Act1-95 霊草エリキサ その三十一
お社から出ると、シリウスがゴンさんと、少し離れた場所で、木の枝を使って地面に絵を描いていた。シリウスは、とても楽しそうだが、ゴンさんはなんとも言えないような、困った顔をしていた。近づくとシリウスが、描いている絵が見えた。
頭にぴんと立った犬の耳と腰の辺りから尻尾の生えた女の子と、見覚えのあるつなぎを着た、いかつい顔をした少女に、これも見覚えのある制服を身につけた少女が描かれていた。三人は仲がよさそうに手を繋いでいる。二人の少女の間を犬耳と尻尾のある女の子が入り込む形で描かれていた。
「あ、ぱぱ上だ!」
シリウスが顔を上げて近づいてくる。あと少しというところで、ジャンプして抱きつかれた。子供特有の体温がとても心地いい。
「お帰りだ、ぱぱ上!」
シリウスは、嬉しそうに笑うと、俺の手を握ると、描いていた絵のところに連れて行ってくれる。
「こっちがぱぱ上で、あっちがまま上で、真ん中がシリウスだ!」
予想通り、シリウスの描いていた絵は、俺とシリウス、そしてアルトリアのものだったようだ。三人とも笑っていた。笑いながら手を繋いでいた。
「上手だね、シリウス」
絵を眺めながら、シリウスの頭を撫でる。シリウスは、わぅと鳴き、口角を上げた。贔屓目なしでも、かわいい。たしかにアルトリアがかわいいと言うのもわかるよ。
「まま上にも、見せたい!」
「アルトリアに?」
「わぅ! まま上もきっと喜んでくれると思うんだ!」
目を輝かせながら、シリウスは笑っている。アルトリアにも誉めてほしいのだろうね。わかりやすい子だ。
「アルトリアにも、頭を撫でてほしいんだろう?」
「わ、わぅ、違うもん!」
あからさまに目を泳がせてくれるシリウスに、つい笑ってしまう。シリウスは、頬を膨らまして、ぽかぽかと殴ってくれる。地味に痛い。
「ごめん、ごめん。怒るなって」
シリウスを抱き締めた。強く、とても強く抱き締める。感情が漏れでないように、泣かないためにも、いまはシリウスのぬくもりを感じていたかった。
「ぱぱ上、苦しいから……ぱぱ上?」
シリウスが肩を叩くけれど、なにも答えずにただ抱きしめた。シリウスはよくわかっていない顔をしていた。
「……わぅわぅ、仕方がない。シリウスは大人だから、ぱぱ上にされるがままになるんだ」
けれど、なにかしら察したのだろう。その小さな腕を伸ばして、俺の背中をぽんぽんと叩いてくれた。それだけのことで、歯止めが利かなくなった。抑えこんでいた涙がこぼれ落ちていく。シリウスはなにも言わない。その小さな腕で俺を抱き締めてくれている。
『吸血鬼は、魅了の魔眼を使うことで、対象みずから進んで血を摂取させようと仕向ける』
じじいの言葉が蘇る。お社の中で、寝かされていたベッドの上で、俺はじじいの話を黙って聞いていた。いや黙って聞いていることしかできなかった。
『普通、血を吸わせてくださいと言われて、みずから吸わせようとするものなどおらん。血を吸われそうになったら、誰だろうと抵抗する。抵抗されないために、吸血鬼は魅了の魔眼を使う。魔眼を使い、相手の心に自らを住まわせ、相手から進んで血を吸わせるように仕向ける。それが吸血鬼の食事の方法じゃよ。もっとも同じ対象に魅了の魔眼を何度も使うことなんてそうそうないがのぅ』
じじいが言うには、吸血鬼が同じ対象に魅了の魔眼を使うことは、ほとんどないそうだ。一回だけで心を奪えるというわけではなく、その一度の吸血で相手の血をすべて飲み干してしまうから。相手を殺してしまうから、同じ対象には一度しか魅了の魔眼を使うことができないようだ。
吸血鬼は血を吸わない限りは、理性的な人が多い種族だが、一度血を吸えば、理性が吹き飛んでしまい、相手の体から血をすべて奪い取ってしまうそうだ。アルトリアが致死量ギリギリまで俺の血を吸っていたのも、たぶん本能と理性とのせめぎ合いにどうにか打ち勝てているからなのだろう。でなければ、俺はとっくに干からびてしまっているはずだ。もしくは──。
『なにかしらの目的があるからこそ、致死量ギリギリでとどめているという可能性がある。むしろ目的があるからこそ、魅了の魔眼を何度も使っていたんじゃろうな。憶えはないか? アルトリアの目を見ていたら、胸が高鳴ったということは?』
身に憶えがないとは言えなかった。実際、俺はアルトリアに見つめられて、胸を高鳴らせたことは多くある。特に「濡れた紅い瞳」を見たときなんかは、どうしようもないほどの衝動に駆られていた。じじいはそれが魅了の魔眼だと言った。
『魅了の魔眼は、吸血鬼によって、ものが違う。瞳の色が変わるものもいれば、目に怪しい光が宿るものもいれば、そなたが言うように瞳が濡れたようになるものもおる。アルトリアはそのパターンなのじゃろうな。そしてそれを何度もそなたに使った。アルトリアなりの目的があったからこそ、そうしたのじゃろう。その理由までは、わしにもわからぬが、魅了の魔眼を何度も使い、致死量ギリギリまで血を吸う程度で留めるなど、どう考えても、なにかしらの目的があってこそじゃろうな。目的がただそなたの心を自身に向けさせるためだけなのか、それともなにかしらのことをするためにそなたが必要だったのかは、わからぬがな』
じじいは最後の方は気遣うように言っていた。俺を利用するとか、俺を駒としか見ていないとは言わなかった。さすがにそれを言うのは酷だと思ったんだろうな。気遣ってくれたんだろう。でもその気遣いがかえって俺を傷付けた。
はっきりと言ってくれた方がまだよかった。はっきりとアルトリアにとって、俺はただの駒だったと言ってくれた方が、まだよかった。希望を持たせないでくれた方が、はるかにありがたかった。
わかっている。俺の言っていることが、ただのわがままであることは、わかっているんだ。じじいが気遣ってくれることは不思議ではあるけれど、その気遣いに感謝はしている。けれど感謝したところで、事実は変わらない。
アルトリアにとって、俺は駒や道具でしかないのだろう。あんなにも好きだと言ってくれた言葉は、すべて嘘だった。偽りの愛情を向けられて、その愛情に踊らされていたということなのだろう。
笑えるよ。なにが恋をしただ。なにが守り抜くだ。幸せにしたいだよ。美人局の被害者よりも、はるかにマヌケじゃないか。
あんなにも溢れていたアルトリアへの想いは、きれいさっぱりに消えてしまっている。それがなによりもの証拠だ。
だが、どんなに証拠があっても、記憶までは消えてくれない。
ああ、どうしてエリキサは記憶も消してくれないのだろうか。想いを消すのであれば、精神的な異常を癒してくれるのであれば、そのついでにその際の記憶さえも消してくれればいいのに。そうしてくれれば、こんなにも苦しくなかった。悲しくもなかった。辛くもなかったというのに!
わかっているよ! ただのわがままだってことはさ! わかっているんだよ! それでも、それでもさ! 願ってしまうんだよ! 思ってしまうんだよ! 心に巣食っていた幻の想いと一緒に、アルトリアを愛したという記憶ごと消えてなくなってくれればいいのにってさ!
だけど、無理だ。想いが消えても、思い出は消えない。消えてくれない。俺の中には、アルトリアを愛していた記憶が残っている。決して手放したくない記憶が、残ってしまっている。記憶は消えない。まだ消えることはない。仮に消えたとしても、アルトリアがそばにいるかぎり、思い出してしまうだろう。
そのたびに俺は苦しむだろう。ならいっそのこと、アルトリアを手放せばいい。けれどそれもできない。してしまえば、アルーサさんたちはきっと俺のそばから去っていくだろう。愛する人を平然と手放すような冷酷な人間と言われるだけだ。そうなれば、もう終わりだ。俺にできるのは、エリキサを持って帰ること。アルトリアを手放さないために、エリキサを持って帰ることだけだった。
「シリウス。帰ろう。一緒に、まま上のもとに」
「……わぅ」
シリウスが鳴く。鳴きながら、俺の頬を舐めてくれる。頬を伝う涙を、何度も何度も舐めとってくれる。くすぐったい。けれど心地よかった。傷ついた心を、シリウスが癒してくれている。癒された心で、俺は彼女の元へと戻る。それがいまの俺にできる唯一のことだった。
「誰かを愛することって、こんなにも辛いことだったんだな」
ドラマや小説では、とてもきれいに描かれていることだ。けれど現実では、こんなにも苦しくなる。こんなにも辛く悲しい。知らなかった。でも、もう知らなかったでは、済ませられない。一度知ってしまった想いを、いや想いを抱いていた記憶があるかぎり、俺は苦しみ続けるのだろう。
「アルトリア」
愛おしかった彼女の名前。その名を口にしながら、俺は初恋が散っていくのを、頬を伝う熱い涙とともに感じていた。
初恋は叶わないもの。
でもそれもまた大人になるための一歩です。




