rev5-38 お姉ちゃん
なんだろう。後ろが非常に騒がしい。
振り返られればいいのだけど、困ったことに私はいま振り返ることができないでいる。
「……ん」
その理由は隣にいるフブキだ。フブキはいま眠ってしまっているんだよね。それも私に寄りかかる形で。
ベティとフブキを交えて、今日採取した花々の鑑賞会をしていたのだけど、フブキは体力の限界だったのか、それとも疲れが溜まっていたのかはわからないけれど、途中から船を漕ぎ始めてしまったんだよね。
フブキが船を漕ぎ始めたので、私はそっとフブキを抱き寄せてあげたんだ。
いまいるリコリスの群生地となっている最後の酸素溜まりは、いままでの酸素溜まりと同じで、土や砂地もあるけれど、基本的には岩がむき出しになっている。
私たちが座っているのは、その一角。意識的に横になるのであれば問題はないけれど、寝ぼけて倒れてしまったら惨事になる可能性だって十分にある。
だからこそ、私はフブキを慌てて抱き寄せたんだ。初めてできた友達が傷つかないようにするために。
でも、いま思えば、悪手だったのかもしれない。
だって、フブキったら私が抱き寄せたら、「安心やわぁ」とか言ってそのまま寝入っちゃったんだもん。
おかげで私は身動きがまともに取れなくなってしまった。
しかも寝入ったのはフブキだけではなく、ベティまでもだ。私とフブキの間に挟まるようにして座っていたベティも、すっかりと夢の世界に旅立ってしまっている。
「ばぅ~。おいしいもの、いっぱいなの~」
ベティはすやすやと眠りながら、なんともおかしな寝言を口にしてくれている。
フブキだけでも大変だっていうのに、うちの愚妹までもが寝入ってしまったんだ。私はふたりをどちらも支えなきゃいけないという状況に陥ってしまった。
後ろの方にはパパとママ、それにタマモさんもいるから、応援を呼ぼうと思えば呼べるのだけど、下手に声を掛けてふたりを起こすのも忍びない。
ふたりのうち、どちらかが起きてくれるか、パパたちが私の窮地を察してくれるかの、奇跡待ちの状況になっていた。
普通に考えれば、ベティとフブキが起きるのはもはや奇跡としか言いようがない。
パパたちに期待したいところだけど、なにやら「正式」だの「日程」だのとよくわからないことを言っている。
よくわからないことを口にしているのは、主にママとタマモさんで、パパはうわごとのようにぶつぶつとなにかを呟いている。
ママとタマモさんは楽しげに話しているのだけど、パパはなんだかすごく悲しそうだ。
どうしたの、って話を聞いてあげたいのだけど、フブキもベティも寝入ってしまっている現在、どうあっても身動きひとつ取れない。
かといって、パパを放っておくなんて選択肢は私の中には存在しない。
けれど、大切な友達であるフブキと、そこまでかわいいわけではないけれど、妹であるベティを物理的に傷付けるわけにもいかない。
究極の二択を私は突き付けられていた。
「どうしようかなぁ」
ふたりを起こさないように小声で呟きながら、今後の行動を考えるけれど、どうあってもふたりを起こす未来しか想像できない。
とはいえ、パパを放っておくなんて論外だし、でもそのためにはふたりを起こすしかないし、ママとタマモさんはお話に夢中で私の状況に気付いてくれてもいない。
「……むぅ」
八方塞がりってこんな感じなんだろうか。困ったなぁと思いながら、ここまでの酸素溜まりで採取してきた花々をぼんやりと眺めていた、そのとき。
「大変そうですね、刻の君」
くすりと笑う声が不意に聞こえてきた。
顔をあげると、いつのまにか、メアさんが腰を屈めて私のそばにいた。長い髪を片手で押さえつけながら穏やかにメアさんは笑っていた。
後ろから「あ」という間の抜けたママとタマモさんの声が聞こえるけれど、メアさんは特に気にした風でもなく、私に笑いかけてくれている。
「メアさん、ティアリさんはいいの?」
「ええ。船酔いもすっかり収まって、いまは眠っていますので。そもそも、ティアリ自身が、「私のことなどよりも、刻の君を」と言いましたのでね」
メアさんはそう言って、私の隣に腰掛けつつ、ベティをそっと抱っこしてお膝の上に座らせていた。
いままでは私がどうにか手で押さえていたベティだけど、不安定な態勢ではいた。
でも、メアさんがお膝の上に座らせてくれたので、もう不安定さはない。それどころか、ベティったら安心したようにすやすやと眠っている。
「おおきくて、やわからなの~」
どんな夢を見ているんだろうと思うほどに、ベティの寝言はおかしなものだった。
いや、寝言というか、たぶん「枕」にしているものの感想か。
……ちょっと腹が立つ。いままで誰のおかげで快眠できていたと思っているんだか。
「ふふふ、刻の君。そう睨まれなくてもよろしいではないですか」
「……でも」
「妹君のような幼子は、体力の限界まで遊ばれた後は、糸が切れたように眠ってしまうものです。それを咎めることはしてはならぬものですよ」
「……だけど」
「刻の君が大変な目に遭われていたことは理解致しますが、ご友人とかわいい妹君のために頑張られていたのでしょう? なら最後までそれを貫き通さなければなりません」
「……かわいいなんて思ってないもん」
唇を尖らせながら、私はメアさんから視線を外す。メアさんは「あらあら」と口元を押さえながら笑っていたけど、「失礼しますね」と言って私の頭にぽんと手を置いてくれた。
その瞬間──。
『白と黒の斑か……大変だろうが、しっかりと育てるのだぞ。この愛らしい子を』
──メアさんが「私」を撫でている光景が浮かびあがった。
「……がぅ?」
メアさんにこうして頭を撫でられたことは何度かあった。抱っこして貰えたこともあったし、頭を撫でて貰ったのはこれが初めてじゃない。
でも、私がこの人と会ったのはつい最近のことで、已然にこの人に会ったことなんてないはずにのに、私はこの人のことを以前から知っていた。意味がわからないことだけど。
「どうか、なさいましたか?」
メアさんは私の頭を撫でながら、首を傾げている。
「……ねぇ、メアさん」
「はい、なんでしょうか?」
「……メアさんは、私とどこかで会ったことある?」
「……はて、とんと憶えがございませんね」
「本当?」
「ええ。我が主に誓いまして」
メアさんは私をまっすぐに見つめながら、嘘を吐いていた。
メアさんは普段通りに振る舞っているけれど、その目にはわずかな動揺の色が見えた。
なんで嘘を吐くのかはわからない。
でも、その嘘は決して嫌な嘘じゃない。
私を騙して、なにかしらを得ようとしているわけじゃない。
ただ、メアさんの目には怒りがあった。悲しみがあった。そして後悔があった。
それらすべてはメアさん自身に向けられている。メアさんは自分自身に怒っている。その怒りの源泉にあるのが悲しみと後悔。なにに対しての悲しみと後悔なのか。考えてすぐに答えは出た。
「……ねぇ、メアさん」
「はい?」
「弟さんってどんな人だったの?」
「……以前にもお話したと思いますが」
「うん。でも、聞きたい。ダメならいいけど」
「……いえ、ダメというわけではありません」
メアさんはわずかに逡巡している。やっぱり、メアさんの目に宿った感情の大元は、弟さんに対するものだった。
弟さん自身にではなく、弟さんになにもしてあげられなかったことを悔やみ、悲しんでいるんだ。
「……お姉ちゃんって、大変だよね」
「そうですね。姉というだけで、年下の家族の面倒を見ることが当然とされます。どれだけ頑張ってもそれが当たり前とされてしまう。私も幼い頃は弟の面倒を任されて辟易としたものです」
「がぅ、その気持ちわかるの」
メアさんの気持ちはすごく理解できる。ベティはそこまで手が掛からないけれど、すぐわがままを言う。そのわがままはわりとささやかなものだけど、聞いてあげる身としては勘弁してほしいと思うこともある。
だけど──。
「だけど、笑顔がかわいいよね」
「……ええ。「ありがとう」と拙い口調でお礼を言われてしまうと、ついつい許してしまうのですよね。そこに笑顔までついてくると、もはや頑張るしかなくなってしまいます」
メアさんの言葉に私は無言で頷いた。ベティのわがままを聞いてあげると、ベティはいつも「ありがとーなの」と言って笑ってくれる。
その笑顔を見るのはわりと好き。だから、その笑顔を見るためについついと頑張ってしまう。……まぁ、腹が立ってつい虐めてしまうこともあるけれど。
「……ベティはね。わがままを聞いてあげると、いつも「ありがとーなの」って笑ってくれるの」
「……弟もかつてはそうでした。幼い頃は甘えん坊で、私の後を着いてきたがるものでした」
「……ベティもだ」
「あぁ、そういえばそうですね。妹君は刻の君が大好きなのでしょう。……弟もかつてはそう言ってくれました。あれは、とても、嬉しかったなぁ」
メアさんはまぶたを閉じながら、かつてのことを思い出しているようだった。嬉しそうに笑いながら頬を濡らしている。
「あのね、メアさん」
「なんでしょうか?」
目元を拭いながら、メアさんが笑っている。その笑顔を見ていたら、私はいつのまにか変なことを言ってしまった。
「……お姉ちゃんって呼んでいい? いまだけでいいから」
「……御身がお望みとあれば」
「それ、やだ」
「え?」
「いまだけ、私はメアお姉ちゃんの妹なの。なのに、妹に対して「御身」とか意味わかんない。……もっと気さくにしてくれないと、やだ」
我ながらとんでもなく恥ずかしいことを言っていた。もはや気が動転していると言っても過言ではないくらいに。
「なに言っているの、私」と自分で思いながら、メアさんを見やると、メアさんはなにやらとても躊躇っていた。躊躇っていたけど、メアさんは意を決したように告げた。
「ぷ、プロキオン」
「なぁに?」
「……えっと、その、あの」
意を決したみたいなのだけど、私を呼び捨てにしただけで失速してしまった。しかもおろおろと慌てながらだから、ついついと笑ってしまった。
「と、刻の君。やはり無理です」
「仕方がないなぁ。じゃあ、私がお姉ちゃんと呼ぶだけにしてあげるね」
「……それもできれば勘弁願いたいのですが」
「えー、なんで?」
「なんでって、そんなの」
「そんなの?」
「……そんなの──」
「あの子になにもできなかった私が、いまさらあなたにそんな呼び名をされていいわけがないでしょう」ととても小さな声で、私でも聞き取れない声でメアさんは言っていた。
「なんて?」
「なんでもないのです。……なんでも」
メアさんは首を振っていた。首を振りながら、メアさんは泣いていた。
どうして泣いているのかはわからない。わからないけれど、放っておけないって思った。
「決めた」
「え?」
「いまだけじゃない。今後も私はメアさんを「メアお姉ちゃん」と呼ぶことにするの」
「……は?」
あ然とするメアさん改めメアお姉ちゃん。お姉ちゃんにとっては想定外だったようだけど、そんなのは知りません。
「というわけで、今後もよろしくね、メアお姉ちゃん」
「お、お待ちください、刻の君! 私などが」
「私は、メアお姉ちゃんを「お姉ちゃん」と呼びたいの。だからメアお姉ちゃんがなんと言っても聞きません。そもそも、ベティだってお姉ちゃんって呼んでいるのに、私だけダメなのはおかしいと思うの」
「それはそうですが、しかし」
「しかしもかかしもないの! これは決定事項なの。だから──」
私はメアお姉ちゃんに手を差し出し、笑いかけた。
「──これからもよろしくね、メアお姉ちゃん」
メアお姉ちゃんは大きく目を見開き、息を吸うと、私が差し出した手を恐る恐ると掴んでくれた。
「……畏まりました、刻の君」
「もう、プロキオンでいいのに」
「……そちらは勘弁してください」
「もう、仕方がないなぁ」
メアお姉ちゃんの弱音を私は笑いながら受け入れた。
メアお姉ちゃんは「申し訳ありません」と謝っていた。
謝るくらいなら素直に言ってくれればいいのにと思うも、メアお姉ちゃんらしいなぁとも思った。
「……お姉ちゃん、か。そんな関係じゃないってのにね。私とあなたは」
ぽつりとメアお姉ちゃんがまたなにかを言った。「どうしたの?」と聞くけど、お姉ちゃんは「なんでもありません」と言った。
聞きようによっては、拒絶のようだけど、実際は違う。お姉ちゃんはとても嬉しそうだ。でも、反面悲しそうでもある。
その悲しさの理由をいつか聞かせて欲しいなぁと思いながら、私はフブキを抱き寄せながら、メアお姉ちゃんの肩に頭を乗せた。
お姉ちゃんは驚いていたけれど、すぐに笑ってくれた。笑ってまた頭を撫でてくれた。
その撫で方はとても優しく、そして懐かしいと思えるものだった。




