rev4-102 降臨
空の上は心地よかった。
アスランさんに手伝ってもらってだけど、こうして空の上にいるのはとても心地がいい。
地上よりも大きな風の音。
音の分だけ肌を撫でる風も強い。
もし帽子を被っていたら、一瞬で飛ばされてしまうんじゃないかと思うほどに。
飛ばされたら、帽子は一瞬で手の届かないところまで飛んでいくのでしょう。
はるか遠くまで、風によって運ばれていくんでしょうね。
その様を想像すると、少しだけ物悲しく感じられる。
実際に飛ばされているわけではなく、ただの想像だというのに、その想像だけで物悲しくなるなんておかしいとは思うけども。
(……私、やっぱりちょっとおかしいのかな?)
大掃除をしていたときに、ティアリカ様になにかを言われかけた。
私の思考はおかしいとあの人は、はっきりと言ってくださった。
でも、どうおかしいのかが私にはわからない。
いや、おかしいということはわかっている。
私自身、いつもとはまるで考え方が違いすぎているということに違和感を憶えている。
いや、違和感というよりかは、恐怖心の方が近いかもしれない。
私の中でなにかが明確に変わっていく。
その速度は恐ろしいほどに速い。
それこそ毎秒ごとに私の中でなにかが変わっていくようにさえ思える。
そのことを「怖い」とはっきりと思っているのに、恐怖という感情が不思議と表に出てきれくない。
怖い。
怖いよ。
体が震えそうなほどに怖い。
でも、体は震えない。
表情も変わらない。
言葉さえも出ない。
ただ、脳天気と思えるくらいに明るく振る舞ってしまっている。
口から出るのは呑気な言葉。
表情は自分でもわかるくらいに笑顔。
どうして?
なんで?
(私はどうなっているの?)
その疑問さえも声にはならない。
その声が誰かに届くこともない。
ただただ自分が恐ろしい速さで変わっていくのを、眺めていることしかできないでいる。
そんな中、私はいま空の上にいる。
あの人と隣り合うようにして空の上に佇んでいる。
アスランさんに手を繋いでもらってという形だけど。
そもそも、なんで空の上にいるのか、私自身にもよくわからない。
ただ、こうしないといけないって思ったから。
こうしないと、ここが大変なことになると思った。
この国は私の祖国じゃない。
でも、この国で出会った善良な人たちがいる。まだ出会っていないけれど、善良な人たちはもっともっと多くいる。
その人たちに危害が加えられる可能性がある。その可能性を見捨てることは私にはできなかった。
だからこそ、アスランさんに頼んだ。
私を「あの人がいる空の上まで連れて行って欲しい」と。
アスランさんは最初理解できないという顔をしていた。
以前であれば、仮面で顔は見えなかった。
でも、いまの私はその仮面の先がなぜか見えていた。
それは仮面の先の素顔だけじゃない。
アスランさんが「どういう存在」であるのかもまたわかってしまった。
ベヒモスさんに頼んでもよかったけど、だいぶ老いてしまっているし、下手に力を使わせて死んじゃったら大変だったから、消去法でもアスランさんしか頼む相手はいなかった。
まぁ、ベヒモスさんは、私が頼めば喜んで力を貸してくれただろうけど、それでも私のせいで死んじゃったらと考えると、気兼ねなく頼むことはできなかった。
でも、アスランさんならまだ若いし、ベヒモスさん同様に私が頼めば快く受けてくれるのはわかっていたというのもある。
どちらにしろ、ベヒモスさんかアスランさんのどちらかにお願いするしかなかった。ルリさんは無理矢理あの器に納まっているから、いまのままじゃ本来の力を使うこともできないし、そもそも権能的には私を空の上まで連れて行くことはできそうにないし。
うん、やっぱりアスランさんに頼んで正解だった。
そのおかげでこうして空の上に来られた。
どこまでも広がる空。
透き通った青空。
あの人に抱かれるのと同じくらいに心地いい空。
その空に私はいま包まれている。
気持ちいいなぁと呟きながら、ふと疑問が湧き起こった。
(……あれ? どうして私「ベヒモスさん」なんて思っているんだろう?)
いままでは「ベヒモス様」と呼んでいたし、自分でもそう思っているはずなのに、どうしてかいまは「ベヒモスさん」と呼ぶことに違和感がなかった。
それに「死んじゃったら」ってなに?
目上に使うべきではない言葉を、なんでベヒモスさんに使っているの?
あぁ、違う。
ベヒモスさんじゃない。
あの子は、いや、あの方はベヒモス様。
この世界における神獣ちゃん、いや、神獣様たちのひとり。
その神獣様が亡くなるなんて、大変なことだもの。
いや、大変なんてものじゃない。そんなことはあってはならないこと。
だって、そんなことになればすごく面倒に、違う! この世界の調和が乱れて──。
「──アンジュ? アンジュ!」
あの人の声が聞こえた。
私の腕を掴んで叫ぶ愛おしい人がいる。
私はいつのまにか、両手で髪を掻き乱していた。
(……あれ? なんで私両手で髪を掻き乱しているの?)
いまここにいるのはアスランちゃんにここまで連れ来てもらったからであって、アスランちゃん、ううん、アスランさんと手を繋いでいていないと空なんて飛べるはずがない。
でも、そのアスランさんは私を見て信じられないものを見るように、大きく目を見開いている。
ダメだよ。そんな簡単に驚いちゃ。ベヒモスさんの継嗣として情けないよと一瞬言おうとしてしまった。
だけど、すぐに慌てて口を塞いだ。
でも、慌てて口を塞いではっきりとわかった。
私の眼下には地上が見えていた。
まるで私に縋るようにして腕を伸ばすぶよぶよとした子たちがいる。
かわいそうにとその姿を見て思う。
早く楽にしてあげなきゃいけない。
でも、直接手を下すのもかわいそう。
となると、するべきなのはひとつだけ。
「哀れな子たちよ。その醜き体から解放してあげるからね」
眼下にいる哀れな子たちに向かって、微笑む。たぶん見えていないけれど、それでもあの子たちが私の声に反応を見せたのは明らかだった。
まるで救いを待つようにして、あの子たちはじっと私を見上げていた。そんな子たちに私は両手を組んで、来世への祈りを捧げる、のだけど、ちょっとおかしく笑ってしまった。
だって、私が誰に祈りを捧げればいいのか。
まぁ、私自身に祈りを捧げればいいかな。
そんなことをぼんやりと考えながら、その調べを口にする。
『っ! カレン、止めなさい! いますぐに!』
「アンジュ!」
不意に、あの人とよく似た声が聞こえた。
その声に反応するようにして、あの人は私の両肩を掴んでくれる。
どうしてか、あの人は焦った顔をしているけれど、その顔もかわいくて素敵。
「……ん」
気付いたら、あの人の唇に私の唇を重ねてしまっていた。
あの人は驚いた顔をしているけれど、その顔を見て、ちょっと悪戯心が芽生えてしまった。
唇を割り開いて、あの人の舌を絡め取ってあげた。
空中ではおおよそ響くはずのない音が、情事を想わせる音が鳴り響く。
その音といきなりの行為にアスランちゃんが「な、なにをして」と焦った顔をしている。仮面でようやく隠しきれるほどに真っ赤な顔をしていた。……男の人に好まれそうな体つきをしているのに、意外と初心みたい。かわいい。
「……ねぇ、あなた」
「アンジュ、いきなり、なんで」
あの人は私のしていることが理解できないと顔に書いてある。こういう関係になる前はミステリアスなところがあったのだけど、いまは不思議とこの人のことはなんでもわかってしまう。ミステリアスという魅力はなくなってしまったけれど、それがなくなっても私がこの人を心の底から愛していることには変わりない。
だからこそ、ひとつ言っておきたいことがある。
「アスランちゃんも抱かないとダメだよ? 私とあなたの眷属ちゃんなんだから、ちゃんとかわいがってあげてね?」
「なにを、言っているんだ?」
「うん? だって、アスランちゃんにまだ手を出していないんでしょう? それじゃかわいそうだもの。だから、かわいがってあげて。あぁ、心配しなくてもアスランちゃんを身ごもらせても私は気にしないからね? だってそのときには、私もあなたとの子供を身ごもっているから。プロキオンとベティの妹になる子。ふふふ、きっとすごくかわいいんだろうなぁ」
まだお腹の中には子供はいない。
でも、いずれはできる。それがはっきりとわかる。
同性であったとしても、私とのこの人の間ではそんなことは関係ない。
「いまのうちに、名前を決めておいてね、あなた」
「……アンジュ」
呆然とあの人は私を呼ぶ。ショックを受けているようにも見えるけど、どうしたんだろう?
『……もう手遅れだわ。半開きだったはずが、もう完全に開ききっているじゃない。これではもう私であっても』
それとあの人の隣でなにかを呟いているこの子は誰なんだろう?
見た感じ、あの人の小さい頃みたいな姿をしているけど……うーん?
「ねぇ、そこのあなた? この人のなんなの?」
『っ!? まさか、私が見えて』
「うん、見えているけど、それがどうしたの? この人の小さい頃みたいな姿をしているけれど」
『嘘。ちゃんと見えているの? この私が?』
あの人に似た子は、なぜか慌てている。
よくわからないけれど、まぁ、いいか。
「あまり邪魔しないでね? 私を止めるように言ったのもあなたなんだろうけど、これからあの子たちを解放してあげなきゃいけないの。いまのままじゃ苦しむだけ。その苦しみから解放してあげるのも、女神の仕事なんだから、ね?」
にっこりと笑いかけると、あの人に似た子は目を見開いて固まってしまう。
それはその子だけじゃなく、アスランちゃんもあの人も同じ。
よくわからない。
でも、いいや。
いまはお仕事をしないといけない。
邪神に堕ちたバカな女神の後始末は私がしないといけない。
「さぁ、解放してあげるね、哀れな子たちよ」
笑いかけながら、私は再び調べを口にする。
それが私の最初の仕事だと思いながら、穢れを一掃するようにその調べを口にしていった。




