rev4-Ex-1 最愛の忠犬
いい月が出ていた。
青白い光を纏いながら、夜空を照らしている月。
肴にはもってこいの月。その月を王城の屋上から眺めながら、俺の手元には酒は握られていなかった。
酒の代わりに手元には茶器があった。その茶器には黄金色の花茶が注がれている。その水面に青白い月が映り込んでいた。
「あちち」
茶器に注いだ花茶はひどく熱い。だが、茶というものは元来熱いものを飲んでこそだ。まぁ、冷たい茶もあるから、すべての茶で熱くなければならないと言う気はない。
が、いま飲んでいる茶は熱いからこそのものだ。
その熱さも昔はもう少し耐えられたものだが、いまは少し手こずらされてしまう。
それだけ俺も歳を重ねたということだった。まぁ、もうじき七十にも手が届くほどなのだから、無理もない。
ファロンという後継ぎも得られた。後は「ルシフェニア」の悪魔どもを潰せば、俺の治世は終わる。
五十年の治世。言葉だけで言えば、それだけで済むが、実際の年月としてはとても長い日々だったといまは思う。
いままで行ってきた政策で成功と失敗は半々くらいだが、この歳になるまで国を安定させ続けられたことを踏まえれば、大きな成功がそれだけ多かったということなのだと思う。
おかげで、こんなぐうたらな俺が名君として扱われるほどだ。まぁ、俺自身には名君なんて自覚はないんだがね。
俺の政策は大抵爺さんに手伝ってもらってきた。爺さんあってこそ、俺は名君と呼ばれる存在になれた。
逆に言えば、爺さんがいなければ暗愚の王として歴史に名を残したことだろう。
俺自身の器なんざ、しょせんその程度のものでしかない。
もっとも、それを言っても誰も信じてくれやしないがね。
爺さんの、神獣様のお力を借りれたのも、俺の人柄あってこそとか、歯の浮くような事を言ってくれるが、俺自身にとってみれば、そうでもないとしか言いようがないが、やはり誰も聞いちゃくれないと来ている。
そんな俺でも、唯一誇るものはある。それは素晴らしい家臣たちに囲まれたということだ。
その素晴らしい家臣たちのひとり。最高の忠臣であった男がいる。
その家臣が遺したもの。それがいま俺が飲む茶だった。
その茶からは鼻を擽る香りがする。
毎年楽しんできた香り。だが、今後はもう楽しむことのない香り。
黄金色の水面が、茶器の中で広がっている。その水面から鼻を擽る香りはしていた。その香りを楽しみながら、茶器をゆっくりと傾けていく。
紅茶とは違う味が口の中に広がった。まるで草原で風を浴びているときのような爽やかさ。そこにほんのりとしたまろやかな甘みが広がっていった。
「……ふぅ」
口いっぱいに広がっていく味を堪能してから、人心地を吐く。
茶器の中にはまだ茶は残っている。だが、いずれは尽きる。それは残っている茶葉もまた同じだ。
今年送って貰えた分はまだある。
しかし、来年以降はない。ファロン曰く、普通の花茶とは違い、マッティオラの花茶に関してはファフェイしか精製法を知らないようだ。
実際、一度マッティオラを花茶にしてみたことがあった。だが、その味はいま呑んでいる花茶とはまるで違う味だった。
もっと言えば、まずかった。苦いうえにくどく、それでいてめちゃくちゃ青臭いという何重苦だ、これと思うような、とてもではないが、花茶とは言えない代物になってしまった。
とはいえ、花茶に関しては門外漢である俺が作ったものだったからと思い、花茶の専門店の店主に依頼して、マッティオラの花茶を用意させた。
が、そうして用意したマッティオラの花茶はやはりまずかった。まぁ、俺自身が作ったものよりかはましだが、それでもクソまずいことには変わらなかった。
専門店の店主が作ったものでさえ、クソまずいということは、どうにもマッティオラは花茶には向かない品種のようだ。
専門店の店主にも「なぜ、わざわざマッティオラにするのですか?」と尋ねられた。
どうやら店主もマッティオラでは、まともな花茶にはならないという確信があったようだ。
それでも俺からの依頼ということもあり、店主はできる限り美味くなるようにしてくれたみたいだが、それでもまずいもんはまずかった。
そのくそまずい茶にしかならないはずのマッティオラだが、ファフェイが献上してくれていた花茶はどんな花茶にも負けない、いや、どんな花茶にも勝るほどに美味かった。
正直なことを言うと、ファフェイはどんな魔法を使ったんだとしか思えない。
どんな方法を使えば、クソまずい汁を極上の花茶に進化させられるのやら。
俺には逆立ちしても見つけられる気がしねえわ。
「……まったく、どんな魔法なんだかねぇ」
静かに花茶を啜る。
いつもならば月見酒としゃれ込むところだが、今日ばかりは月見茶にした。
今日はファフェイの息子であるファロンが最初の仕事を、王としての最初の仕事を達成した記念日だ。
なら、その祝いをファフェイとともにするというのは当たり前のことだろう。当の本人はもうどこにもいやしないがね。
「……まったく、俺に押しつけて勝手に逝くんじゃねえよ」
指先で茶器を、紅茶で言えばティーポッドにあたる茶器を弾く。
透明な茶器が揺れ、その中の花茶もまた揺れ動く。揺れ動く花茶には老いさらばえた俺の顔が映り込んでいた。
「……本当に、こんなババアのどこがよかったんだ?」
自分で言うことじゃねえとは思うが、俺のどこにあいつは惹かれたんだろうか。俺のような男女に惚れる部分なんてありゃしねえってのによ。
まぁ、虫も好き好きとも言うし、あいつにとっては俺は惚れ抜くに値する女だったってことなんだろう。どこがいいのかはまったく理解もできんが。
「俺なんかよりも、おまえに嫁いだ奥方たちの方がよっぽどいい女だったろうに」
ファフェイの奥方はふたりいる。ひとりは正妻で、もうひとりは夫人であったが、その仲は良好だったし、ファフェイとの仲もおしどりという言葉が似合うものだった。
だというのに、あのバカタレは奥方ふたりではなく、俺なんかに死ぬまで恋慕し続けていた。
その理由はどれだけ考えても理解できないし、する気もない。
そもそも、俺自身ファフェイのことを異性という風に見てはいなかった。
せいぜいが、役に立つ忠犬というところか。飼い主である俺のために全身全霊を懸けてくれる、かしこくも愛らしい忠犬。俺にとってのファフェイはその程度の存在でしかなかった。
それでもファフェイは俺を想い続けてくれた。それどころか、奴さんはあろうことか、「勝負」と称してアホウなことを言い募っていた。
「……どちらかが死ぬまでに俺を振り向かせられるか、なんてバカな勝負をどうやったらおまえのような頭のいい奴が思いつくんだ?」
花茶を再び啜りながら、茶器を再び指で突っつく。茶器は再び揺れ動くがそれだけ。返答なんてものはない。だが、それでいい。それが当たり前なのだから。
「……まぁ、バカなのは俺も同じか」
あのバカタレの勝負に乗ってやった結果、俺は結婚をしなかった。
俺の一族はいるにはいる。だが、それは父様の弟妹の子孫たちであり、俺の直系の子孫ではない。
本来ならその一族から俺の後継を見つけるべきだったんだろうが、どいつもこいつも揃って暗愚と来ていた。
五十年の治世による弊害だろう。五十年という長きに渡る治世は、五十年間も安泰の日々を歩ませてきたということ。
人間なんざ安泰の日々を数年も歩いていれば、堕落するものだ。それが五十年となれば腐ってしまうのも当然だ。
今後俺の一族からは才あるものは現れることはないだろう。それだけ俺の一族は腐ってしまっている。
もっともそれも俺が在位するまでの間だけ。あと数年もすれば没落が決定してしまっている。
今頃、俺の一族どもは大慌てだろう。
なにせ、いままで積み重ねてきた繁栄が崩れ去ろうとしているんだ。
どうにかしようと頭を悩ませているだろうが、打開策が浮かぶような頭を持っている奴なんざいねえから、どうしようもないだろうな。
せいぜいが、俺に考え直すように直訴するくらいだろう。
たぶん泣き落としもしてくるだろうが、そんな薄っぺらいことをされても俺の気持ちは動かんよ。
そもそも、リアスの民はもうファロンを次代の王として定めている。
それをいまさらなしにするなんてことはありえない。
そのことさえも、俺の一族どもは理解していない。本当にどいつもこいつも暗愚すぎる。
プロキオンちゃんの一割、いや、一分でもいいから連中にかしこくなって欲しいものだ。
それこそプロキオンちゃんの爪の垢を煎じて飲ませたれば、あるいは。
……あ、いや、ダメだ。あのかわいい子の爪の垢をあの連中に飲ませるなんざ絶対ダメだ。そもそも、その光景を思い浮かべるだけで不快だ。
「……俺も相当に連中を嫌っているもんだな」
従甥ないし従姪孫どもなんだが、毛嫌いするほどに俺は連中が気にいらない。
なにも学ばず、なにも努力をしない連中をどうして好きになれるというのか。
その点、プロキオンちゃんは素晴らしい子だ。それこそ養子にしたいくらいに、あの子は努力家な頭のいい子だ。
まぁ、あの子が俺の養子になるなんざありえんけどな。
まったく婿殿が羨ましすぎて堪らんよ。血の繋がりはないとはいえ、あそこまで優秀なうえでかわいい愛娘を持っているんだからよ。
「……あるいは、おまえに落とされていたら、そういう子が産まれたのかね?」
茶器をまた揺らす。返答は当然のようにない。がそれでいい。それでいいんだ。こんな馬鹿馬鹿しいたらればに対する返答なんてなくていいんだ。
「とりあえず、おまえさんとの勝負はおまえさんの負けだよ。残念だったな、ファフェイ。まったく、おまえさんの勝負に乗ったせいで、俺は自分の産んだ子を抱くことさえもできなかった。本当に困った奴だよ、おまえは。俺の人生さえもめちゃくちゃにしやがって」
ファフェイへの恨み言は言おうと思えば、いくらでも言える。
だが、言ったところでなんの意味もない。そんなことをするつもりは俺にはなかった。
「……次はそうだな。ファロンがどれほどの王になれるかで勝負しようか。俺は俺を超える王になれることにするが、おまえさんはどうする?」
茶器を揺らす。当然返答はない。ないはずなのだが、なぜかフェフェイの声が、「それでは勝負が成立しませんが?」という声が聞こえた気がした。
幻聴か、それとも別のなにかなのかはわからない。
だが、それでいい。それだけで俺には十分だった。
「てめえ。言うじゃねえか。ファロンが俺を超える王になるとはっきりと言いやがって。いいだろう。俺の残りの人生を使って、てめえの息子を立派な王へと育ててやるよ。……それが俺からおまえへの唯一の手向けだ」
かしこくも愛らしい忠犬だったファフェイ。そのファフェイへの最初で最後の贈り物であり手向けだった。
「さぁ、どうなるかねぇ、おまえの息子はさ」
喉の奥を鳴らしながら、花茶を啜る。
すっかりと冷めてしまったけれど、それでも香りは残っている。
香しくもさわやかで、それでいてまろやかな味。その味を堪能しながれ、亡き忠臣への誓いを立てる。
それが不器用な忠臣への唯一の手向けだと決めて、俺は茶を啜った。
不器用すぎたファフェイへとそんな不器用な奴に付き合ってしまったバカな俺。
そんな主従の物語の最後。その最後を思い浮かべながら俺はひとり茶を啜り続けた。
次代の王の栄達を、最愛の忠犬とともに祈りながら。
補足しますと、アリシア陛下にとってファフェイはあくまでも臣下止まりの人物でしかありません。が、それでもアリシア陛下にとって近しい存在のひとりではありました。でも、それがファフェイの限界でもあったわけです。
アリシア陛下が勝負に乗ったのも、ファフェイを憎からず想っていたわけではなく、そうすれば少なくとも手駒として使い物になり続けてくれるという打算があってこそ。
同じ土俵に上がってももらえていなかった。それでも勝負に付き合ってつくれている。ファフェイはそれでよしとした。やはりそれが限界であることを自覚しながら。
複雑な主従関係だったというわけです。




