは焦ったように言いながら、俺たちの周囲を結界で覆っていく。
なんでそんなことをと思っていると、プロキオンが腕を一振りした。
「『だが、食前酒はもう決めている。邪魔をするな』」
その一言とともに腕は振られた。次の瞬間、爆風が結界に襲いかかった。結果外のすべてを薙ぎ払う風。その風によって、カオスグールたちが消滅していくのが見えた。
「うそ、でしょう?」
アンジュの結界の内側にいた恋香が、みずから飛びこんだのか、それともアンジュがあえて結界の中に招き入れたのかはわからないが、恋香は結界の外の光景を見て呆然となった。
「これほどとは!」
「喧嘩ナンゾしている場合デハナイナ」
呆然としているのは、聖風王様と氷結王様も同じだった。
「混沌の胚」の影響を受けている氷結王様も、プロキオンが巻き起こした風に焦りの色を浮かべられている。
おふたりを以てしても、いまのプロキオンは脅威の存在ということなんだろう。
俺たちの中で最上位に位置するだろうアンジュだって、余裕のない表情で結界の外にいるプロキオンを見詰めていた。
とても悲しげに、いや、とても辛そうにプロキオンを見詰めている。
その表情の意味が俺にはわからなかった。
悲しいのはわかる。
でも、辛そうにしているのが俺にはわからなかった。
なんで、そんなに辛そうな顔をしているんだろうか。
「アンジュ、なんで、そんな顔を?」
「……当たり前だよ。だって、だって──」
アンジュはベティを抱きかかえながら、泣きじゃくっていた。泣きじゃくりながら彼女は言った。
「──あの子を殺さないといけないんだから」
言われた言葉の意味を理解できなかった。
言葉はわかるのに、その意味を理解できなかった。
「……なにを、言っているんだ?」
愕然としながら、アンジュの元へと向かう。アンジュは大粒の涙を流しながら、結界の外をきつく睨み付けている。
そんなアンジュの肩を掴み、向かい合わせになった。
ルクレの「旦那様!」という声が聞こえたけれど、いまは相手をしている余裕はない。
「なにを言っているんだよ、アンジュ!」
俺は叫びながらアンジュを見やる。
でも、アンジュは涙を流しながら、結界の外から俺へと視線をむけると、きつく睨み付けてきた。
「なにを言っているのかは私のセリフだよ! なんでわからないの、あなた!」
「わからないって、なにが」
「あの子はもう、プロキオンじゃないの!」
ビリビリと空気が震えた。空気が震えるほどの大声でアンジュは叫んだ。
ベティが腕の中でびっくりとして「まま」と呟くも、その声もいまのアンジュには届いていない。
「なにを言っているんだよ。あの子はプロキオンだ! 君と俺の娘の」
「もう違うよ。あの子は、あれはもうプロキオンじゃないの。わかって、お願い。あれはもう私たちの娘じゃなくなっているの」
アンジュが俯きながら呟く。言葉の意味がやっぱりわからない。なにもわからない。
『アンジュの言う通りよ、カレン』
追撃するように、香恋が続けた。どうして香恋までそんなことを言うのかがわからなかった。
「香恋、おまえまでなにを」
『……認めたくないのもわかる。だけど、あれはもうプロキオンではないのよ。プロキオンの意識はもう消えているのだから』
「は?」
プロキオンの意識が消えた?
それこそ意味がわからなかった。
そもそもなにを以てそんなことを──。
『──わかるのよ。私やアンジュには。私は神子ゆえに、アンジュは神だからこそ。タマちゃんもわかっているんでしょう? もうあの子がプロキオンではないことを』
香恋は自分とアンジュが神子や神であるからこそわかると言った。そしてタマちゃんもわかっていることを確認する。
アンジュから視線を外し、タマちゃんを見やると、タマちゃんは苦渋の表情で頷いていた。
「残念ですけど、もうひとりのレンさんの言うとおりです。あれはもう、私たちの知るプロキオンちゃんとは別の存在です。あれはあれの言う通り、邪神なんです」
「タマちゃんまで、なにをバカなことを──」
タマちゃんまでもがあの子をプロキオンではないと断言した。
そんなバカな話があるものか。
いや、信じられるものか。
あの子は、あの子は俺の──。
「『あぁ、その顔。その顔が堪らない』」
──俺の娘なんだと言おうとした矢先だった。
プロキオンの声がすぐそばから聞こえてきた。
声の聞こえた方へと振りかえると、そこは恋香の背後。ほんのわずかな間に、風が吹き荒れている間に、プロキオンは移動していたんだ。
俺の顔がよく見える場所へと。
俺の顔を見ながら、プロキオンは舌なめずりをしている。
恍惚とした顔で、舌なめずりをしていた。
「プロキオン。いつのまに。いや、いまそっちに」
「ダメだよ、あなた!」
プロキオンのそばに行こうとしたが、アンジュがとっさに俺の腕を取った。
ベティを抱えながら、俺の腕を掴むという、なんとも器用なことだ。
でも、いまはどうでもいい。
「なにがだよ、アンジュ。俺はただ」
「あれはプロキオンじゃないの! いい加減、わかって。お願いだから、わかってよぉ」
ほろほろと涙を零すアンジュ。なにを言えばいいのか、なにをすればいいのか、わからなくなってしまった。
俺はただプロキオンを迎えてあげたいだけなのに。なんでそれが──。
「『あぁ、よい。よいなぁ。その顔、その泣き顔、あぁ。あぁ! 堪らぬ、堪らぬなぁ。とても、とても美味そうだ! いますぐにむしゃぶりつきたい!』」
──わかってくれないのか。
そう思うのと同時に、プロキオンが陶酔しながら叫んだ。その内容はプロキオンが発したとは思えないもの。
俺とアンジュを獲物としか見ていない発言だった。
結界の外にいるプロキオンを改めて見やると、あの子は涎を垂らし、呼気を荒げて、陶酔した表情で俺たちを見詰めている。
その姿は、俺が知るプロキオンとは、大切な愛娘とはかけ離れたものだった。
「プロ、キオン?」
『……認めてちょうだい、カレン。あの子はもうプロキオンじゃないの。お願い。……お願いだから、あれをもう「プロキオン」と呼ばないで。あんたの愛娘で、私のかわいい姪と呼ばないでよ』
香恋が涙声で告げた。
その言葉は鈍器で殴られたように、体の芯まで響くほどの衝撃のあるものだった。
視線が気付けば下がっていた。からんと「鳴轟」が転がる音が聞こえた。
小さな音のはずなのに、その音はひどく大きく聞こえた。
いまだ吹きすさぶ風とその風の中で陶酔するプロキオンに似たナニカの声よりもはるかに大きく俺の耳に届いた。
届いた音は俺の頭の中で反芻していく。いつまでも、いつまでもしつこいくらいに反芻していった。
目の前の信じられない光景とともに、いつまでも響き続けたんだ。




