rev5-21 降りしきる雨の中で
澄んだ湖だった。
地上から湖底近くまで見通せるほど。澄み切った湖だった。
さすがに湖底までは見えないが、その近くになると薄ら程度しか見えないけれど、それでも地上からだいぶ離れているはずなのに見えるほどだ。
「ここ、か」
『ふぅん。きれいな湖ね』
「そうだね。すごく澄んでいるし」
『ここまで澄んだ湖って、この世界でも珍しいわね。湖底近くの魚群も見えるもの……』
「……うん、見える、ね」
湖底近くの魚群まで見えるほどの澄んだ湖。うん、そこまではいい。そこまではいいんだけどね。
「ねぇ、香恋」
『言いたいことはわかるから言わなくてもいいわ』
「ううん、言わせて欲しいな。じゃないと、うん、ちょっと衝撃的すぎると言うか」
『あぁ、やっぱり?』
「うん。あれはねぇ」
『そうよねぇ』
しみじみと俺と香恋は、湖底近くの魚群を見て同じことを思っていた。
魚群自体に問題はない。
規模自体はそれなりに大きい。湖は結構な大きさだし、この規模の群れがいてもおかしくはない。
問題なのは、その魚群の後方だ。魚群の後方にいる存在というべきかな。
「……なんかさ、鮫っぽいのいるんだけど」
『……どちらかというと、シャチじゃない、あれ?』
「あぁ、たしかに白と黒の魚体っぽいし。どちらかというとシャチ、かなぁ? あははは」
『そうねぇ、シャチよ、シャチ。あははは』
「だよねぇ、あははは」
『あははは』
「……」
『……』
「『なんで湖にシャチがいるんだよ!?』」
俺と香恋は揃って叫んでいた。
そう、湖の中には魚群を追いかけるシャチがいた。
いや、わかる。わかるんだよ。
シャチは肉食のハンター。その食性には、当然、魚も含まれる。
だから、シャチが魚群を追いかけるというのは、理解できることだ。
うん、そこまではいい。そこまではいいんだ。問題なのは、なんで湖にシャチがいるんだよってこと。
『本当にわけわかんないわね、この世界は!? なんで淡水湖にシャチがいんのよ!? だからって鮫がいてほしいってわけじゃないけど!』
「落ち着け、香恋。言いたいことはわかるけどさ!」
『なに言ってんのよ、カレン! あんたがわざわざ口にするから、私も直視するしかなかったのよ!? あえて無視していたのに!』
「……だって、あれおかしいもんよ。意味わかんねえもんよ」
『だからって、無視していた私を巻きこむんじゃないわよ! それに』
「……うん、それに」
シャチだけでも十分おかしいというのに、そのシャチの後方にそれ以上におかしいものがいた。
もっと言えば、シャチを追いかける誰かがいた。
そう、水中における最強の哺乳類であるシャチを追いかける誰かがいた。
その誰かの姿は、さすがに地上からは見えない。
だが、小柄な体であることはここからでもわかる。
「……あれかなぁ?」
『状況的に見れば、あれ以外にないでしょうよ』
「だよねえ」
俺たちのため息が湖畔にこだまする。
こだまするも、その声は誰の耳にも届いていない。
いま俺たちがいる湖には、クーとトワさんに教えてもらった湖のは周囲には誰もいなかった。
湖自体は狼部隊の訓練場からそこまで離れているわけじゃなかった。
狼部隊の訓練場から数キロってところか。その間にいくつかの部隊の訓練場の近くを通ることになった。
だいたいの部隊は狼部隊同様に休憩をしているようだった。どの部隊も近くを通り掛かる俺を見て、興味深そうな顔をしていた。
けれど、俺に声を掛けるような人は誰もいなかった。
たぶん、クーかトワさんが事前に俺たちのことを通達していたんだろうな。大事な客人だからとかね。
そんなわけで俺と香恋は、魔物たちの視線を一身に浴びつつ、この湖まで歩いてきた。
視線が集まっていたという意味では、ちょっと歩きづらかったけれど、距離的には軽めのウォーキングくらい。
俺にとってみれば、準備運動にもならない程度の距離だった。
その距離を歩いて辿り着いたのが、この湖。
結界を通り過ぎる前に見ていた湖そのものだったけれど、やはり上空から見てもそれなりに大きかった湖だけあって、実際に目の前にくると、その広大さには度肝を抜かれてしまう。
そう、度肝を抜かれてしまうはずなのだけど、湖底の光景によって、衝撃はだいぶ薄れてしまった。
湖にシャチがいるというだけでもわけわからんのに、そのシャチを後から追いかける小柄な人影のお陰で、より意味がわからんことになった。
意味はわからんけれど、あれが誰なのかはなんとなくわかる。
というか、俺と香恋がここに来た理由を思えば、あれが誰なのかは自ずとわかってしまう。
「あれがタマちゃんかぁ」
『なにしてんのよ、あの子は』
俺と香恋は再びため息を吐いた。
湖の中に潜っていることはまぁいい。問題なのは、なんで湖に潜ってシャチを追いかけているのかってことだ。
状況的に考えたら、あのシャチを狩ろうとしているんだろうけど。
「シャチって食べれるのか?」
『いや、そこじゃないわよ? そこを突っ込むよりも先に突っ込むべきところがあるわよ?』
香恋が呆れている。
呆れさせるつもりはなかった。だけど、呆れさせることしか言えなかったよ。
それだけ目の前の光景は、常識から外れたものだった。
「なぁ、どうすればいいかなぁ?」
『待つしかないでしょうよ』
「だよねぇ」
生憎、この世界に来てから水の中に潜ったことはなかった。
たぶん、いまの俺なら水中であろうとも、問題なく行動できるとは思うけれど、あのシャチを相手に追いかけっこができるとは思えない。
いまはただ待つしかない。
「そもそも、なんでシャチを追いかけているんだろうね」
『さぁ?』
本当に食べるつもりで追いかけているのかな。湖の中にいるシャチを。……いかん、ますます意味がわからなくなっていくぞ。
「あ、シャチを仕留めた」
『尻尾を使って捕まえて、一気に首を刎ねたわね。首を刎ねることで血抜きと神経締めを一度に行ったというところかしら?』
「そういうところかねぇ?」
追いかけっこを続けていたタマちゃんだったけれど、隙を見出したのか、それとも追いかけっこに飽きたのかはわからないけれど、一気に加速すると、シャチをその背にある尻尾で捕獲し、そのまま首を刎ね飛ばしたんだ。
しかも刎ね飛ばした首を別の尻尾でしっかりキャッチして、シャチの巨体を引きずりながら浮上してくる。
香恋の言う通り、首を刎ね飛ばしたのは血抜きと神経締めを同時に行うためなんろう。
でも、そのせいで澄んでいた湖が紅く染まってしまう。
加えて、その血のせいなのか、タマちゃんへと向かって大きな魚影が向かっていくが、その魚影はどう見ても──。
「今度は鮫かよ」
『本当、どうなってんのよ、この湖は?』
──鮫だった。
シャチだけでも十分すぎるほど意味がわからなかったけれど、まさかの鮫まで追加されるとか本当に意味がわからないよ。
「あ、今度は追いかけっこせずに仕留めた」
『すれ違い様に首を刎ねたわね。しかも鮫の魚体も掴んでいるし』
「あれも食べるつもりなんだろうなぁ」
『でしょうねぇ』
迫ってきた鮫を、タマちゃんは相手する気がなかったのか、すれ違い様に首を刎ねると、また尻尾で鮫の体を掴んで浮上していく。
だけど、鮫とシャチをほぼ同時に仕留めたせいで、その血が大量に水中にばらまかれてしまった。その血に他の鮫たちまでもが寄ってきた。
いくら広大な湖とはいえ、こんなにも鮫がいるとかどういうことだろうか。
でも、いまはそういうことを言っている場合じゃない。
「さすがにあの量は」
『厳しいでしょうね。行くわよ、カレン!』
「おうよ!」
いくらタマちゃんであっても多勢に無勢。どこまで水中でやり合えるかはわからないけれど、指を咥えて見ているだけなんてできるわけがない。
香恋に言われるまでもなく、俺自身の意思で助太刀することを決めた。いざ湖の中へと飛び込もうとした、そのとき。
「レンさんでも、水中は厳しいですよ」
背後からそんな声が聞こえてきた。
え、と思ったときには、風が、金色の風が通り過ぎていった。
ドボンという大きな音とともに湖面に波紋が広がっていく。
その波紋の先──湖水の中では十数尾ほどの鮫が小柄な人影へと牙を剥いていた。
だが、牙を剥くたびに、その首は刎ねられていく。そのたびに湖が紅く染まるけれど、彼女は大した問題ともせず、湖水の中を進んでいき、ほどなくして小柄な人影と合流する。
小柄な人影と合流した彼女の元へと、鮫がさらに追加してで向かってくる。いや、今度は鮫だけではなく、シャチも追加されていた。
シャチと鮫という水中における二大ハンターが集う中、彼女は慌てることなく、ゆっくりとその構えを取ると、狩人たちの群れへと向かってアッパーカットの要領で腕を振り上げた。
その瞬間、湖から間欠泉が上がった。いや、湖の中から竜巻が巻き起こったというべきか。
その竜巻に巻きこまれて、シャチと鮫たちは一気に上空へと吹き飛ばされていく。
上空に吹き飛ばされた鮫とシャチたちが、その時点で絶命しているようで、動きさえ見せずに、そのまま地面に叩き落ちていく。
次々に鮫とシャチたちの死骸が積み上がる中、竜巻によって吹き飛ばされた湖水がまるで雨のように降り注ぐ。
あっという間に俺はびしょ濡れになった。だけど、それさえも気にならないほどの光景が目の前に広がっていた。
「レイクオルカとレイクシャークですか。この子らは水中で下手に仕留めると面倒だと言いませんでしたか?」
「すんまへん。つい面倒になって」
「次からは気を付けてくださいね、フブキちゃん」
「はい、すんまへんどした。眷属様」
俺達の目の前、湖水からは水色の髪と毛並みをした妖狐の少女と、モデル体型の、出るところは出ている大人の妖狐の女性がいた。
妖狐の少女は見覚えがあった。女性が口にした名前──フブキという名前でわかったよ。
「フブキちゃん、なのか」
『あのフブキちゃんが、これほどまでに』
フブキちゃんは「ヴェルド」において、俺たち「フィオーレ」のメンバーのひとりであり、タマちゃんの嫁であるエリセさんの補佐役だった妖狐族の女の子だ。
当時は見た目で言えば、タマちゃんよりもいくらか年下くらいの女の子だったけれど、いまは当時のタマちゃんと同じくらいの見た目、十歳児前後の見た目になっていた。ちょうどプロキオンと同じくらいかな?
「すんすん……あ、もしかしてレン様どすか?」
俺が呆然と立ち尽くしていると、フブキちゃんは最初首を傾げていたけれど、匂いで俺が誰なのかがわかったようだ。
「あ、うん。レンです。久しぶり、だね、フブキちゃん」
「はい、お久しゅうございます」
フブキちゃんはにこりと笑っていた。そんなフブキちゃんの隣で彼女はじっと俺を見詰めている。
俺が呆然となっているのは、フブキちゃんがいるということではなく、その隣の彼女の姿に目を奪われていたからだ。
「希望そっくり、だね」
そう、フブキちゃんの隣にいたのは、希望だった。希望を思わせる姿の金髪と同じ毛並みの九つの尻尾を持った女性が立っていた。
でも、希望に似ているけれど、フブキちゃんが「眷属様」と言ったことと、そして俺を「レンさん」と呼んだ声でその正体はわかった。
けれど、信じられないという思いが強かった。
だって、少し前までとは、「魔大陸」で再会したときとはまるで違う姿だった。
それでも、そこにいるのが彼女であることは間違いなかった。
「まぁ、従姉妹同士ですからね、私と彼女は」
「……それでも似すぎじゃないかな?」
「影響を受けているかもしれないですね」
彼女は穏やかに笑っていた。笑っているけれど、その目はどこか悲しそうなものだった。
なにがあったのかはわからない。それでも、それでもいまは再会を喜びたかった。
「……久しぶり、だね。タマちゃん」
「ええ、お久しぶりです、レンさん」
俺と彼女、いや、タマちゃんはそう言って笑い合った。いまだ降りそそぐ湖水という名の雨に身を濡らしながら、一年近くぶりの再会を果たしたんだ。




