rev4-107 残酷な空
空がとてもきれいだった。
どこまで広く、どこまでも澄み切った空。
地上からでは、あまりにも遠く離れているがゆえに憧れしか抱けないもの。
でも、いざ空へと向かうと、そんな憧れなど抱くことはできない。
だって、空はきれいではあるけど、こちらを拒絶するものだった。
地上とは違い、空の上では留まることはできない。
常に羽ばたくか、一定の力を以て浮遊していないと、その場で留まることはできない。
羽ばたきもせずに、一定の力も使わなかったら、空はあっさりとこちらの手を放し、地上へと堕としてしまう。
そうして地上に堕とされたら、まず間違いなく助かることはない。
本当に奇跡的なことでも起きない限りは、命を落とすことになる。
私は竜族だから、その光景を何度も見てきた。
子供の竜族に最初に訪れる試練こそが、空をひとりで飛び回るということ。
その背中の翼を持って空を自由に飛び回る。
それで初めて竜族は一人前として認められる。
逆に言えば、空を飛べなければ竜族はその子を一人前として認めることはない。
そのため、竜族の子供はみな物心が付いてからは、空を飛ぶ練習を始める。
最初は平地で翼を羽ばたかせて、離陸して移動することに慣れることから。
その次からは少しずつ高い場所から空を飛ぶ練習を始める。親や兄姉の背中やちょっとした大きな岩の上からなど。平地よりも高い場所から飛び立つようになる。
最終的には、それぞれに産まれた山脈の一番高い山の上から飛び立つことを以て、一人前として認められるようになる。
その最初の試練の最後を乗り越えることができない子は、それなりにいる。
その子がどうなるのかは、言うまでもない。
飛び立てずにただ堕ちてしまえば、頑丈な竜族の体とは言え無事ではいられない。
大人の竜族であっても、一番高い山の上から堕ちてしまえば、五体満足ではいられない。
ましてや子供の竜族であったのならば、結末は自ずと知れている。
竜族の子供でも、私たちのように翼を持たない竜族であれば、別の試練が待っているらしいが、少なくとも翼を持った竜族の子供は最初の試練で以て命懸けの選別をされることになる。
その命懸けの選別を私は何度となく見守ってきた。
無事に飛び立てた子はまだいい。だが、飛び立つことができず、堕ちてしまった子に関してはその後始末を行うことがいつも嫌だった。
堕ちた場所を見つけることは簡単だった。
他の山脈のことはわからないけれど、少なくとも私が産まれた風竜山脈においては一番高い山の崖は、「選別の崖」と呼ばれている。
そしてその「選別の崖」のはるか下には、「奈落の墓」と呼ばれる場所があった。「選別」の崖は「奈落の墓」のはるか頭上に存在している。そして「奈落の墓」は、墓という名前ではあるが、墓標となるものは存在していない。
その理由は実に単純。
「選別の崖」から堕ちた者の亡骸がそこに横たわるからだ。
ゆえに「奈落の墓」──選別から漏れ出た者が最後に行き着く場所ということで、そこは「奈落の墓」と呼ばれている。
その「奈落の墓」で私はいつも選別かれ漏れ出てしまった子の後始末をしていた。
姉様の補佐であったがゆえに、竜王の手を煩わせないために補佐である私が最後の弔いを担当していた。
それが私の職務のひとつだった。
でも、どれほど職務と自分に言い聞かせても、「奈落の墓」に辿り着いてしまった子の末路は見るも無惨なものだ。
五体満足で残る子はいない。
大抵は、全身が引きちぎれているか、臓腑をまき散らすかのどちらかだった。
血と臓物の臭いに充満される「奈落の墓」に降り立つのは、いつも気後れした。選別に漏れ出てしまった子とはいえ、同じ山脈で産まれた子。血の繋がりなどなくても、産まれたときから知っている子たち。弟妹同然に扱っていた子たち。その子たちの事切れた姿を見るのはあまりにも辛かった。
私が風竜山脈を出奔したのも、選別から漏れ出た子の弔いをすることができなくなってしまったからだ。
「姉様」と慕う子たちの亡骸と対面できなくなってしまった。
それが私が竜族ではなく、竜人のサラとして生きることを決意した理由。
風竜山脈を夜遅くに出奔し、遠く離れた「獅子の王国」へと向かった。
残酷なほどに美しい空の上を、拒絶するくせに憧れを抱かせる空への嫌悪感を募らせながら。
その空の上に私はいまいる。
目の前には、その空を想わせるアンジュさんがいた。
誰もが目を奪われるほどに美しい人。
でも、それでいてどこまでも残酷な人。
その様はまさに空を、この美しくも残酷な空を思い浮かべさせてくれる。
拒絶するくせに、どこまでも人を惹きつけてしまう空。
そんな空とアンジュさんはどこまでも似ている。
いままでであれば、そこまでではなかった。
どちらかと言えば、海のような人だった。
一度身を投げ出せば、どこまでも引き込んでしまうけれど、こちらのすべてを受け入れてくれる海。私にとってアンジュさんはそんなイメージを抱かせる人だった。
でも、いま目の前にいるアンジュさんは空だ。ごく限られた者以外を拒絶するくせに、ほとんどのものを魅了し憧れを抱かせる存在。
あぁ、そういう意味ではたしかにこの人は神と言えるかもしれない。
神とは、人に畏敬の念を抱かせる存在だ。
あまりにも美しいからこそ、あまりにも強大であるからこそ、人は神に畏敬の念を抱く。
そしてアンジュさんはそのすべてと符号する方。
その方が言う。
我が君を、ベヒモス様を殺せと。
我が君を殺して、私に代替わりをさせるようにと旦那様に言っていた。
この人とて旦那様を愛しているはずなのに、その愛する人の手を汚させようなんて普通は考えない。
でも、この人は考えるどころか、直接口にしている。
恐ろしい人だと心の底から思う。
それこそ、それこそ、この人こそが邪神ではないかと思うほどに。
あの日対峙した邪神となったスカイディアよりも、私は目の前にいるアンジュさんの方が恐ろしい。
直接なにかをされたわけじゃない。
でも、私は直接私に危害を加えたスカイディアよりも、ただ笑っているだけのアンジュさんの方がはるかに怖かった。
「うん? もしかして、怖がらせちゃった? ごめんね、アスランちゃん」
不意にアンジュさんの手が私の頬に触れた。
いつのまにか、素顔を隠している仮面は取られてしまっていた。
左手には私の素顔を隠す仮面が握られ、右手は私の頬を直に撫でている。
でも、その言動はどこまでも対等な存在へのものではない。愛玩動物へと向けるようなものだった。
いまの私でもこの人にとっては愛玩動物でしかない。
それは私だけじゃない。
この人にとってはごく限られた存在以外は、すべて愛玩動物のようなものなのだろう。
ベヒモス様とて、それは変わらない。
その事実を認識したとたん、私は途方もない恐怖に襲われた。
逆らってはいけない。
この人は、いや、この方に逆らうことなど愚かとしか言いようがないのだと。
そう、自分に言い聞かせていく。
格付けはすでに終わっていた。
この方がいまの状態になったときに、もう終わりを告げていたのだと。そう自分に言い聞かせていると、旦那様がアンジュさん、いえ、アンジュ様を止めようとしていた。そしてアンジュ様は我が君がかつて私に言われたことを言い当てられた。
やはり、この方には隠し事など通用しないのだと、そう思いながら私は息をひとつ吐くと、かつての我が君の言葉を思い出した。
『よいか、竜族の娘よ。これよりそなたはかつての名を捨てよ。そして新しく「アスラン」と名乗るがよい』
『アスラン?』
『うむ。かつて存在した種族の言葉で、「共に在りし者」という意味の言葉じゃ。これよりそなたはそなたの姉と共に在り続けることとなる。そのことを忘れぬように「アスラン」と名乗るがいい。そしていつかは、我を殺して欲しい』
我が君は真剣な表情ではっきりと言い切られた。




