rev5-66 邪神フェンリル
声が聞こえる。
誰の声だろう?
たくさんの声が聞こえる。
誰かが私を呼んでいる。
でも、私は止まらない。
いや、止まることができなくなっていた。
助けてあげたかった。
呪われた命を助けてあげたい。
大好きだからこそ、助けてあげたい。
そのためなら、私がどうなってもいい。
だからこそ、止まらなかった。
止まるわけにはいかなかった。
でも、いまはその理由がわからなくなっちゃった。
(私は誰を助けたかったの?)
よぎる疑問への答えはない。
というか、答えられない。
私自身、いま自分がなにをしているのかがわからない。
いや、そもそもの話──。
(……「私」って誰だっけ?)
──そう、「私」は私が誰なのかがわからない。
なんでだろう?
どうして「私」は私のことがわからないの?
目の前が真っ赤になるたびに、頭の中が靄が掛かっていく。
熱く、どろりとしたものが私の頭上に掛かる度に、思考がおかしくなっていく。
少し前までこんなことはなかった。
でも、いまはどんどん思考がおかしくなっていく。
比例して、手に持っていたナイフがどんどんと染まっていく。
刀身に滴るものが血であることはわかっていた。
でも、その血は誰のものなんだろう?
なんで私はナイフを握っているんだろう?
ナイフを握って助けるってどういうことなんだろう?
わからない。
なにもわからない。
わかるのは、ただ助けたいという想いを私が抱いているということだけ。
「──!」
(……また声が聞こえた)
誰かの声が聞こえる。
声が聞こえる度に、胸の奥がざわめいた。
手を止めろと。
いますぐ下がれと。
早くしないと手遅れになると。
自制心なのか、そんな言葉が脳裏をよぎる。
でも、私は止まらない。
止められない。
だって、私は助けてあげたいから。
本来の姿を失ってしまった、あの人たちをその呪縛から解き放ってあげなきゃいけない。
だから、殺さないといけない。
殺して救わなきゃいけないい。
それができるのは、私だけ。
ううん、私しかしちゃいけない。
だって、いまさらだから。
私は元から汚れた存在。
その存在がいまさら汚れたところで、なんの問題もない。
手を汚すことに躊躇はない。
躊躇していたら、殺せない。
助けてあげられない。
だから、止まれない。
止まるわけにはいかない。
だって──。
『──こんなにも楽しいことを、譲れないもん』
──え?
『あぁ、楽しい。どうしたら、きちんと首を刎ねれるのか。どんな角度で斬りつければいいのかがわかることがすごく楽しい』
なに、これ?
『あぁ、失敗しちゃった。薄皮一枚残っちゃった。次はちゃんと皮も残さず刎ねないと』
……やだ。
『もっと、もっと来てよ。私にたくさんちょうだい? 私が独り占めにできるくらいに来てよ』
やめて。
『あは、おかわり来たぁ。嬉しいなぁ。もっともっと平らげたかったから、すごく嬉しいよ』
違う。やめて。
『あ、今回はちゃんとできたね。ふふふ、よかったぁ。ちゃんとうまく殺せたよぉ。見てぇ? すごくきれいな断面。皮も残さず首を刎ねられたよ?』
やだ、見せないで。そんなの見たくない。
『ん~? なんで? だって、あなたがしていたことだよ? あなたが、あなた自身の意思でこの人たちを殺していたんでしょう? なら、ちゃぁんと見ないとダメだよぉ?』
違う。
私は殺したわけじゃない。
私は助けたかっただけ。
だから、私は──。
『なにが違うの? 振りかえってごらんよ。おまえの背後に転がっているのはなんだ?』
聞こえてきた声に従うように、振りかえるとそこには無数の死体があった。
首を失った、無数のノゾミママが転がっていた。
その先には、必死に叫ぶパパたちがいた。
パパたちの瞳には、血まみれになった私が映り込んでいた。
「ぁ」
瞳に映り込んだ私は嗤っていた。
ノゾミママの血に染まりながら嗤っていた。
「やだ」
『なにが?』
「ちがうの。わたしは、わたし、は」
『なにが違う? そなたが殺したのだ。大好きな「ママ」を貴様が殺したのだ』
「ちがう。ちがう。わたしは、ころしてなんか」
『じゃあ、なぜ、そなたは血に塗れている? その手に握られているものをどう説明する?』
「にぎっている、もの?」
声に導かれて視線を下げると、ふたつのものがあった。
ひとつは血糊を巻きに巻いたナイフ。パパからもらったナイフ。私の大切なもの。
そしてもうひとつは──。
「ぁ、ぁ、ぁ」
──もうひとつは首だった。
ノゾミママの、ノゾミママを元に造られた人たちのひとりの首。光のなくなった瞳で私を見詰める首を私は握っていた。
「ちがう。ちがうの」
ふるふると力なく頭を振るう。
からんとナイフが地面に転がる音が聞こえる。
でも、拾うことはできなかった。
ナイフを捨てて、握っていたノゾミママの頭を抱きかかえる。
「ごめん、なさい。ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい!」
謝ったって意味はない。
だって、どれだけ謝ったって、もうこのノゾミママは死んでいる。
どれだけ謝ったところで、許してくれるわけがない。
許されるわけがない。
『なにを謝っている?』
「ころしてごめんなさい。ころしてしまってごめんなさい」
『殺した相手に謝ってなんになる? それでおまえの罪が償われるとでも? 浅はかだ。あぁ、なんとも浅はかよ。だからこそ、貴様は誤るのだ』
「あやまる」
「そう。誤っているのだ、貴様は。そんな体たらくを見せるくらいなら、最初から殺さなければよかったのだ。なのに、貴様は誤ってしまった。大切な母をその手に掛けたのは、誤りでしかない』
「でも。でも、そうしないとたすけてあげられなくて」
『それが誤りなのだ。誰がそなたにそうしろと言った? 誰もそなたには言わなかったはずだ。そなただけに手を汚せとは言わなかったはずだ』
「それ、は」
たしかに言われていない。
私だけでノゾミママを殺せとは言われていない。
誰も私だけが手を汚せとは言わなかった。
なのに、私はひとりでノゾミママを殺し続けた。
どうして?
どうして私は──。
『理由は簡単さ。そなたは単純に人を殺したかっただけなのだよ。あの日、あのとき、ママたちを殺し尽くしたことが忘れられなかったのさ。あのときの楽しさを忘れられなかったんだよ』
「ちがう。そんなこと」
『なら、なぜそなたは嗤っていた?』
「っ!」
パパたちの瞳に映っていた私は、たしかに嗤っていた。楽しそうに嗤っていたんだ。
「ちがう、そんなの、わたしは」
『違わないさ。おまえは人殺しが大好きなんだよ。誰かのためなんかじゃない。おまえはおまえの楽しみのために、ママを殺していた。そうだろう?』
「ちがう。ちがう、ちがう!」
両手で頭を抱えると、ゴトンと大きな音が立った。
音の聞こえた方へと顔を向けると、そこには光のない瞳で私を見詰めるノゾミママの頭があった。その瞳に映る私は、たしかに嗤っていた。
「あ、あ、あ、あぁぁぁぁぁぁぁぁーっ!」
絶叫が響いた。
それが私自身が叫んだものであることには、すぐには気づけなかった。
叫び声は徐々に大きくなっていく。いや、叫び声ではなくなっていた。
地下空間にこだまするのは、叫び声ではなく、遠吠えになっていた。
狼の遠吠えが響き渡っていく。
『さぁ、受け入れろ。我が意思を受け入れよ。そして交わおうではない。我が真の宿主よ』
声が聞こえる。
誰の声なのかはわからない。
他にも声が聞こえるけれど、もう誰の声なのかもわからない。
わかるのはただひとつ。
「私」はもう私じゃないってことだけ。
「私」じゃないのであれば、いまの私はなんだろう?
私はなにになってしまったのだろうか?
いまの私はいったい──。
『言の葉など意味はない。が、あえて答えよう。そなたは。いや、我らは──』
聞こえてくる声。その声は私の問い掛けに答えてくれた。
「『我は邪神。邪神フェンリルなり』」
そう、私は、いや、我らはフェンリル。邪神フェンリル。それが我らの名。
靄が掛かっていた思考が一気に晴れていく。
あぁ、清々しい。
とても清々しい気分だ。
「あはははは! ご苦労様です、できそこないちゃん! これで我がルシフェニアの地位も安泰です!」
耳障りな声が聞こえた。
白い血袋がなにかを言っている。
なにを抜かしているのだろうか?
「さぁ、私に服従しなさい!」
血袋が懐からなにかを取り出すと、我らに投げつけてきた。
不遜。
あまりにも不遜。
だが、許そう。血袋相手だろうが、慈悲を与えるものだ。
「プロキオン! 避けろ!」
誰かの声が聞こえた。
プロキオン。それが誰の名なのかはわからない。
わからないが、その声はとても心地いい。
声の主を探すと、すぐにわかった。
白い血袋のそばにいた。
白い血袋ととてもよく似ている。
似ているが、白い血袋とは違う。
同じ見目なのに、血袋とは思えなかった。
そう、血袋ではない。
血袋なんかではない。
だって、だって、声の主はとても。とても──。
「『あぁ、とても美味そうだ』」
──食欲をそそらせてくれる。
その肉を噛み切りたい。
端の方からゆっくりと齧り付き、少しずつ咀嚼したい。
あぁ、楽しみだ。
とても、とても楽しみだ。
いったい、どんな顔をしてくれるのか。
どんな声で啼いてくれるのか。
あぁ、あぁ、あぁ!
考えただけで身もだえしそうだ。
「『うん?』」
身もだえしそうになっていると、我らの体に血袋が投げたなにかが付着した。
深淵のような真っ黒な肉塊が、蠢きながら我らに取り着いている。
「あはははは! ロード・クロノス・オリジンがフェンリル化したとはいえ、新型の「混沌の胚」の前では──」
「『邪魔だな』」
「──は?」
付着する肉の塊を剥がす。剥がしてもなお、肉の塊は蠢いていた。
「『あーん』」
蠢く肉塊を試しに囓ってみた。
血のようなものが噴き出すが、構わずそのまま咀嚼する。
ぐじゅぐじゅという、若干気持ち悪い音はするが、味は悪くなかった。
「『ふむ。オードブルとしては悪くない』」
肉塊を呑み込み、口の周りを拭うと、白い血袋は信じられないものを見るような目を向けてきた。
「嘘、でしょう? 「混沌の胚」を食った?」
白い血袋がなにかを言っている。
だが、どうでもいいことだ。
いまは血袋のことなどどうでもいい。
我らがいますべきことは、ひとつ。
それはこの場にいるごちそうをすべて平らげること。
見れば、この場には堪らないごちそうがいくつもいる。
特に、白い血袋のそばにいるのと、グレーウルフを抱くのは、とびっきりのごちそうだった。
「『あぁ、前菜を食べて、より腹が減った。さっそくいただくとしようか』」
ごちそうを前にして、我は口角を上げて嗤った。
嗤いながら、ごちそうたちへと向かっていった。




