rev4-61 ある姉妹の話
とても静かだった。
誰もが息を呑み、誰もが言葉を失っている。
麓では、いまだ戦の真っ最中であるというのに、この場はとても静かになってしまっていた。
肌の色が変わったティアリカさんも、両陛下方も、ルリさんにイリアさん、そして旦那様とアンジュさん、それにプロキオンちゃんもまた。
誰もが言葉を失っている。
それほどまでに、いまの私の素顔は想定外のものだったのでしょう。
無理もないと自分でも思う。
舞い上がった埃が立ちこめる中、私とベヒモス様だけが他の皆さんとは違って、息を呑むこともなく、言葉を失いもしていない。
ただ、私とベヒモス様では様相がまるで違う。
ベヒモス様はただ痛ましい顔をされていた。
ご自分の力のなさを恨んでいるような、そんなお顔だった。
ベヒモス様が悪いわけではない。
むしろ、ベヒモス様は私を助け、姉様の願いを聞き届けてくださった。
だから、ベヒモス様が悪いことはなにひとつとてない。
悪いのは、すべて私だ。
半端に生き残ってしまった私が、半身を死の縁へと踏み込みながら、もう半身を生に留まろうという馬鹿げたことをしていた私が悪いのだから。
それにしても、本当になんてことだ。
どうしてこうなってしまったのか。
運命の悪戯にはほどほど参ってしまう。
どうして、こうも意地が悪いのだろうか。
旦那様たちには、早めにこの国を去って欲しかった。
いまの私とかつての私が同一であることを知られる前に、この国から立ち去って欲しかったのに。
一度狂ってしまった歯車は、そう簡単には元に戻らない。
今回ほどそれを痛感させられたことはない。
いや、狂ったのはいまの私になってからか。
かつての私から、いまの私になってしまったことで、歯車は狂い続けている。
狂いに狂っていた。
だから、今回のこともその狂いによるもの。
その狂いの犠牲に姉様はなってしまった。
左手で、元々の左手で右側の顔を撫でる。
私とは違う顔。
そっくりではあるけれど、一目で別人とわかるほどの差異のある顔──姉様のお顔を撫でる。
だけど、どれほど撫でようと、姉様が私にお声を掛けてくださることはない。
姉様はもういない。
ここにいるけれど、もういない。
姉様は私なんかを助けるために、ご自分のすべてを捨てられてしまったのだから。
あれは、もう半年以上も前のこと。
あの日、邪神相手に各竜王のみが使える奥義を放ち、その後地割れに呑み込まれ、何の因果かこの国に流れついたときのこと。
そのときの私はベヒモス様であっても、助けることのできないほどの重傷だった。
それこそ、いまにも息が止まってもおかしくないほどに。
それでも、一通りの延命処置をベヒモス様は行ってくださったけれど、その甲斐もなく、私の命は尽きようとしていた。
そんなとき、私とベヒモス様の元に姉様もまた流れ着いた。
今生の別れを告げたはずの姉様と、これまた何の因果なのか再び巡り会えた。
最後の最後に姉様と言葉を交わせたこと。
運命というものに対して、私は心の底から感謝をしていた。あくまでも、そのときまでは。
でも、運命はすぐにその意地の悪さを発揮してくれた。
『そなたたち、姉妹であるのか?』
ベヒモス様は私と姉様を交互に見やりながら驚いた顔をされていた。
姉様はベヒモス様以上に驚いていた。
『べ、ベヒモス様!? お久しゅうございます!』
ベヒモス様とお顔を合わせて、姉様はすぐにその場にひれ伏した。
が、ベヒモス様は「どこかで会ったことがあったかの?」と首を傾げられていた。そんなベヒモス様に姉様は苦笑いされていた。
『はい。私が幼少の頃に一度だけ。ゆえに私のことを憶えておられなくても無理もないかと。当時の私は主の頭の上に乗れるほどに小さな竜でありましたゆえ』
『頭の上に乗れるほどの幼き竜? ……もしや、そなたエレンの?』
『はい。かつての英雄エレン。その従者であった竜でございます』
『おお、おお! 久しい、久しいのぅ。あのときの幼竜が、これほど立派な竜になったか。たしか、ゴンであったな?』
『はい。そのゴンでございます。改めまして、お久しゅうございます』
『そうか。そうかぁ。あのときのゴンが、これほどの竜に。エレンもアルカディアで喜んでおることであろう』
しみじみと感じ入る姉様とベヒモス様。そんなおふたりのやり取りを私は、ぼんやりと聞いていた。
英雄エレン。
姉様がかつて仕えたとされる人物にして、この世界において二人目の「英雄」へと至った存在。
話によれば、旦那様によく似ているけれど、中身は真逆の人ということだった。会ってみたいと思うことはあれど、もうとっくに亡くなられている人だった。
ただ、時折、姉様は旦那様を眩しそうに見つめられることがあり、そのときはおそらくかつての英雄と旦那様を重ねられているときなのだろうと思っていた。
『さて。ベヒモス様。ひとつお聞きしたいことが』
『うむ。この娘のことじゃな? そなたの妹であるのかの?』
『はい。我が妹サラであります』
『そうか。そなたはサラと申すのか。よき名であるな』
『……両親曰く、サラ様より、ご許可をいただいた、とのことで』
『ほう、あのサラ様から。……なるほどのぅ。神子様のお相手のひとりとして選ばれておられたのかもしれぬな』
『……え?』
『あぁ、いや、なんでもない。さて、となると、やはりそなたをみすみす死なせるわけにはいかぬ。が、どうしたものか』
ベヒモス様は手を翳されながら、困っておいでだった。そんなベヒモス様に姉様は疑問符を浮かべながら尋ねられた。
『状況がまるで読めないのですが、いったいどういうことで? サラは助かるのでしょうか?』
『……はっきりと言えば、いまのままではどうあっても助けることは無理じゃ』
『ベヒモス様のお力でも?』
『うむ。まだ六のや七の、ガルーダやリヴァイアサンのところに流れ着いたのであれば、処置はできたかもしれぬ。が、よりによって治療とはほど遠い我のところであるからのぅ』
『ベヒモス様のお力は、たしか、固定化でしたか?』
『うむ。我が力は万物を固定化させる。ゆえにサラの容態を現状で固定化させることで、どうにか命を繋ぎ止めている。つまりは現状維持が精一杯ということ。ガルーダやリヴァイアサンであれば、根本的な治療も可能であったのだが』
ベヒモス様はなぜか私に説明した生け贄については仰らなかった。姉様の雰囲気から、生け贄について言えば、どうするかなんて考えるまでもなかったからだろう。
それは私も同意見だった。
だから私もあえてなにも言わなかった。
なにも言わないまま、自分の終わりを受け入れようとしていた。
なのに、運命というものは、どこまでも意地が悪かった。
『……固定化。つまり、別の物同士を繋ぎ合わせることもできるということですよね?』
『……まぁ、そうであるな』
『もうひとつ。サラの容態はどういうものですか?』
『……右腕を喪失したことに加え、生命力が徹底的に落ちてしまっている。そのふたつを補うことができれば、どうにかなるかもしれぬ』
『……なるほど。そうであるのであれば』
『お待ち、ください、姉様。なにを、仰るおつもりですか?』
『知れたこと。この身をおまえに捧げるということよ。私の身を捧げれば、おまえの右腕は蘇るし、生命力も戻る。そうですよね、ベヒモス様』
『……相違ない。サラとそなたは姉妹であるから、他の者を犠牲にするよりもはるかに安定はするであろう。だが、それでは』
ベヒモス様は苦悩されていた。
無理もない。一度会っただけとはいえ、知人をその手に掛けるようなもの。それもその知人自らそれを願い出られてしまったのだから。その苦悩もその分だけ増えるというもの。姉様もそれはわかっていたはず。
それでも姉様は私を助けると決められてしまっていた。ベヒモス様もそのことを理解していた。だからこそ、苦悩はより一層増してしまっていた。
『構いませぬ。この身ひとつで愛する妹を助けられるのであれば、なにを迷うことがありましょうや』
『……そなたはそれでいいかもしれぬ。だがな、ゴンよ。そなたを犠牲にして助かったところで、サラがどう思うかは考えておるか?』
『ですが、他者を犠牲にするよりかはましでしょう』
『かもしれぬ。だが、そなたがサラを愛するように、サラもそなたを愛している。家族を喪う。それも自分が助かるために。その恐怖と重責をサラに背負わせるというのか?』
『……それでも。私はサラを助けたいのです。この子には幸せになってほしいのです。私は主を助けられなかったときから死んでいる。私は運命や宿命というものを嫌います。それは私から主を奪い取った言葉だからです。ですが、いまはその言葉に感謝しています』
『……サラを助けられるからか?』
『はい。過去に縛られた半死人の私よりも、いまを精一杯に生きるこの子こそが、助かってしかるべきだと思うのです。この子が生きる道しるべとなれるのであれば、それがいまのいままで私が生き延びてきた理由だと思うのです』
『後悔はないか?』
『もう数え切れないほどにしてきました。もし、この場でこの子を見殺しにすれば、より一層後悔に苛まされることでありましょう』
『……決心は固いようであるな』
『はい。どうか、この身を以て妹の存命を』
『……わかった。さらばだ、ゴン。最後に残ったエレンの忘れ形見よ』
ベヒモス様が姉様の頭上に手を掲げる。同時に姉様の体が光り輝いた。
手放しそうになる意識を無理矢理繋ぎ止めながら、私は叫んだ。
『……やめて。やめて。やめてよ、姉様!』
『……いいや、やめはせぬ。もう決めたことだ』
姉様は笑っていた。
穏やかに笑っていた。
その笑顔を前にして私は泣いていた。
子供の頃のように泣きじゃくりながら、私は必死に手を伸ばした。
だけど、姉様は穏やかに笑いながら、私の手をそっと掴んでくれた。
『……大きくなったな、サラ』
『え?』
『……風竜山脈に戻って、しばらくしておまえは産まれた。そのときのことはよく憶えている。失意の底にいた私に生きがいをおまえは与えてくれた。おまえがすくすくと育つ様を見るのが私の生きがいになったのだ。産まれたばかりのおまえの手はもっともっと小さかった。その小さかった手がすっかりと私と変わらなくなってしまった』
『まだ、姉様には遠く及びません』
『いや、そんなことはない。おまえならすぐに私などを超えられる。そして、私とは違い、おまえなら幸せを掴み取れる。そう、私は信じている』
姉様が笑う。いままでにないほどに優しい笑顔。
その笑顔に私は泣き崩れた。
『やだ。やだ。やだよ。姉様。死なないで』
『私は死ぬわけじゃない。おまえの中で生き続ける。だから、死ぬわけじゃないさ』
『だけど、だけど』
『……泣かないでおくれ、私のかわいい妹。笑顔で見送ってくれ』
『笑えるわけ、ない』
『そうだなぁ。それでも、最後の願いだ。姉として最後の願い。どうか聞き届けて欲しい』
姉様は私をじっと見つめていた。
その言葉に、その視線に私は負けてしまった。
抗うべきだったのに、抗えなかった。
私は無理矢理口角をあげた。
不細工で不格好な笑みだったと思う。
それでも、姉様は満足げに頷かれた。
『……うん。もう心残りはない。幸せにおなり、サラ。私のかわいい妹』
姉様がまぶたを閉じた。まぶたが閉じられると、すぐに姉様のお体がそれまで以上に光り輝いた。目が眩むほどの光の中で、姉様の体は崩れていき、その崩れた体が私の中に注ぎ込まれていった。
『生きろ、サラ。私の分まで生き続けろ』
姉様の声が聞こえた。
それが最後に聞いた姉様の肉声だった。
その声を最後に、私は意識を手放した。
その次に目覚めたとき、私はいまの私となった。
いまはまだ継ぎ接ぎのような形だけど、成長すればそれもなくなる。
いまだけは継ぎ接ぎのような存在。それがいまの私。
過去に縛られることもなく、いまをただ生きる竜族。
それがアスラン。ベヒモス様の世話役を仰せつかったアスランだった。
だからこそ、旦那様には知られたくなかった。
いまの私であることを知られたくなかった。
でも、もうそれもおしまい。
だから、私は──。
「さぁ、ティアリカさん。始めましょうか。ベヒモス様をお守りする。それがいまの私の役目ですから」
──隠すことなく、私自身をさらけ出そう。
もう私は別人であることを旦那様に理解して貰うために。
そのために私はいま戦うのだ。
過去と決別するためだけに。




