rev4-74 かつてのひとときを
それはあまりにも突然すぎる命だった。
「──大掃除、ですか?」
「あぁ。いまは人手もおるからのぅ。神子様方も手伝ってくださるそうじゃ。一宿一飯の恩義と仰っておった」
花の乱と呼ばれる叛乱が終わって、もうじき半月が経とうとしていた。
すでに季節は真夏。
国を縦断する大河を抱えるベヒリアは、真夏はひどく蒸し暑くなる。
去年も経験したが、ことあるごとに水を飲まずにはいられなかった。
それほどまでにベヒリアの夏はひどく蒸し暑い。
狼の王国も暑い国ではあったけれど、狼の王国の暑さとベヒリアの暑さは完全に別物だった。
狼の王国は日差しがことさら強烈で、ローブを身につけなければ、肌が火傷してしまうほどだったが、きちんと日差しから身を守り、きちんと水を飲めば生活することはそこまで難しくはない。まぁ、油断をすればあっさりと死にかねないけれど。
だが、ベヒリアはそんな厚着などすれば、自殺行為としか言いようがない。
日差しは狼の王国に比べればいくらかましだけど、大河を擁するからなのか、それとも大河の周囲に樹海とも言うべき、深い森が広がっている影響なのか、湿気が異常なほどに高い。それでいて日差しもしっかりと強い。
日差しだけなら、日差しから身を守る服装を身につければいい。だが、そこに湿気も加わると話は変わる。肌を日差しから守れても、湿気によって服の内側から蒸されてしまう。
そうなると、日差しと湿気の両面から攻撃を受けているようなもので、厚着なんてしていたらすぐさま倒れかねない。
そうならないように、ベヒリアでは夏場は薄着で過ごすことになる。それも通気性を意識した服装だ。でないと日差しと湿気によって体調をあっさりと崩すことになる。
逆に汗を搔くことで体温の調節をするという目的で、蒸し風呂が真夏には好まれやすい。それも豊富な水が大河によって国中を行き渡っているからこそできること。まぁ、いまは関係ないけれど。
そんな真夏を私は去年過ごしていた。
真夏でも仮面をつけてすごす私を見て、アリシア陛下は奇妙なものを見るような目を向けてくれたものだった。
それまでの私であれば、きっと意味もなく反応していたことだろうと思う。
でも、そのときの私はもういまの私になっていた。
だから、どんな視線を向けられても思うことはなにもなかった。
あえて言えば、ベヒリアの夏は過ごすのは大変だということくらい。
そんな夏が再び訪れた。そんな矢先のことだった。
主たるベヒモス様から呼び出しを受けたのは。
普段なら念話で用事を伝えられることが多いのに、今日に限っては念話で「玉座に来て欲しい」とだけ言われた。
念話ではなく、わざわざ口頭で用事を伝えられるのは珍しいなと思いながらも、ベヒモス様の元へと向かい、言われたのが「大掃除をしようと思う」という言葉だった。
それも旦那様たちも手伝ってくれるというもの。
正直、反応に困ってしまった。
掃除をすること自体は別に問題じゃない。
いつもできる範囲で掃除は行っている。
それでも隅々まで行えているわけではないので、掃除が行き届いていないところは多く存在している。
客間等はいつアリシア陛下がお越しになるかわからないため、定期的には掃除はしているが、それ以外の場所は職務の間で、できる限り行っているが、やはり人手があまりにも足りなさすぎるというのが現状だった。
とはいえ、無い物ねだりをしたところでなんの意味もない。
可能な範囲内での掃除を行ってきた。
ベヒモス様も時折人の姿になっては掃除の手伝いをしてくださっていた。
本来なら掃除は私の仕事なのに、その仕事を主に手伝っていただくというのは、忸怩たるものがあったけれど、ベヒモス様曰く「運動不足の解消にはちょうどいい」と仰って手伝ってくださっていた。
それでも私とベヒモス様だけでは、管理が行き届かないくらいには「巨獣殿」は広大な社だった。
その社の大掃除を旦那様たちが手伝ってくれる。
管理する側としては、大変ありがたい申し出ではある。
ただ、相手が相手なので、どう反応するべきなのかがわからなかった。
ベヒモス様も私の困惑を感じ取られているようだった。
長いあごひげを撫でられながら、「不満か?」と尋ねられた。
私は慌てて首を振った。
「そんなことは」
「しかし、どうにも乗り気ではないようだからのぅ?」
「……それは」
「ふむ。かつてのご亭主である神子様と顔を合わせづらいというところか? それとも、いまのそなたと昔のそなたでは、別人だとまだ思っているのか?」
続く言葉を失ってしまった。
返事をするべきなのに、私はなにも言えなくなった。
それはベヒモス様から常々言われていることだった。
曰く、「たとえほぼ生まれ変わったようなものであったとしても、そなたはそなたである」と。決して別人になったわけではないのだと。
だけど、私にとっては、いまの私と昔の私は完全に別人だった。もっと言えば、昔の私はいまの私にとっては前世のようなもの。
そして旦那様はそのときに愛した人。つまりは前世における最愛の人であり、いまの私にとってはなんの関係もない人でしかないはずだった。
だけど、あの人を見ただけで私の胸は高鳴ってしまう。
過ごした日々を思い出してしまう。
失ったはずの想いがあふれ出てしまいそうになる。
だから、旦那様とはあまり接したくない。
花の乱からずっとことあるごとにお茶会の誘いを受けているけれど、そのすべてを私は断っていた。
でも、ここ数日はお茶会の誘いがなくなったので、ようやく諦めてくれたのかなと思っていたが、どうやらすべてはこの大掃除のための布石だったようだ。
しかもお茶会とは違い、断る理由が、いや断るための理由がない。
お茶会はそれこそ仕事を理由で断ることはたやすい。お茶会は基本的に隙間時間に行うものであり、その隙間時間をなくしてしまえば参加なんてできるはずがない。
けれど、この大掃除はそういうわけにはいかない。
なにせ、これは仕事の一環だった。
私の仕事はベヒモス様の身の回りのお世話とこの「巨獣殿」の管理。
掃除はその管理の形態のひとつ。
しかも「巨獣殿」は、私ひとりでは手が回らないほどに広大な社であるから、隅々まで掃除をするというのがなかなかできずにいる。
その掃除を旦那様ご一行が手伝ってくれるというのだから、断る理由がない。
立ち入り禁止の区画はあるけれど、ベヒモス様のご寝所と地下書庫のふたつであり、ご寝所はともかく地下書庫はプロキオンちゃんを始めとして、立ち入り許可がベヒモス様から降されているため、立ち入り禁止の区画があるからという理由は口にできない。
むしろ、普段手が行き届かない場所まで掃除ができるまたとない機会。管理を任されている身としては、まさに絶好の機会であり、逃す手はない。
だからこそ、旦那様たちの申し出であろう大掃除の手伝いを断る理由がない。
あったとしても、せいぜいが立ち入り禁止の区画があるからという程度。でも、先述の通り、すでにベヒモス様から立ち入りの許可が下りているどころか、中の蔵書を持ち出す許可さえも出ている現状で、そのことを理由にするのは無理だった。
つまるところ、すでに私は詰まされていた。
いったい誰の入れ知恵だろうか。
考えられるとすれば、アンジュさんかプロキオンちゃんか、もしくはティアリカさんの可能性もある。
誰が発案者なのかはわからないけれど、少なくとも私にとってはあまり嬉しくない策を弄してくれたものだ。
「で、どうする? 我としては受けてもらうべきだと思うがのぅ?」
「……そうですね」
どうしたものか。
頭を悩ませていると、玉座の間の扉がいきなり勢いよく開いた。
見れば、エプロンと三角巾を身につけたベティちゃんとその後を追い掛けるプロキオンちゃんがこちらに駆け寄ってくるところだった。
特にベティちゃんは「ばぅ」と鳴きながら、ぴょんと飛び跳ねて私に抱きつくと──。
「おそーじまだなの? アスランまま」
──にこやかにそう笑いかけてくれた。
花の乱が終わってからというもの、ベティちゃんは私のことを「アスランまま」と呼ぶようになっていた。
旦那様と関係を再び持ったわけじゃない。
でも、プロキオンちゃんが私を「ママ」と呼ぶようになったため、ベティちゃんもつられて「まま」と呼ぶようになってくれたというだけのこと。
ただそれだけのことだし、彼女たちを娘として見ているわけではないのだけど、「ママ」という呼び名が、一年ぶりの呼び名がとても心地よくて、気付いたらみずから仮面を外し、笑って頷いていた。
「そうですねぇ。じゃあ、お掃除しましょうか~」
「ばぅ! ベティ、頑張るの!」
元気よく頷くベティちゃんと「そう言ってお姉ちゃん任せにするんだから」と若干呆れ気味のプロキオンちゃん。その言葉にベティちゃんがぷっくりと頬を膨らました。その後は言うまでもなく言いあいが始まってしまった。
言いあいではあるけれど、それはとても好ましくかわいらしいもので、嫌悪さは一切感じられないもの。もっと言えば、じゃれ合っているようなものだった。とはいえ、じゃれ合いから本格的な喧嘩が勃発するというのもなくはないため、早々に喧嘩を終わらすべく行動に出ることにした。
「こらこら、喧嘩はダメですよぉ~? ママと一緒にお掃除しましょうねぇ~」
「……はーいなの、アスランまま」
「……ごめんなさい、ママ」
揃って肩を落としてしまうベティちゃんとプロキオンちゃん。喧嘩するけれど、仲のいい姉妹であることはその姿を見ていて明らかで、その姿を見ているとシリウスちゃんとカティちゃんのことを思い出して、つい当時の私に戻ってしまった。
「いいんですよぉ~。ですが、謝るのならママではなく、お互いにですよぉ~? ほら、仲直りしましょうねぇ~」
ふたりを交互に見やりながら仲直りを促すと、ふたりは「むぅ」と唸ったけれど、すぐに「ごめんね」と仲直りをしてくれた。
本当に仲がいいなぁと思いながら、ふたりの頭を揃って撫でてあげると、ふたりは揃って笑顔を浮かべてくれた。シリウスちゃんとカティちゃんとは違う。でも、同じくらいに愛らしい笑み。その笑みに私もつられて笑っていた。
そんな私を見て、ベヒモス様は穏やかに笑っておられた。
でも、そのことにすぐには気づけず、私は愛娘たちを思わせる愛し子たちとともにしばらくの間穏やかに笑っていた。




