rev4-110 入刀
我が君が、ベヒモス様が私を見つめられていた。
「──アスラン、いや、サラよ。ここが限界じゃ。覚悟を決めよ。いまこそ、「ベヒモス」の座を継ぐときであるぞ」
でも、私を見つめられていても、その目はいつものように穏やかとは言えないものだった。
笑ってはいる。
でも、その目は悲しみに染まっている。
その悲しみの理由が私にはわからない。
いや、わかりたくない。
だって、わかってしまえば、それで終わりだとわかっていた。
だから、理解などしたくない。
してなるものか、と意地を張ろうとしていた。
だけど──。
「これ、アスランよ。目を背けるな」
ベヒモス様が私の頭を小突かれた。
いつのまにか、ベヒモス様は私のすぐそばに立たれていた。
痩せ衰えたお体だった。
腕や足はまるで枝のような細さだった。
筋肉さえも削げ落としているようにさえ感じられた。
だというのに、不思議な力強さを感じられた。
まるで途方もなく広い大地のようだ。
痩せ衰えているというのに、そのお体からは大地の息吹を感じられた。
だというのに、どうしてだろう?
どうしてこんなにも涙が溢れてしまうのだろう?
止めどなく涙がこぼれ落ちる。
拭おうにも手は動かなかった。
拭ってしまったら、それで終わりな気がしてしまった。
だから拭うことはできなかった。
拭えないまま、ベヒモス様を見つめることしか私にはできなかった。
「なんじゃ、その情けない顔は? もうちっとしゃっきとせんか。それでも、次代のベヒモスとなる者なのかの?」
呆れ顔でベヒモス様は私を見やると、その細い指で私の目元をやや乱暴に拭われた。ベヒモス様の手は乾燥していたので、やや乱暴に拭われたことも踏まえて少し痛かった。
でも、その痛みはいまだけ心地よかった。
痛みはベヒモス様が与えてくれたもの。
目の前にベヒモス様がいるというたしかな証拠だった。
その事実がより涙腺を緩ませていく。
「やれやれ、困った子じゃなぁ。どうしてこんなにも泣き虫かのぅ?」
ほっほっほといつものように笑いながら、ベヒモス様は今度は私の頭を撫でてくださった。掌はごつごつとしていたが、その厚い掌がいまは心地よく感じられた。
「……申し訳、ありませぬ」
「よい。そなたの気持ちを考えれば致し方ないことじゃ」
「でしたら、でしたら」
私の気持ちを考えればと仰られるのであれば、生きてください。生き続けてください。そう言いたかった。
でも、言えない。
言っていいわけがない。
ベヒモス様の気持ちは私なんかにはすべてわかるわけじゃない。
それでもわかるものはある。
この方は、もう生きていたくないのだということは。
神獣で在り続けることに疲れてしまわれている。
その一方で、あの邪神への想いを捨てきれずにいる。
どれだけ想おうと、あの邪神がそれに応えてくれるわけもないことを理解しても、その想いを捨てることができない。
愚かではある。愚かではあるけれど、その愚かさを私は批難することはできなかった。
できるわけがない。
だって、私も愚かだから。
旦那様と呼び慕う人はいる。
すぐ目の前にその人はいる。
だけど、その人との距離は近いようで遠い。
途方もなくなってしまうほどに遠い。
そんな旦那様への想いを抱き続ける私と、応えてくれるはずのない邪神への想いを抱くベヒモス様。
私とベヒモス様はその一点において、似たもの同士だった。
なのに、ベヒモス様を愚かだと批難することは、私は私自身の想いを否定することということと同義だ。
そもそも誰かの想いを否定することなんて、誰にもできない。想いを否定することは本人だけが許されているのだから。あくまでも誰かを傷付けない限りはだけど。
私とベヒモス様の想いは、誰かを傷付けるものじゃない。
どこまでもまっすぐで、純粋な願い。
その願いを否定することはできない。だから、その願いを否定する言葉など口にできるわけがなかった。
「……すまぬな、アスラン。そなたは本当によき娘であるな」
ベヒモス様の目が細められる。
優しげに笑うベヒモス様。その笑みはいつものベヒモス様のもので、その笑みに私の涙腺は完全に崩壊してしまった。
「ベヒモス、さま」
「……やれやれ、本当に泣き虫であるな、アスラン。そんな様では神子様に呆れられてしまうぞ?」
ベヒモス様がまた私を撫でてくれた。そのごつごつとした掌はやはり心地いい。どうしてこんなにも心地いいのか、その理由がようやくわかった。
ベヒモス様の掌は旦那様の掌にそっくりだった。
でも、ベヒモス様は旦那様じゃない。
私の旦那様はすぐそばにいる。
私とベヒモス様のやり取りを悲しそうな目で見つめられていた。
「よいか、アスラン。我は死ぬわけではない。我は元の神器へと戻るだけじゃ。これが永遠の別れというわけではない。故に泣くな。笑って見送ってくれぬかのぅ」
ベヒモス様は笑っていた。
これが最後だというのはわかった。
その証拠にベヒモス様の体が光を放ち始めた。それは以前から聞いていたもの。姿を保つ限界を超えたとき、ベヒモス様の体は光を放つと。それは暴走の予兆であり、一刻の猶予さえもなくなった証拠である、と。
おそらくはアンジュ様を助けられたときに、力を使われたのが致命傷になったのだだろう。それでも、いまのいままで保っておられた。だけど、それももう限界なのだろう。ベヒモス様は申し訳なそうに顔を歪められていた。
「アスランちゃん。ベヒモスさんを」
アンジュ様が淡々と告げられた。
その顔には明かな焦りが浮かんでいる。
アンジュ様がなにを言わんとされているのかはわかっていた。わかっていても、私の体は動かなかった。それどころか、項垂れながらベヒモス様に寄りかかることしかできなかった。
「……神子様。お願いが」
「……承知しています。介錯を」
「そうは、させるか」
不意に地響きのような声が聞こえた。
変わり果てたファラン少佐が左手で殴りかかってきた。ベヒモス様によってすべて切り落とされていたはずだったのに、いつのまにか再生していたようだった。
その手がまっすぐにベヒモス様へと向けられるけれど、その寸前で火花のようものがファラン少佐と私たちの間を阻んでいた。
「邪魔はさせない」
旦那様が目を細めながらファラン少佐を見やる。
ファラン少佐はなにが起こったのかを理解できないでいるようだったが、アンジュ様の結界のように殴り壊そうと拳を振るうも火花はファラン少佐の拳を拒むように防いでいく。
「サラさん、一緒にやろう」
「だんなさま、ですが」
「覚悟を決めろと言われたばかりだろう? それともこのままベヒモス様を見殺しにするのか? ベヒモス様の手で、ベヒモス様が愛した国を、この国に住まう人々を見殺しにするのか?」
旦那様は淡々と、だけど強い口調で言われた。
その言葉に私はなにも言い返すことはできなかった。
ベヒモス様がこの国をどれほど愛されているのかを私は知っている。
この国に住まう人々を愛しておられるのかも知っている。
その人々が織りなす日々の暮らしをどれほど守りたいと思われているのかもまた。
その願いを私が台無しにできるわけがない。
誰よりもベヒモス様のおそばにいた私が、その願いを無碍にすることなどできるわけがなかった。
私は頷いた。
旦那様は私の手を取り、旦那様の持つ黒い刀をともに握らせてくれた。その切っ先はまっすぐにベヒモス様へと向けられていた。
「神子様、アスランをよろしくお願い致します」
「……承知しています」
旦那様とベヒモス様のやり取りは短かった。
その短いやり取りを経て、ベヒモス様は私をじっと見つめられた。
「さらばだ、アスラン」
「……ごゆるりとお休みください、我が君」
涙が再び零れる。
でも、その涙をベヒモス様は拭われることはなかった。
私と旦那様が握る黒い刀の切っ先が、ゆっくりとその胸に吸い込まれるように突き刺さった。
それでもベヒモス様は笑われていた。笑いながら、口を動かされていた。
でも、それは声にはならなかった。
ベヒモス様の声は聞こえず、ただ唇だけがなにかを紡いでいた。
それがなにかを確認するよりも早く、ベヒモス様のお体は崩れていった。
崩壊するベヒモス様を私は歪んだ視界で、見送ったのだった。




