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rev4-58 人質

 針葉樹の葉が風で揺れていた。


 その葉の隙間から差し込む日の光が、少し眩しい。


 眩しい光を、地面に敷き詰められた小石たちは直に浴び、熱を帯びている。


 熱を持った小石は、ブーツ越しでも熱く感じられた。


 そんな熱とは無縁とばかりに、池には彩りのある魚が、気持ちよさそうに泳いでいた。


 池の中では頂点という存在であるがゆえの無防備さは、この場が平穏である象徴のようでした。


(……ここは変わらないな)


「巨獣殿」の庭園は、いつもとなんら変わらずに私たちを迎え入れてくれていた。


 普段腰掛ける休憩用の席から離れて、私はベティちゃんを抱っこしながら、池の近くにある針葉樹に背を預ける形で座っていた。


 ベティちゃんは私のお膝の上ですやすやと眠っている。


 少し前までの動転は嘘のよう。


 そう、私がいまここにいるのは、ベティちゃんが平常に戻すため。もっと言えば、動転したベティちゃんを落ちつかせるためでした。


 ベティちゃんが動転してしまったのは、実に簡単なことです。


 いくつもの命が喪われる瞬間を見てしまったから、です。


 もっと言えば、一族の死と重ねてしまったから、ですね。


 その結果、ベティちゃんは動転してしまい、震えながら号泣してしまったんです。


 ちょうど私の膝の上にいたから、どうにかベティちゃんを抱きしめてあやそうとしたんですが、そこにすかさずルクレティア陛下が来られて、「私がおかーさんですから」とベティちゃんを代わりにあやそうとされていたんです。


 でも、そんな陛下をベティちゃんは拒絶してしまったんです。


 とはいえ、ベティちゃんの意思だったわけじゃない。


 不幸な事故でした。


 気が動転したベティちゃんは、前後不覚に陥っていて、目の前にいるのが誰なのかも。手を差し伸べてくれているのが誰なのかもわからなくなってしまっていた。


 ベティちゃんは無我夢中になって、迫り来る恐怖から逃れようと、迫る恐怖を追い払おうとして、その小さな指に不釣り合いな爪を伸ばして、攻撃してしまったんです。他ならぬ「おかーさん」であるルクレティア陛下を、です。


 攻撃といっても、ベティちゃんがしたのは、ルクレティア陛下の腕を引っ掻いたと言う程度。子供が引っ掻いたくらいなら、よほどのことではない限り、そこまでのダメージにはなりません。


 ですが、相手はベティちゃんです。獣人の子供のように見えるけれど、実態は魔物であるベティちゃんです。ただ引っ掻いただけでも、爪を伸ばした引っ掻くだけでも十分すぎるほどの殺傷力はあるんです。


 その一撃をルクレティア陛下は無防備に受けてしまった。


 ルクレティア陛下の手の甲には深い爪痕が文字通り刻み込まれてしまったんです。


 傷ついた手の甲を押さえながら、ルクレティア陛下は呆然となっていました。抑え込まれている手の甲からは、止めどなく血が溢れていた。


 だけど、ルクレティア陛下は手を押さえながら、「ベティ、ちゃん?」と呆然となってベティちゃんを呼んでいました。


 なにが起きたのか理解できないとその顔にはありありと書かれていた。


 そんなルクレティア陛下をアリシア陛下やイリアさんが介抱されていました。そしてルリさんとベヒモス様は私にベティちゃんを落ちつかせるようにと言われ、私はすぐさま作戦本部を後にして、「巨獣殿」で一番静かであろう庭園に来たわけです。


 庭園に来た当初は、ベティちゃんの動揺は収まっていなかった。むしろ、ルクレティア陛下を傷付けたことを理解しているからなのか、より一層暴れていたんです。


 きれいな紅い目からは光が消えていて、いつものかわいい声は鳴りを潜め、唸り声だけをあげていたんです。


 そんなベティちゃんを私は作戦本部から離れてすぐに抱きしめました。


 抱きしめてあげると、ベティちゃんは暴れることができなくなりましたが、代わりに私の右肩に思いっきり噛みついてくれましたけど。


 抱きしめた体勢がよかったなぁといまでは思います。


 なにせ、ベティちゃんったら一切の手加減なく噛みついてくれましたからね。


 もしあれが肩じゃなく、首筋だったらと思うと、冷たい汗が流れますよ。

 

 もし首筋に噛みつかれていたら、私はたぶん死んでいたでしょうね。


 それに比べれば右肩に噛みつかれたくらいは、大したことじゃないです。


 もっとも、全力で噛みつかれた影響でしょうか。肩が動きませんけどね。


 たぶん、肩の骨の一部が噛み砕かれちゃっていますね。当分腕を動かすことはできそうにないと思います。


 それでもベティちゃんを落ちつかせるまで、私は必死にベティちゃんを抱きしめていました。


 もっとも抱きしめたところで、正気を失っていたベティちゃんをそれだけで落ちつかせることはできないわけですが。


 じゃあ、どうしたのかと言うと、「初源の歌」を口ずさんだんです。


 どうして「初源の歌」を口ずさんだのかはわかりません。


 ですが、気付いたときには歌っていたんです。


 すぐに効果は現れませんでしたが、しばらくすると、ベティちゃんの唸り声が聞こえなくなったんです。肩に噛みついていた牙から力が抜けていくのがはっきりとわかり、そして──。


「……ごめん、なさい。アンジュ、おねーちゃん」


 消え入るような声でベティちゃんは謝ってくれました。見れば、ベティちゃんは口元を真っ赤にしながら泣いていました。


「……なんで謝るの? あなたが悪いわけじゃないでしょう?」


 私はそう言ってベティちゃんの口元を拭ってあげました。


 ベティちゃんの口元が真っ赤に染まっているのは、あまりにも似合わないからです。ベティちゃんにはお菓子の屑やクリームの一部の方が似合っているんですから。だから、不似合いなものはさっさとなくしてしまいたかった。


 そうして拭っている間も、ベティちゃんはしゃくり上げていた。しゃくり上げながら「だって」と言っていた。


「だって、だって、ベティ。おかーさんも、アンジュおねーちゃんもきずつけた、もん。ベティはわるいこなんだもん。だから、だから」


 涙をぽろぽろと零しながら謝るベティちゃんは、不謹慎ではあったけれどすごくかわいかった。


 私は目一杯の笑顔を浮かべて言いました。


「ベティちゃんは悪い子じゃないよ?」


 私はベティちゃんの頭を痛む右腕でどうにか撫でてあげました。その際、ベティちゃんは一瞬体をびくりと震わせていましたが、頭を撫でられたことでより落ちついてくれたみたいでした。それでもベティちゃんは自責の念に駆られていた。


「……ううん。ベティはわるいこなの。わるいこだから、おかーさんにもアンジュおねーちゃんにもきらわれて」


「そんなわけないよ? 私もルクレティア陛下も、ベティちゃんを嫌っていない」


「でも、ベティは、ベティ、は」


「……娘にじゃれつかれて嫌がるわけがないじゃない。おバカさんだね、ベティは」


「……え?」


 嫌っていないと言っても、ベティちゃんは自身を責めていた。


 そんなベティちゃんになにを言えばいいか、すぐにはわからなかった。


 わからなかったけれど、私は最終的にベティちゃんを、いえ、ベティを初めて娘と呼びました。あと、初めて呼び捨てもしました。


 正直やりすぎかなぁとか、またルクレティア陛下に敵意向けられるだろうなぁと思ったけど、そんなことは些事だった。


 大事なのは、泣きじゃくる娘を落ちつかせるということだけでした。


「……ベティが、むすめ? アンジュおねーちゃんの?」


「そうだよ。だって、プロキオンちゃんはベティと同じ、レンさんの、おとーさんの娘でしょう?」


「……うん」


「そのプロキオンちゃんとベティは姉妹。そしてプロキオンちゃんは私の娘。なら、ベティも私の娘じゃない」


「ね?」と笑いかけてあげると、ベティちゃんは戸惑いながらも「でも、ベティ、おかーさんいるもん」と言ってくれました。


 本当にベティちゃんはルクレティア陛下が大好きなんだなぁと思うと、羨ましい反面、とても微笑ましく思えました。


「そうだね。でも、「おかーさん」はいるけれど、「ママ」がいてもいいと思わない?」


「……ママ?」


「うん。ルクレティア陛下と同じ「おかーさん」じゃなく、私は「ママ」になりたいなぁ。ダメかな?」


 じっとベティを見やると、ベティは恐る恐ると「ママ」と呼んでくれました。


 だから「なぁに?」って返事をしてあげると、ベティは言いました。


「……ごめんね。いたかったよね」


 そう謝ってくれたのです。


 気にしなくていいと言ったのになぁと思いつつも、気にしてしまうベティの頬にそっとキスをしてあげました。


「……ちっとも痛くないよ。だから気にしないで。ね?」


「……嘘つきさんなの」


「んー? どうかなぁ?」


「でも、ありがとうなの、ママ」


 ベティはそう言って、私の首筋に顔を埋めてしまいました。


 泣き疲れたというのもあったのか、顔を埋めてすぐにベティは眠ってしまったんです。そんなベティをどうにか抱っこしながら、私は近くにあったこの針葉樹の幹に背を預けて腰を下ろしたんです。


 その間に砲撃の音は止まっていた。


 でも、戦が終わったというわけではなく、一時的に止まっているというだけのこと。


 現状がどうなっているのまでは、わからないけれど、少なくとも私が知っている限りは、叛乱軍側は最初の交戦で大打撃を与えらていた。


 本来なら戦線維持なんてできる状況ではなくなっているそうだけど、それでも相手側は退くつもりはなかった。


 ルクレティア陛下たちは、機を待っているのだろうと仰っていたけど、どうやらレンさんの不安が的中してしまったみたいだ。


 艦隊戦だけでは終わるわけがない。


 レンさんはそう言って、「巨獣殿」の守護に回られました。


 艦隊戦で終われば、ただの取り越し苦労になったのだけど、どうやら取り越し苦労で終わることはないみたいです。


 つい先ほど、砲撃とは違う轟音がいくつも鳴り響いていました。


 その轟音を伴って黒い無数の雷も降り注いでいたんです。


 最初はなんだろうと思っていましたが、状況的に考えたらレンさんであることは間違いない。


 つまりは、レンさんが放った攻撃ということ。すなわち、レンさんの想定が当たってしまったということでした。


 レンさんのそばには、プロキオンちゃんもいる。


 ベティのお姉ちゃんにして、私のもうひとりのかわいい娘がいる。


 心配で仕方がないけれど、今回にかぎってはあの子自身が志願したこと。


 そしてちゃんと帰ってくると約束してくれた。


 なら私ができることは、ママとしてあの子の帰りを待つこと。そして帰ってきたあの子を抱きしめて一杯キスしてあげることです。たぶん、恥ずかしがるだろうけれど、それでもたくさん頑張ったであろう愛娘を報いるためには──。


「……まさか、人がいるとは想定外ですねぇ」


 ──やるべきだと思っていた。そのとき。


 不意に声が聞こえたんです。


 慌てて振り返ると、そこにはあの日、霊山の山頂で見たあの剣士の女性がいた。


「あら? それもよく見ると、あなたはあのときの子ですね。旦那様に抱きかかえられていた子じゃないですか。……ただ、あのときとは違って、すっかりと女の顔をしていますね? 旦那様のものになった女の顔を、ね」


 剣士の女性が笑い、そしてふっとその姿が掻き消えた。


 どこにと思っていると、首筋に刃が添えられてしまっていました。


「……抵抗しないでくださいね? 私もカルディアさんの妹御を殺したくありませんから。しかし、旦那様も罪な方です。カルディアさんの代わりにあの人の妹を抱くなんてね。本当に罪作りな方。でも、そこも素敵です。ねぇ、そう思いませんか? アンジュ・フォン・アルスベリア様?」


 くすくすと笑う声が背後から聞こえてくる。その声は穏やかではあるけれど、強制力しか感じえなかった。


「さて。とりあえず、ベヒモス様のところまでご案内いただけます? あの方に手前は用がございますゆえ」


 女性剣士の言葉に私はただ頷くことしかできませんでした。


 事実上、私は人質になってしまったのでした。


 どうなってしまうのだろう。


 そんなことを考えながら、私は女性剣士の言われるがままに、ベヒモス様のおられる作戦本部に戻るのでした。

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