rev4-103 変わっていないのに変わってしまった君
透き通った歌声が響いていた。
空高くから響き渡る声。
その声はまさに天上の調べ。
その調べに、腐肉共は低い唸り声を上げながら消滅していく。
中には黒い涙を流しながら消えていく個体もいた。
その様は、絶望的な状況から救われたように、神や天使という超常的な存在の慈悲を受け、歓喜の涙を流しているようだった。
その涙を捧げる先には、彼らの視線の先にいるのはアンジュ。両腕を広げながら、それこそプロキオンやベティを招き入れるように穏やかな笑みを浮かべて両腕を広げるアンジュがいた。
笑いながらアンジュは歌を口ずさむ。
誰もが耳を傾けてしまうほどに美しい歌声。
およそ人が歌っているとは思えないほどに美しすぎる声。
天上の調べというのは、こういう歌声を言うのだろう。
聞き惚れてしまうほどの美声。
そんな美声とともに腐肉共は一体ずつ消滅していった。
腐肉共が消滅する度に、「巨獣殿」周囲の空気が澄んでいくように感じられた。
いままではそこまで気に回せる余裕なんてなかったけれど、腐肉共が現れてから「巨獣殿」の周囲の空気は澱んでいたようだった。腐肉共が消滅するごとに空気が澄んでいくことで、そのことに初めて気付くことができた。
そうして空気が清浄化されていく中、デカブツことファラン少佐は悲鳴じみた雄叫びを上げている。
頭を抱えながら身もだえする少佐。
その口から上がる叫びは、まともな言葉にはなっていない。
雄叫びという言葉がぴったりと合うけれど、その雄叫びは断末魔の悲鳴に近い。
そんな悲鳴を上げながらも、少佐は憎々しげに俺とアンジュを見つめていた。その目を血走らせ、憎悪に染まった瞳で俺たちを睨み付けていた。
「アンっっっっっジュぅぅぅぅぅぅーっ!」
少佐は叫んでいた。
叫びながら、残っていた左腕をアンジュへと伸ばしていく。
アンジュは少佐が左腕を伸ばしてくるのに気付くも、にこやかに笑いかけると──。
「ダメだよ。おいたはいけないことなんだからね」
──伸ばされてくる左腕を、右の人差し指ひとつで受け止めてしまった。少佐は目を見開きながら腕をより伸ばそうとするも、アンジュの指を押し返すことができないでいる。
あまりにもありえない光景だった。
アンジュといまの少佐の体格差を考えれば、指一本で制することなどできるわけがない。少佐がアンジュを指先ひとつで制するというのであればまだ理解できる。あれほどの巨体であれば、指先ひとつでも大岩くらいの大きさになる。
大岩並みの大きさの指先であれば、アンジュを制することはたやすくできる。
でも、標準よりもやや高めとはいえ、人間の範疇を超えない体格のアンジュが、巨峰クラスの体格の少佐を指先ひとつで押しとどめているというのは、どう考えてもありえないことだった。それこそ悪い冗談かよくできた悪夢としか思えない。
でも、目の前の光景は冗談でも悪夢でもなく、現実そのものだった。
そんな現実を少佐は認めないと言わんばかりに叫び続けていた。
叫びながらアンジュの指を押し返そうとするも、アンジュの体は動かない。
こういうのを地面に根を張った巨木というのだろうか、と他人事のように思えてしまうほどに、あまりにも圧倒的すぎる光景だった。
「ふふふ、じゃれついているの? 大きな体なのに、甘えん坊さんなんだね」
ニコニコと笑いながら、とんでもないことを言うアンジュ。
じゃれつき。
たしかにいまの少佐とアンジュの力の差を考えれば、大人にじゃれつく子供のようにさえ感じられる。それほどの差が、いや、それ以上の差がふたりにはあった。
おそらくアンジュがその気になれば、少佐を投げることだって簡単にできるんだろう。少佐もそのことに気付いているのか、いまだに叫んでいるが、その目には怯えの色がはっきりと見て取れるようになっていた。
手を出してはならない存在に手を出してしまった。
いまの少佐が考えていることは、それ以外にはないだろう。
俺が少佐の立場であれば、そうしか思えない。
それくらいにいまのアンジュ相手に、少佐は相手になっていない。
必死の抵抗もただのじゃれつきとしか思われていない時点で、気の毒としか言いようがないほどの力量差が生じている証拠だった。
「でも、ごめんね? いまはあなたと遊んでいるわけにいはいかないの」
アンジュは申し訳なさそうに表情を歪めると、腕を押しとどめていた人差し指を中ほどまで折りたたんだ。
いきなり抵抗がなくなったことで、少佐の体は一気につんのめるようにして倒れ込んでいく。
だが、アンジュは慌てることなく、折りたたんだ人差し指の爪を親指の腹に当てた。それから一気に指を弾く。そうして弾いた人差し指は少佐の頬に当たった。
普通であれば巨峰クラスの体格の少佐の頬を、常人並の体格のアンジュが指で弾いたところでなんの痛痒もない。
しかし、いまのアンジュは普通ではなかった。
人差し指で弾いた程度のはずだったのに、少佐は悲鳴を上げながら仰向けに倒れ込んでいく。同じくらいの体格の存在に殴られたように頬を大きく抉られてだ。
そのあまりにもとんでもない光景は、俺の口から言葉を失わせるには十分すぎた。それは香恋とて同じだったが、香恋は俺よりかはましだったようで、「……これほどとは、ね」とどうにか言葉を発するので精一杯になっていた。
その言葉だけで、香恋がアンジュに畏怖を抱いていることははっきりとわかった。なにせ、俺自身もいまのアンジュに畏怖していた。
昨日の夜までは、か弱い女性だったはずのアンジュ。
それがいまは巨人と化したファラン少佐を赤子扱いするほどに、圧倒的な存在となってしまっている。それこそ、神と称するしかないほどにいまのアンジュは別格の存在と化していた。
「あ、いけない」
アンジュは仰向けに倒れ込んでいく少佐を見て、慌てて少佐の指を掴んだ。……ほんの一瞬で倒れ込む少佐の懐深くまで入り込んでいた。その動きは俺では見ることさえも敵わないほどに速かった。
「だいぶ手加減したのだけど、ごめんね。どのくらいがちょうどいいのか、わからないの」
あはははと申し訳なさそうに苦笑いするアンジュ。その笑い声に少佐の顔は引きつっていく。
だが、そのことに気付かずアンジュは「よいしょ」と軽い口調で倒れ込んでいた少佐を元の仁王立ちの状態に引き戻していた。
俺が少佐の立ち位置であったら、発狂しかねないほどに絶望的な状況。
それをなしているのが、俺の妻だった。
本当に彼女はアンジュなのかと疑ってしまいそうなほどに、俺の知っているアンジュといまのアンジュは乖離しすぎていた。それこそアンジュの顔をした未知の生物が目の前にいるようだ。
「未知の生物は酷いよ、あなた」
少佐を引き戻していたはずのアンジュが、気付けばすぐ目の前でかわいらしく頬を膨らましている。
俺が知っているアンジュよりも、だいぶ落ち着いた声色だった。
でも、頬を膨らます姿は、以前のアンジュとなにひとつ変わっていない。
変わっていないのに、変わっていた。
それがひどく悲しかった。
「? なんで悲しがっているの、あなた? 私は私だよ? あなたの妻のアンジュのままだよ?」
アンジュはそう言って俺の背中に腕を回し、しなだれかかってきた。ベッドの上でねだるようなアンジュらしい甘え方。昨夜の散々ねだっていたアンジュの姿と不思議と重ねてしまった。
「終わったら、今夜もかわいがってね。お仕事頑張ったご褒美として」
囁きかけながら頬に口づけを落とすとアンジュは、再び歌を口ずさんでいく。
少佐が再び頭を抱えて唸り声をあげるも、今度は邪魔をしようとしていない。
邪魔をしたいのだろうけれど、いまのアンジュ相手になにをすればいいのかがわからないでいるようだ。
いまの俺と同じだ。
いまのアンジュとどう接すればいいのか。
俺にはわからなくなってしまっていた。
ただ呆然と姿形は変わっていないはずなのに、変わりきってしまった妻を見つめることしかできなかった。
やがてアンジュの歌によって、腐肉共はすべて消滅した。
だが、少佐はまだ残っていた。残っているが、力の大部分を奪われたのか、息も絶え絶えになりながら、怯えきった目でアンジュを見つめていた。
「これでよし。じゃあ、あとはあなたにお任せするね」
「え?」
「ぶよぶよちゃんたちは、みんな解放したけど、あの子は歌じゃ解放できないみたい。だから、ひと思いにばっさりとやっちゃって」
「ばっさりって」
「その剣で頭からまっぷたつにしてあげてってことだよ?」
なにを言っているのと言わんばかりに首を傾げるアンジュ。
それまでと口調も声色も変わらないのに、その内容はあまりに口調や声色との温度差がありすぎていた。
「ほら、あなた。早く」
ニコニコと笑うアンジュ。
アンジュが急かしてくる。まるでこれからデートをしに行くのに、まだ準備ができていない俺を急かすように、穏やかにだが、どこか有無を言わさぬ口調でアンジュは俺に少佐のトドメを差すように言い募る。
ミカヅチを握りしめながらゆっくりと上段に掲げた。アンジュは「わぁ」とパチパチと拍手をしながら俺の活躍に目を輝かせている。
ひどすぎる温度差に目眩がしそうだった。
それでも俺は「空」属性をミカヅチに乗せて、消耗しきった少佐へと向けて刃を振り下ろしたんだ。




