rev5-57 だいじょーぶ
頭がおかしくなりそうだった。
「混沌の胚」の新型。その話はファラン少佐との戦いの後で、イリアから聞いていた。
あくまでも、ファラン少佐の変貌はイリアが知る「混沌の胚」とは明らかに能力に差があるから、新型ないし改良型だろうという程度だったけれど。
でも、そのときには「混沌の胚」の生成方法については言われなかった。
イリア自身も知らなかった可能性もあるけれど、イリアが言う必要がないと思っていたのかもしれない。
どちらにしろ、あのときにはイリアの口から「混沌の胚」がどのような過程を経て、産み出されるのかは語られなかった。
それでよしとしてしまったのが原因なのか。いや、仮に語られていたとしてもどうしようもない。
いや、語られていたら、きっと遮二無二「ルシフェニア」に向かっていたかもしれない。
それでどうにかなったというわけじゃない。それでも聞いていたら、きっと俺は無謀を犯していたと思う。
それだけ、恋香の言葉は想定外であり、そしてとても大きな衝撃を孕んだものだった。
恋香は言った。
新型の「混沌の胚」の苗床として、希望が利用されていると。
なんの冗談かと思った。
でも、冗談にしてはあまりにも悪すぎる内容だった。
苗床という言葉は、植物の苗を育てるためのものが一般的な意味ではあるけれど、「混沌の胚」は植物とは言えない、だいぶグロテスクなものだ。
そのグロテスクな「混沌の胚」の苗床。どう考えても一般的なものとは思えない。
その苗床として希望が利用されている。恋香曰く「混沌の母」となったということ。
どう考えても。
どれほど好意的に考えても、「混沌の母」という存在がまともな姿であるとは思えない。
それこそ。それこそ体中が「混沌の胚」に覆われた状態になっていてもおかしくはない。
冬虫夏草のように菌の苗床になった虫よりもひどい外見になっていてもおかしくはなかった。
希望がそんな「混沌の母」になった。
あの、希望が。
基本はしっかり者だけど、意地っ張りで、すぐに癇癪を起こすも、誰にでも優しい希望。その希望が「混沌の胚」を産み出すための装置と化した。
頭の中がおかしくなりそうだった。
信じられないという気持ちと、あの日すべてを失ったときと同じくらいの絶望、そして底知れない怒りが頭の中で次々に交錯していく。
それらの感情によって、俺はどういう反応をっするべきなのかがわからなくなってしまった。
なにが正しくて、なにが間違えているのかがわからない。
わからないまま、俺は呆然となって、恋香と恋香の襟首を掴むタマちゃんを眺めていた。
そんな俺の耳に大きな破砕音が飛び込んできた。
見れば、タマちゃんが元々いた場所、アンジュやプロキオンたちの後方でトワさんたちが慌てていた。
トワさんとシュトロームさん、それにクーが協力して結界を張っていたみたいだ。対象は氷結王様。反転してしまった氷結王様を相手に三人は結界を張っていたようだ。
その結界は氷結王様の手で破壊されたようだ。
砕け散った結界の破片が宙を舞っている。
宙を舞う結界の破片が、慌てる三人と正気を失った氷結王様を映し出していた。
「さすがに厳しいですか!」
トワさんが珍しく焦った表情を浮かべている。クーもシュトロームさんも焦りに焦った表情を浮かべながら、中心にいる氷結王様を見やる。
氷結王様は唸り声を上げながら、三人を、いや、俺たち全員を睥睨している。
まるで獲物を選んでいるかのように、赤黒い口を開け舌なめずりをしながら、俺たちに視線を向けている。
その視線を浴びて、さしものアンジュも緊張しているようだった。
緊張しながらも、どうにかプロキオンを守ろうとして、「ベティ!?」と叫んだ。
どうしてベティを呼んだのかと思ったとき、ベティは想定外の場所にいた。それは──。
「おうさまのあるじさま、どうか、おちついてほしいのです」
──氷結王様の正面にただひとりで立っていたんだ。
ちょうどトワさんとシュトロームさんの間にだ。
「ベティちゃん!? なにをしているんですか!?」
トワさんが慌てている。シュトロームさんも「ベティ、逃げろ!」と叫んでいた。
でも、ベティはその場から逃げることはなかった。それどころか、進んで氷結王様の元へと向かっていく。
氷結王様の視線はおのずとベティへと向けられていく。
「ダメ、ベティちゃん! 戻って!」
ルクレが叫ぶ。叫びながらベティの元へと向かおうとするけれど、イリアとティアリさんが制止していた。
「落ち着いてください! あなたまで巻きこまれますよ!?」
「そうです! いまは落ち着いて」
「落ち着けるわけがないでしょう!? ベティちゃんが、私の娘が危ないのに!」
ルクレは半ば錯乱状態になりながら、ふたりの制止を振り切ろうとしてもがいていた。
だけど、その間にもベティは氷結王様に近づき、氷結王様はベティを獲物として選ばれたのか、舌なめずりを行っていく。
まだ身動きが取れないのか、氷結王様から動く様子はない。そもそも動く必要がないと思われているのかもしれない。
獲物みずからが近付いてくるのだから、氷結王様はただそれを見つめているだけでいい。これほど楽な狩りもそうあるわけじゃない。
「ベティ、ダメ。戻って、ベティ!」
「ベティちゃん、あかんよ!」
「ベティ! 戻りなさい!」
プロキオンとフブキちゃん、メアさんも必死になって叫んでいる。焦りに焦った表情を浮かべながら、必死にベティへ戻るように叫んでいた。
でも、ベティはその足を止めない。
「サラ、ティアリカ! 動けるか!?」
「……動けるものなら、とっくに動いていますよ!」
「見ているしかできないなんて、さすがは氷王様です!」
ルリとティアリカ、それにサラが静観していると思っていたけれど、どうやら氷結王様は三人の身動きを封じているようだ。
この場において俺とアンジュ、タマちゃんを除けば、三人が最も脅威であることは一目でわかっただろう。
だからこそ、邪魔をされないため、もしくは真っ先に仕留めるために三人の身動きを封じているんだろう。
なにか特別な魔法を使っているわけじゃない。ただ睥睨しただけ。一睨みされただけでこの場にいるほとんどの者の体がまともに動けなくなっている。
唯一の例外が、幼すぎて視界に入らなかったベティだけがその呪縛の影響になかった。
そのせいでベティは狂っている氷結王様の元へと向かってしまっていた。
「タマモ、レン! ベティを止めろ!」
クーが叫んでいた。クーたち三人が一番近くにいるのだけど、どうやら氷結王様の身動きを取らない理由は三人にあるようだ。
よく見ると、氷結王様の全身が魔力の鎖のようなもので覆われていた。
たぶん、三人が必死に魔力によって作ったもので、氷結王様を抑え込んでいるんだろう。それでもどうにか身動きを止めるのが精一杯。
とてもじゃないけれど、ベティを止める余裕はないんだろう。
三人がいるのがまさに最前線。三人ともベティを助けようと必死になってくれている。
でも、その三人に報いることは俺にもタマちゃんにもできない。
一番遠くにいるというのに、氷結王様は俺とタマちゃんをより強い呪縛で身動きを封じられていた。
助けたいのに、俺の体は一ミリたりとも動かすことができなくなっている。タマちゃんも恋香の襟首を掴んだまま、悔しそうに氷結王様に近付くベティを見つめているだけだった。
「あははははは! 生け贄の子羊ならぬ生け贄の仔狼ですか。なかなかに残酷で大変面白そうなショーになりますねぇ」
恋香が高笑いしながら、ふざけたことを抜かしてくれた。
「恋香ぇ!」
「ふふふふふ、怒ったらダメですよ、お姉ちゃん? これからとても楽しいショーの始まりなんですから」
「なにがショーだ! ふざけるな!」
恋香の言葉に俺だけじゃなく、タマちゃんも激高するも、恋香の余裕は崩れない。崩れないまま、「私ばかり見ていていいのですか?」と不敵な笑みを浮かべている。
その言葉に俺とタマちゃんが視線を戻すと、すでにベティは氷結王様の目の前に、幼いあの子でも手を伸ばせば届くほどの距離に立っていた。
氷結王様にとってみれば、身動ぎひとつするだけで簡単に丸呑みにできる距離。その光景に俺は「ベティ!」と叫んだ。
俺の声を聞いて、ベティは振り返ってくれた。とても穏やかな笑みを浮かべて振り返ってくれた。
「だいじょーぶなの、おとーさん。ベティはだいじょーぶだよ」
いつものベティらしい舌足らずな声。とても愛おしく、かわらしい。なのに、いまはただ悲しかった。なにもできないことが悲しくて堪らない。
「お爺さま! 元に戻ってください! お爺さま!」
タマちゃんが必死に氷結王様に声を掛ける。だけど、氷結王様にタマちゃんの声は届いていないのか、小さく唸り声を上げるだけだった。
「無駄ですよ。あの竜に埋め込んだ「混沌の胚」は新型ですからね。声を掛ける程度で正気に戻ることはありえません。そう、あの新型は神さえも狂わせるのですからね」
くすくすとおかしなことを告げる恋香。でも、いまは相手をしている余裕なんてない。
どうにかベティを説得して逃げさせたい。でも、どう言えばいいのか。
みんなが逃げろと止まれと言っているのに、ベティは止まらないし、逃げてくれない。
どうしてこんなときに聞き分けが悪くなってしまうのか。
どうしてこんなときに俺たちを困らせてしまうのか。
涙が零れた。
拭うこともできない涙が零れていく。
そんな俺たちを見てベティは微笑んだ。「だいじょーぶだよ、おとーさん」と言って微笑んでくれたんだ。




