rev4-80 心からの想いを君に
日が落ちようとしていた。
「巨獣殿」は「巨獣山」という巨峰の頂上にある。
麓からはどんな角度から見上げても頂上は見えない。それほどまでに標高のある「巨獣山」を以てしても、落陽するときは地平線の彼方へと沈むようにしか見えない。
どれほど高い場所にいようとも、それ以上に高い場所に太陽はある。太陽ほどではなくても、空もまた同じように高い場所に存在し続けている。
そんな太陽と空が織りなす、一日の最後のコントラスト。
そのコントラストを俺はぼんやりと眺めながら、人を待ち続けていた。
俺が今いるのは「巨獣殿」の中庭──日本庭園のような造りの中庭にある、休憩スペース。以前からことあるごとに使わせてもらっている一画だった。
その一画で俺は人を待っていた。
アスラン、いや、サラさんには予めベティを通して断りを入れておいた。その返答をわざわざベティは伝えに来てくれた。
その内容は、「御心のままに」という短い一言だった。
簡素すぎる内容ではあったけど、その一言だけでサラさんの気持ちはなんとなく理解できた。
同時に、彼女をいまだに蔑ろにし続けていることに申し訳なさが募った。
かつての俺は、彼女を愛していた。
他の皆と同じように愛していた。
その気持ちはいまでも思い出せる。
この胸の内にまだ宿ってもいる。
だけど、その気持ちと相対する前に、俺ははっきりと答えを口にしなければならない。
すでに答えは出せている。
あとは、それを口にするだけ。
でも、その答えはルクレを傷付けるものだった。
もともとルクレとの関係は、ルクレから仕掛けた策によるもの。
俺自身がルクレに惹かれたからのものじゃなかった。
それでも、体を重ねることで、少しずつ彼女に惹かれてはいた。
だけど、それは逆に言えば、彼女の体に惹かれたということ。体から始まった関係と言えることだった。
不誠実と言えばそうだろう。
俺のしていることは、かつての俺が忌み嫌ったこと。
女を取っ替え引っ替えしているだけ。
かつての俺はハーレム系の主人公というものがあまり好きじゃなかった。
作品によって、様々な事情やどうしようもない状況からハーレムを形成して、日々を過ごす主人公がどうしても好きになれなかった。
でも、改めて理解できた。
彼らは結して不誠実だったわけじゃない、と。
もちろん、中には不誠実な人もいたかもしれない。
でも、みんながみんなそうだったわけじゃない。
彼らなりの筋を通そうとした結果が、ハーレムという形に落ち着いただけなんだと、いまなら思える。
俺はこの世界で二度にわたって、ハーレムという形を作ってしまった。
1度目の反省を活かすことなく、自身の感情のままに突っ走った結果だった。
それをいま壊そう。
もう二度と過ちを犯さないように。
自分をもう二度と偽らないために。
「レンさん、どこですか?」
不意に声が聞こえてきた。
待ち続けた人の声が。
「ここだよ」
庭園の入り口からは、俺がいる休憩スペースは見えない。
座っていたらなおさら見えないが、腕を上げて、声を出せばどこにいるのかは伝わる。
実際、座りながら彼女に、アンジュに向かって手を振ると、アンジュは「そちらでしたか」とわずかに声を上擦らせながら近寄ってくる。
その足音を聞きながら、いままで感じなかった胸の高鳴りが聞こえてきた。
落ち着け。落ち着けと自分に言い聞かせながら、その足音を聞いていた。
ほどなくして足音は止まる。
顔をあげると、アンジュは驚いた顔をして、俺を見つめていた。
「レンさん、お顔を」
「……あぁ。これからは素顔を晒すことにしたんだ」
「……いいんですか?」
「あぁ。どのみち、いつかは素顔を晒すことになると思っていたからね」
話しながら、喉が乾くのがわかった。
予め用意していたものを、アリシア陛下から分けてもらった花茶を、マッティオラの花茶を、ちょうどいい具合に蒸された花茶を茶器に注いでいく。
「アンジュ、そっちに座ってくれ」
「あ、はい」
アンジュが座る席に、俺の対面側の席に花茶を差し出す。次に俺が呑む分を淹れて、ゆっくりと口の中に含んでいく。
花の香りが口の中に広がる。
以前とは香りが異なるように感じた。
以前はただ花の香りとまろやかな味を楽しめたのに、今回は少しだけ酸味を感じた。淹れ方を間違えたのかもしれない。それとも、別の要因によるものなのか。
アリシア陛下はなにも仰らなかったけれど、俺はこの花茶を通してファフェイ殿の想いを理解していた。いや、理解してしまっていた。
この世界にも花言葉というものがある。
そしてこの世界におけるマッティオラの花言葉。それは「永遠の美」だった。
マッティオラの花茶は、ファフェイ殿が毎年最上のものをアリシア陛下に献上していた。その献上品の花茶に、マッティオラを、「永遠の美」という意味を擁する花茶を選ぶ理由。思いつく答えはひとつだけだった。
つまりは、この花茶にはファフェイ殿の想いが、アリシア陛下へと向ける本心が込められている。
決して叶うことはなくても、その胸の内を焦がし続けた想いが込められている。その想いがもしかしたら俺に宿っているのかもしれない。
「あなたは間違うな」と。「その想いを成就しろ」と。
いまは亡きファフェイ殿が語りかけてくれているのかもしれない。
そんなおセンチなことを考えながら、対面側に座るアンジュを見つめて、それを口にした。
「……アンジュ」
「なんです?」
花茶を静かに啜ってからアンジュは首を傾げる。その仕草にプロキオンやベティと通じるものを感じた。それもふたりへと向けるものよりも、大きな想いを抱いた。
「ルクレとは別れることにした」
そしてその想いを抱きながら、はっきりと答えを口にした。
アンジュは始め、なにを言われたのか理解できなかったみたいで、「え?」と何度も目を瞬かせた。
でも、すぐにその言葉を飲み込み、彼女は震えながら口を開いた。
「……いま、なんて?」
口元を手で覆いながら、いまにも泣きそうな顔をするアンジュ。
……俺がいまこの世界で一番愛する人だった。
「……ルクレとの関係を終わらせる」
素顔を晒しながら、俺は本心を口にする。
周囲には誰もいない。
見えるのは、こちらを見下ろすような巨木とその脇に控えるような池くらい。
見事な造りをしている「巨獣殿」の中庭は、いつものようにそこにある。
このすべてをベヒモス様は単独で造りあげたというのだから、脱帽するしかない。
そんな庭園は、いま鮮やかな夕日によって彩られていた。
空高く昇った太陽が、徐々に地平線の彼方へと沈もうとしている。
淡いオレンジ色に染まった世界で、俺は本当の自分を晒している。
そして、本当の想いを口にしている。
「……どういうこと、ですか?」
アンジュは驚きのあまりに目を見開いていた。
そんな彼女に向かって腕を伸ばし、その頬を撫でた。
アンジュは呆然とした様子だったが、俺の手を受け入れてくれていた。くすぐったそうではあったけど、それ以上に心地よさそうに目を細めながら。その瞳は相変わらず涙に濡れていた。
その涙がどういうものなのかは俺にはわからない。
悲しみによるものなのか、それとも歓喜ゆえのものなのか。
わからなかった。
わからないまま、俺は身を乗り出し、彼女との距離をゼロにした。
軽やかな音が響く。
響くほど大きな音ではないはずなのに、俺の体はそれをとても大きな音として認識していた。
アンジュは身を固くしていたが、それさえも愛おしかった。
「……アンジュ。俺と一緒になってくれないか」
「……でも、レンさんは」
「ルクレとは別れる。……もともと、責任を負うためのものだったからね。気持ちはそもそもなかったんだ」
嘘だった。
本心を語りながら、嘘を吐いていた。
たしかに始まりは体からの関係だった。
それでも、少しずつ、ルクレへの想いは胸の内で育んでいた。
でも、育まれる想いよりも、アンジュへの想いがより重く、そして大きかったというだけのこと。その想いから目を背けることができなくなった。
最低だとは思う。
最低であっても、俺はもう自分を偽ることはできなかった。
目を背け続けることはできなかった。
「ですが、それだとベティが」
「……ベティとは話が済んでいる」
「え?」
「ベティは「おかーさんをおかーさんとよびつづけられるなら」って言ってくれた。……あんなに幼い子にそこまで言わせてしまったんだ。もう引っ込みはつかない」
「そんな言い方は」
「……あぁ、わかっている。わかっているよ。これじゃベティをダシにしているみたいだって。でも、ここまで俺を尊重してくれるあの子を、これ以上俺は悲しませたくない。そしてなによりも俺はもう自分の気持ちを抑えきれない」
アンジュをじっと見つめると、アンジュは恥ずかしそうに顔を逸らそうとする。それを防ぐように俺はまた彼女との距離をなくした。
アンジュは目を見開きながら、涙を零した。
紅い瞳からこぼれ落ちた涙は、紅玉から生じた滴のようだった。
その涙を親指の腹でそっと拭ってから、再び口にした。
「……アンジュ。俺の妻になってほしい。俺と一緒にこれからの日々を過ごしてほしい。そして、本当の意味で、プロキオンとベティのママになってほしい。俺は、君と一緒にあの子たちを育てていきたい」
立ち上がり、俺は彼女を抱きしめた。アンジュは息を大きく吸い込んでいく。その音を聞きながら、彼女を腕の中に閉じ込めていく。
「レン、さん」
「……君がどうしても俺と一緒になれないと言うのであれば、俺を拒絶してくれ。俺の体を押すだけでいい。それで俺は納得する」
囁くように耳元で語りかけると、アンジュは先ほどとは異なり、小さく息を呑んだ。そして──。
「……レンさんは、ずるいです」
「……そう、だろうね」
「私があなたを拒めるはずがないことを知っているのに」
「……あぁ」
「それでも、私に委ねるんですか?」
「……ごめん。本当にごめんな」
「……謝られても、嬉しくないです」
「そうだよね」
「ええ。そうです。嬉しくないです。嬉しくなんかない。嬉しくなんかないはずなのに、どうしてでしょうね。どうして、こんなにも涙が出るんでしょう。私は2番目でもよかったんです。時折、情をいただけたらそれでよかったのに」
「……あぁ、知っている。君はそういう女性だってことを、コサージュ村の日々で、あの情念さえも凍らせる冬の日々の中で知ったよ」
「……なにを知った口を叩いているんですか。せいぜい半年くらいの日々しかすごしていないくせに。例年はもっと寒いんですよ? レンさんの知っている日々は、まだ過ごしやすい方です」
「そうなんだ。初めて知ったよ」
「ええ。あんなの序の口です。……だから、これからは私が教えます。……あなたの一番そばで。あなたを誰よりも支えながら教えていきます」
「……それを答えとしていいの?」
「……これ以上は言わせないで」
素っ気ない言い方だった。
でも、その言葉には万感の想いが込められていることを言われずとも理解できた。
そっと体を離して見つめ合った。
それはほんのわずかな時間だった。
気付いたときには、俺と彼女の距離はなくなっていた。
込みあがる想いに突き動かされ、俺は彼女を求めた。
腕の中に閉じ込めながら、息継ぎさえ忘れるほどに求めた。
お互いの肩が上気するほどに求め、それから再び離れる。
アンジュの目は涙に濡れていた。
とてもきれいで、目を一瞬で奪われた。
くぐもった声が、アンジュの声にならない声が漏れ出す。
その声を聞きながら、彼女を抱きかかえた。
体勢的にちょっと無理があったから、また距離を離すと、彼女の頬は真っ赤に染まっていた。真っ赤に染まっていたけれど、その目は緊張と期待が入り混じっていた。
「……いいよね?」
「……はい」
あえてなにをとは言わなかった。
でも、言葉にしなくても想いは通じ合っていた。
「行こうか、アンジュ」
「はい──」
「あなた」とアンジュが呟いた。
その声に頷きながら、アンジュを抱きかかえたまま、庭園を後にするのだった。
私個人のサイトだったら、次回は仲良しな時間確定だけど←マテ
次回は仲良し後です←ヲイ
 




