rev4-81 君に溺れて
日がすっかりと沈んでいた。
少し前までは夕暮れだったのに、すでに空には太陽の姿はない。
代わりに空にあるのは、無数の星々と月。今宵の月は半分よりも少し欠けているが、いつも変わりなく星々と月は夜空を彩っている。
無数の星々と月の光が夜空を彩る様は、いつ見ても美しい。星々と月の光が煌めく様は、それこそまるで空からこぼれ落ちた涙のようだった。
特に月の光が、今宵は不思議と銀色に見えるからか、余計に銀色の涙が空からこぼれ落ちているように感じられた。それは星々の光も同じで、こちらは金色の涙のように見えた。金と銀の瞳からこぼれ落ちる涙。そんな光景はどこか神聖ささえ感じさせるものだった。
そんな夜空を俺はぼんやりと眺めていた。
「巨獣殿」の一室。
そこに篭もりながら、俺はひとりベッドに腰掛けていた。
ベッドに腰掛けながら、窓の外に広がる光景をぼんやりと眺めている。
背後から聞こえてくる静かな寝息をBGMにして、星空を鑑賞する。
片手に、まだ残っていた乳酒を注いだグラスを握りながら。
普段酒を飲むことはあまりない。
日本で言えば、まだ高校生の身分であるのだから、飲酒が常習化しているのは問題だから、普段は飲酒はしないことにしていた。
でも、今日はなんとなく飲みたくなってしまった。
それもワインとかシャンパンみたいなものではなく、酒精が低いもの。それこそ子供でも飲めるようなものがいいと思った。
思いついたのが乳酒だった。
コサージュ村に常駐していた頃、自分用に買っておいたものの内の最後のひとつだ。
いくつか買っておいたのだけど、首都アルトリウスに行くまでの道中や夜眠れないとき、またはベティやプロキオンにねだられたときなどに飲んでいたら、気付いたら最後の一瓶になってしまっていた。
その最後のひとつの封を切ると、懐かしい甘い香りが漂ってきた。
甘い香りを楽しみながら、窓の外に広がる星々と月の光によるコントラストから織りなす、一種の幻想的とも言える光景を味わっていた。
「……ん」
不意に背中側で身じろぎする音が聞こえた。
顔だけで振り返ると、アンジュがちょうど起き上がったところだった。
普段身を包んでいるギルドの制服は、ベッドサイドのテーブルの上に畳まれて、いま彼女の身を包むのは一枚のシーツだけ。
そのシーツでは隠しきれない、白雪の肌にはいくつもの紅い痕が刻み込まれていた。特に首筋や胸元には多く残っている。……いくらかは制服を緩めずに着ても、若干見えてしまいそうではあるけれど。
「起こしたか?」
「……ううん、気にしないで」
「なら、いいけど」
「うん」
アンジュが笑っている。
でも、いくらかその顔には赤みが残っていた。
よく見れば、顔だけじゃない。
シーツの下からわずかに見える肌もまだ紅潮している。
白い雪のような肌が、ゆっくりと紅く染まっていく様は、いま思い出してもきれいだった。
俺を見上げる瞳は、涙に濡れていた。紅い瞳から零れ落ちた涙は、夜空からこぼれ落ちる涙よりもはるかに美しかった。
それだけじゃない。
上擦った声や、艶やかな吐息も。
なにからなにまで、アンジュは美しかった。
こんなにも美しい人が実在するなんて。
アンジュを抱きながら、俺は常にそう思っていた。
そんな美しい女性が、俺の妻になる。
そう考えたら、自分を抑えることはできなかった。
気付いたときには、アンジュは息も絶え絶えになりながら、陶酔した瞳で俺を見上げていた。
彼女が横たわっていたベッドには、純潔を失った証である鮮血で、一部が染まっていた。
真っ白なシーツという海を一点の赤が染める。
その様子にさえ、俺は目を奪われてしまっていた。
シーツを染める鮮血でさえも、美しいとさえ感じてしまうほどに俺はアンジュに夢中になっていた。
だが、それはそれで頑張らせすぎたなと申し訳なくなった。
まるで女性を抱くのが初めてだったみたいに、あまりにも夢中になりすぎてしまった。
ごめんなと謝りながら、アンジュの隣に横たわろうと、これで終わりだと暗に伝えたところ、アンジュは俺の背に腕を回してくれた。
あまりにいきなりのことで、「え?」と呟くと、アンジュは陶酔した瞳で俺を見つめながら、「……やだ」とだけ言った。
まるでベティやプロキオンが言いそうな言葉を、陶酔したアンジュが口にした。その一言にはとてつもない衝撃と破壊力があった。
それでもどうにか自分を奮い立たせ、目一杯の理性で堪えようとした。
だが、アンジュはそんな俺の理性を嘲笑うように、体を震わせながら俺を抱き寄せると、耳元で──。
「……きて」
──そんな一言を告げた。
その瞬間、理性は崩壊した。
アンジュの唇を奪い、肉食獣が獲物を貪るように、彼女の体に、いや、彼女に溺れた。
正直なことを言えば、体つきに関してはいままで関係を持った女性の中で、アンジュは一番スレンダーだった。
だけど、それさえも気にならないというか、笑い飛ばしてしまうほどの色気がアンジュにはあった。
その色気に俺は完全にやられてしまった。
やめようとしたときは、まだ空には薄らと夕日の名残があったというのに、いまやその名残はなく、夜の闇が世界を覆っていた。
ベティはもちろんだが、他の皆もとっくに眠ってしまっているだろう。
それくらいに夢中になった。
夢中になってアンジュを求めた。
でも、その分だけアンジュには無理をさせてしまった。
いくら、彼女自身がねだったとはいえ、それでも無理をさせすぎてしまったことは、最後の回の途中でほぼ意識を飛ばしていた時点で明らかだった。
その前あたりからは呂律もまともに回っていなかったし、俺の背中に回していた腕にはほぼ力が入っていなかった。
それでもアンジュは「もっと」とねだった。
しかも、やめようとするたびにねだるものだから、その度に俺の理性は吹っ飛んだ。
我ながら、理性が薄いなぁと思いはしたけど、そんなことを考える余裕をなくすほどに、ベッドの上のアンジュは淫らだった。
その名残がいまのアンジュは纏っている。
生唾を飲みそうになるのを、グラスの中の乳酒を半分以上飲み干すことでごまかす。
体の芯に細い線のように走る熱を感じながら、行為中とは種類の異なる熱い吐息を吐き出すと、アンジュはシーツを纏いながら、俺の隣に腰掛けると、そっと俺の肩に頭を乗せた。
「……とても気持ちよかった、です」
ぽつりとアンジュが言う。言いながら、俺の腕を抱きしめてくれた。
「……俺もよかったよ」
「……そう、よかった」
嬉しそうに笑うアンジュ。
その笑顔は子供っぽく見えるのに、やけに艶やかだった。
酒精とは異なる熱が体の内を焼き始めるのを感じながら、一線を超えたことで口調がいままでよりも砕けたアンジュの言葉が心地よく聞こえた。
「……それ、乳酒?」
「あ、うん。コサージュ村で買った、最後のひとつだよ」
「……飲みたい、な」
「あぁ、ちょっと待っていて」
アイテムボックスにはグラスがまだ残っている。それを取りだそうとしたが、アンジュの手がそれよりも早く俺の手にあるグラスに伸びた。
アンジュは俺が口を付けた部分と同じ箇所に口を付けて、乳酒をゆっくりと呷った。真っ白な喉に咲く紅い痕に、一瞬で目を奪われてしまった。
「……ん。美味しい」
唇を紅い舌を覗かせながら舐め取り、アンジュは笑う。
次の瞬間にグラスが床を転がる音とともに、アンジュのくぐもった声が聞こえた。
真っ白なシーツの上で、銀糸の髪が広がった。
雪の中で咲く銀色の花のようだった。
その花を俺は夢中で求め、愛でていく。
くぐもった声と軽やかな水音が、部屋の中でこだましていった。
「……悪いけど、もう少しだけいいか?」
目の前が真っ黒になりかけるほどに呼吸を忘れて求めた後、お互いの肩を上気しながら、続きをねだった。
アンジュは「……うん」とだけ頷いてくれた。
それ以上の言葉はいらなかった。
ベッドが軋む音とともに、アンジュの上擦った声が響く。
その声に理性を蝕まれながら、俺はアンジュを求めた。
今夜眠ることが出来るだろうか?
ふと脳裏に浮かんだ問いかけ。
その問いかけに、これから答え合わせをしようと、自分に言い聞かせながら俺はアンジュに溺れていった。
仲良し後のはずだったのに、また仲良しが始まってしまった。……あれ?←汗




