rev4-88 塩を送る
賑やかで和やかな朝食はどうにか終わりを告げた。
同時に、それはルクレが再びリアスの王城に戻るということを意味していた。
「じゃあ、私はそろそろお城に戻りますね」
朝食が終わり、食後のお茶を堪能していると、ルクレがいきなり席を立ったんだ。
席は俺の右隣をキープしたままだったが、その膝にはベティがちょこんと腰掛けていたのだが、立ち上がる際にベティを抱っこしてから、席に座らせてあげていた。
ベティはいきなりのことに「ばぅ?」と意味がわからずに首を傾げていた。
「ルクレさん、お城に戻るの?」
アンジュの隣の席に腰掛けていたプロキオンが、驚いたように尋ねると、ルクレは少し不満そうな顔で「ええ、そうですよ」と答えたんだ。
「昨日の遅くに帰ってきたはいいんですが、今日の仕事も山積みのようですからね。朝食の前に一度戻ったんですが、アリシア陛下からは「昼までに戻ってこい」と言われていまして」
「お昼までなら、まだ時間あるよ?」
プロキオンは食堂の壁に掛けられている時計を指差す。時計の針はまだ昼には早すぎる時間を差し示しおり、戻るにはいささかどころか、かなり早すぎていた。
「プロキオンちゃんは、まだまだですね」
プロキオンの疑問を、ルクレは一笑すると、その疑問への答えを口にした。
「簡単に言いますと、アリシア陛下に釘を刺すため、ですね。あの方のことですから、またいらぬ世話をしているに決まっていますから。どうせ、「昼までに戻ってこい」というのも、「昼までは空けいても問題ない」というわけではなく、「昼までは気合いで踏ん張るから」ということなのですよ」
ルクレはため息交じりに言った。
その言葉に、その場にいたほぼ全員が「あー」と頷いていた。
アリシア陛下の有り様を思えば、ルクレの言う通りであることは間違いないだろう。むしろ、アリシア陛下であれば、確実にそんなことをする。あの人はそういう人だった。しまいにはベティまで「……おばーちゃんへーかがしそうなことなの」と頷いていた。
誰もがアリシア陛下の有り様がどういうものなのかをしみじみと理解した瞬間だった。
「まぁ、そもそもの話、私がここに来ること自体があの方にとっては、イレギュラーですからね」
「そうなの? ルクレさん」
「ええ。本来なら皆さんと食事を供にしている時間もありません。それどころか、まともに食事をしている時間さえ惜しいほどに、いまこの国は大きく揺れているのです。そうなれば、為政者にしてみれば、まともな食事なんてできるわけもないんですよ。せいぜいすぐに食べられる軽食で済ませる程度で、まともな食事は、そうですねぇ……あと数週間はできなかったでしょうし」
「そんなに?」
プロキオンは唖然とした顔をしていた。
俺もそこまでの激務だとは思っていなかったので、さすがに言葉を失ってしまった。
だが、逆に言えばだ。
それだけ、この国がルクレの言う通り、揺れ動いているという証拠だった。
そうなれば、下から上までは多忙を極めることはどうしようもない。
それはいままで国が国の体をなしていようといなかろうかと関係ない。
国の根底を揺るがすほどの戦とは、それほどまでに戦後処理の擁するということなのだろう。
とはいえ、いまが文官ないし王の戦なのだろう。
武官の戦は戦場に出ることであり、命が当然のように喪われる。
それに対して、戦後処理は命を喪うことはない。ないけれど、戦の規模が大きくなればなるほど、戦後処理は大きく、そして長引いてしまう。長引いた分だけ負担は大きくなる。命の危険はないけれど、場合によっては戦に出るよりも体を酷使することになる。
それだけ内政というものは、ひどい激務になってしまう。中にはその激務ゆえに病を患い亡くなってしまう人もいる。有名なところで言えば、「三国志」の諸葛亮だって最期は過労死だし。
今回の戦後処理も激務であることは間違いない。ルクレがあと数週間はまともに食事ができないと言うほどなのだから。ただ、それはおそらく最低でもということだと思う。長くてもではないはずだ。
特に左右の大臣が戦死ないし罷免されてしまったのが痛い。
どちらの大臣が残っていれば、いまよりはだいぶマシだっただろうに、今回は揃っていなくなってしまっている。
その結果、大臣が為すべき職務さえもアリシア陛下とルクレに回ってきてしまっている。多少であれば、その下の文官でもできることだろうけど、大臣クラスでなければ処理できないものもある。
それに加えて、普段の職務も同時にこなさなければならないとなると、こうしてルクレが一時的に戻ってくること自体が奇跡なものと言ってもいい。
まぁ、奇跡というか、今回のでもかなり無理をして抜け出してきたようだが。
それだけ、俺やベティたちに会いたかったのかと思うと、いじらしく感じてしまう。
とはいえ、アンジュの手前でルクレを抱きしめるというのもなんだった。
せっかく頑張ってくれたルクレのために、なにかをしてあげたいと思うのだけど、具体的にどうすればいいのかと考えていると──。
「ベティ。お弁当作ろうか?」
「ばぅ?」
──アンジュが唐突にそんなことを言い出したんだ。
その言葉にルクレも「え?」と唖然となっていた。
だが、唖然となっているルクレを置いてけぼりにするように、アンジュは続ける。
「頑張っているおかーさんとおばーちゃんへーかのために、お昼ご飯としてお弁当を作ってあげようと思うんだけど、ベティにも手伝って欲しいなぁとアンジュママは思うの。どうかな?」
「……ばぅ、ベティにもできる?」
「できるできる。ベティならいっぱい頑張れるよ。なんならプロキオンお姉ちゃんも手伝ってくれるし。ね?」
今度はプロキオンに目配せをするアンジュ。その言葉にプロキオンは力強く頷いていた。
「がぅ。私頑張るよ」
「そっか。じゃあ、後はベティだね? どうする?」
アンジュはベティをじっと見つめていたが、ベティはしばらく考えた後、「ばぅん」と頷いた。
「ベティ、がんばるの!」
「そっか。じゃあ、一緒にお弁当を作ろう」
「はーいなの!」
いつものように元気いっぱいに頷くベティ。
そんなベティにルクレはどうしたものかと困ったような顔をしていた。
「あ、あの、アンジュ。気持ちはありがたいのですが、私には時間がですね」
「アリシア陛下は、昼までは持ちこたえるって言ってくれたんでしょう? ならその言葉に甘えなよ」
「ですが」
「それに、いま戻ってもアリシア陛下のことだから、「昼まで帰って来んなっつたろうが」って追い返されるだけだと思うよ?」
「……それは」
ルクレが続く言葉を飲み込んでしまう。
実際、アリシア陛下なら同じことを言って、ルクレを追い返すのは目に見えていた。あの人ならやりかねない。たとえ、どれほどの激務に晒されたとしてもだ。そんな姿がありありと思い浮かぶのは、俺だけではないようで、この場にいるほぼ全員がまたしても「あー」という言葉を漏らしていた。
「……アリシアならそうするであろうなぁ」
トドメとばかりにベヒモス様さえも頷いていた。この場にいる中で、誰よりもアリシア陛下との付き合いが長いベヒモス様が言うのだから、いま戻ってもまず間違いなく追い返されるのは確定と言えた。
その言葉にアンジュは胸を張って、「なら、お言葉に甘えるしかないじゃん。それに気を遣いすぎるのもかえってアリシア陛下に悪いでしょう?」と追撃をはかり、その追撃にルクレは返す言葉をなくしてしまっていた。
「……ふむ。ルクレティアよ、アンジュ殿の言う通り、弁当ができるまではここに滞在するということでいいのではないかな? いま戻っても追い返されるだけであろうが、弁当ができてから戻れば、さすがのアリシアも追い返すことはしないだろうしのぅ」
さすがに弁当は作ろうとして、すぐにできるものじゃない。どうしたって時間は掛かる。となれば、その時間の分だけ「巨獣殿」に滞在できる。その時間を踏まえても、昼にはまだ早いだろうが、いま戻るよりかは時間は経っている。となれば、さすがのアリシア陛下も追い返すことはしないはず。
ベヒモス様の言い分はもっともなものだった。
その言葉についにルクレも折れた。
「……わかりました。では、お弁当ができるまでは、こちらにいるとしましょう」
「そう、じゃあ、早速作ろうかな。いくら厚意に甘えるとしても限度はあるからね。あー、でも、さすがにベティとプロキオンに教えながらだから、結構時間掛かっちゃうなぁ~。一眠りできるくらいは」
アンジュはそう言って俺をなぜか見やった。
その言葉が意味することがなんであるのかは、なんとなく察せたけど、ちょっと躊躇するものだった。アンジュの言葉にルクレも「アンジュ、いいんですか?」と困惑気味だった。するとアンジュは「ん~?」と不思議そうに首を傾げると──。
「なんのこと? 私いまからベティとプロキオンにお料理教えるから、その間のことは知らないし見ることもないから、ルクレがなにを言っているのか、全然わかんないなぁ」
──そう言って笑顔を浮かべてくれた。まるでルクレの背を押すように。
そんなアンジュに「あなたって人は」とルクレは絶句するも、すぐに笑みを浮かべて一言告げる。
「ライバルに塩を送ることがどういうことなのかを痛感しますよ?」
「だから、なんのことかわかんないなぁ~? それにその人はもう私に夢中だから、ルクレがどうこうできるとは思わないし」
ルクレの挑発的な言葉に、アンジュは不敵な笑みで返事をする。
仲がいいのか、悪いのか。判断に困るやり取りだったが、とにかく、アンジュからの許可は得れたということでいいのだろう。本当にいいのかなと思わなくもないけれど、少なくともアンジュは今回のことは黙認すると言っている以上、俺のするべきことはひとつだけ。
「あー、その、ルクレ?」
「は、はい。なんでしょうか?」
「その、ちょっと話があるんだけど、いいかな?」
「え、あ、はい。……もちろんです」
頬をほんのりと染めながら頷くルクレ。
別れるとアンジュには言ったくせに、そのアンジュから黙認された。
大義名分とまでは行かなくても、許可は貰えた。
それでも気持ちはアンジュに向いているはずなのに、頬を染めるルクレを見て、強い衝動が体の中を駆け巡っていくのがわかった。
……節操なしにもほどがないかなと自分でも思うけど。
「それじゃ、ちょっと付いてきて」
「は、はい。レン様」
ルクレとともに席を立つと、同時にアンジュもベティとプロキオンとともに席を立った。
その際、アンジュが不意に呟いた。
「のめり込みすぎちゃ、ダメだよ?」
アンジュは熱い吐息とともに、そう囁きかけた。
その囁きに背筋が震える。
理性を一瞬だけ手放しそうになったが、ルクレの「……レン様、行きましょう」という言葉にどうにか理性を取り戻すことができた。
「あ、あぁ、行こうか。じゃあ、またなアンジュ」
「はいはい。それじゃ私たちも行こうか、ふたりとも」
「「はーい」」
アンジュがベティとプロキオンに声を掛ける。ふたりの元気のいい返事を聞きながら、俺とアンジュはその場で分かれて、それぞれの行動を始めるのだった。




