rev4-55 ねぇ、シリウス
『──これはね、あなたのためなの。あなたのために、まま上はこんなしたくないことをしているんだよ? すべてはシリウスちゃんが「いい子」になるためなんだよ』
あぁ、聞こえてくる。
思い出したくない声が聞こえてくる。
正確に言うと、声というわけじゃない。
嫌っているわけじゃない。
嫌いだったのは、まま上に殴られたり、蹴られたりすることだった。
誰だって、暴力を振るわれるのは嫌いだ。
同じように暴力を振るうのは嫌いだ。
だから、できる限り、そうならないようにしたい。
したいけれど、いまはそれを言うのは許されない。
存亡の瀬戸際に、この国はある。
もっともルクレティアさんがいるから、水上戦ではなんの問題もない。
問題があるとすれば、いま私たちがいる地上。
まま上との戦いだけ。
あの国にいた頃、ルシフェニアにいた頃は、まま上と戦うことになるなんて考えてもいなかった。
あの頃の私が考えることは、ひとつだけ。
「どうしたら、まま上は私をぎゅっとしてくれるのかな」ってこと。
当時の私は体が大きくても、精神は幼かった。
ううん、そういう風に調整されてしまっていた。
それがまま上は気に入らなかったのかもしれない。
それだけじゃない。
まま上は、私がアンデッドであること自体が気に入らなかったんだと思う。
本物のシリウスを模して造られたのに、本物のシリウスがなりえなかったアンデッドだった私が、まま上は気に入らなかったんだ。
いまならそれがはっきりとわかる。
だって、まま上は私を痛めつけるとき、いつも言っていた。「これはあなたのためなの」と。
「あなたが「いい子」になるために必要なことなの」とも。
そう言って私に暴行していた。
普通に考えれば、「いい子」になるために暴行するというのは意味のわからないことだ。
というか、暴行を受けることでなれる「いい子」ってなんだよって思う。
でも、当時の私にとってはそれが当たり前だった。
大好きなまま上は絶対的に正しい。
なら、まま上のすることも言うことも全部正しい。
だから、殴られるのも蹴られるのもすべて私を「いい子」にするために必要なことなんだって思い込んでいた。
いや、思い込まされていたのかもしれない。
地下書庫の蔵書を読み進めて知ったことなのだけど、「暗示」というものがある。
簡単に言えば、対象者を思うがままにさせることらしい。
一種の催眠状態というものにさせること。
そのためには、刷り込みとキーワードが必要みたい。
いま私が読み進めている蔵書群は、最初の地理学から魔法学に移っている。その魔法学のひとつに催眠系の魔法についての記述があった。その中に「暗示」はあったんだ。
暗示を掛けられ、催眠状態の人は、術者を全面的に支持する狂信者そのものになっていくとあった。
その記述を読み、私が真っ先に思ったのは、「少し前までの私そのもの」だってこと。
まま上のすることや言うことはすべて正しいと思い込んでいた。
殴られるの蹴られるのもすべて正しいことだと思っていた。
……知らない男の人に嬲られることもまた。
思い出したくないことだし、いまの私にとっては前世とも言えることだけど、冷静になって振り返ってみると、すべてに共通点があった。
それはまま上の言葉だ。
あの人はいつも「これはあなたのためなの」と言っていた。
「これはあなたのためなの」と言って、私を痛めつけていた。
男の人に嬲られるときも、そうなる前に私にそう言いつけてから、私を男の人が待っている部屋に蹴り込んでいた。
それを言われるまでは、嫌なことだったのに、不思議とそれを言われると、まま上の言うことを聞かなきゃいけないと思っていた。
そしてそのときは必ず、まま上の顔がよく見えなくなっていたし、どうしてかまま上の言葉が二重に聞こえていた。
いつもはちゃんと見えるし、二重に声が聞こえることなんてないのに、あの言葉を言われると、いつもそうなった。
こうして考えてみても、やっぱりあれは暗示を掛けられていたんだと思う。
暗示を掛けられて強制的に言うことを聞かされていたんだ。
そこまで理解したとき、不意に当時の光景が蘇った。
まま上が私を痛めつけていたときのことだ。
まま上は、あの人はたしかに言っていた。
『はぁ、本当になんでこんな出来損ないができるのかなぁ? 私は「私の言うことをちゃんと聞いてくれるシリウスちゃん」が欲しかったのに。言うことは聞くけど、こんな図体がでかいだけのグズなんていらないのになぁ。まぁ、いいか。ストレス解消の玩具にすればいいし。というわけだから、おまえは私の玩具だからね? 出来損ないちゃん』
私を「シリウス」と呼ばずに、出来損ないと呼びながら楽しそうにしていた。楽しそうに私を痛めつけていた。あの言葉を言われたときは、まま上は辛そうに泣いているように私には思えていたのに。私を愛しているからこそ、こんなことをしていると言っているように聞こえていたのに、……実際は真逆だった。
『うっわぁ。獣に犯されているのに笑っているよ、あれ。気持ち悪いなぁ。「まま上、まま上」ってうわごとみたいに呼んでくるけど、気色悪いなぁ。さっさと壊れるかか、獣どもに孕まされたりしないかなぁ? そうしたら躊躇なく処分できるのになぁ」
男の人に嬲られているときも、私にはまま上は泣きながら私に「頑張って」と言っているように見えていたし、聞こえていたんだ。でも、実際はやっぱり違っていた。あの人は笑っていた。まるで喜劇を見るかのように、おかしそうに笑っていたんだ。私が酷い目に遭うことがこれ以上とない娯楽であるかのように。
『はぁ、そろそろ死んでくれない? ねぇ、聞いている? おまえには飽きたって言っているの。さっさと死ねよ。「まま上、まま上」っていい加減うざったいの。おまえにそう呼ばれてもちっとも嬉しくないの。せっかくシリウスちゃんの記憶をあげたのに、アンデッドなんかになりやがって。ねぇ、知っている? おまえみたいなのをね、生ゴミって言うんだよ? 腐りきった生ゴミ。おまえにぴったりだねぇ、あはははは!』
私を痛めつけることに飽きた頃、私がルシフェニアから離れる少し前、あの人は私を炒めきった後に、そう言って唾を吐いていた。唾を吐きかけられたのに、私にはそれがあの人の涙だと思っていた。実際は唾を吐きかけられてから、顔を何度も踏まれていた。口の中は血の味しかしなかった。涙の味なんてしなかったのに。
それもすべては、私が暗示を掛けられ、催眠状態にあったから。……私が造られた存在だったから。
でも、いまの私は違う。いまの私は「出来損ないのシリウス」じゃない。
いまの私は──。
「プロキオン、行くぞ」
「うん、パパ」
──いまの私はプロキオン。
シリウスの双子の妹、ということらしい。
あくまでもパパが言うにはだけど。
でも、逆に言えば、パパは私がシリウスの双子の妹として認めてくれたってことだ。出来損ないなんかじゃなく、シリウスと限りなく似た別の存在だと認めてくれたってこと。私を娘として愛してくれているということ。
それはパパだけじゃない。ママも、アンジュママも同じだ。
アンジュママは私を愛してくれている。私が出来損ないのシリウスだった頃から私を愛してくれた。穢れたアンデッドでしかない私なんかを心の底から愛してくれていた。
まま上とは、この女とは違って。
そう、私はパパとママのところに来て、初めて愛されるということを知った。
血の繋がりはない。
それでもふたりが私を心の底から愛してくれていることを知っている。
ルクレティアさんは、アンジュママを出し抜こうと私にあれこれと気を遣ってくれているけれど、いまのところ「ママ」と呼ぶつもりはない。呼ぶつもりはないけれど、あの人はあの人で私を愛そうとしてくれていることも知っている。
本音を言えば、ルクレティアさんも「ママ」って呼んであげたい。でも、そうするとアンジュママが拗ねてしまいそうな気がするから、いまはまだ呼ばない。もうちょっとしたら、ふたりが仲良しさんになったら呼んであげようと思う。……かなり難しいとは思うけども。
ふたりともパパのことが大好きなのは知っているし、パパのことが大好きだからこそ喧嘩をしているのも知っている。
それでも、私は仲良くしてほしいと思う。私はアンジュママもルクレティアさんも好きだから。優しい匂いがするふたりが私は好き。だからこそ、仲良くして欲しいと思う。
そのためには、目の前の女をどうにかしないといけない。
いまこうして対峙してよくわかる。
この女は破滅しか呼ばない。
パパを傷付けることしか、この女にはできない。
もしかしたら、それがこの女にとって愛情表現なのかもしれない。余りに歪んでいる。歪みすぎて元の形がわからないくらいに、この女の気持ちは歪んでしまっている。
それはひどく悍ましくもあり、同時に哀れでもある。
いまだから言えることだ。
少し前の私であったら決して言えなかったことであり、抱けなかった気持ちだ。
私はこの女に憎悪している。その一方で母親として愛してもいる。
それはきっとパパも同じなんだと思う。
露わになった右目は、私と同じ紅い瞳からは深い憎悪があり、憤怒があり、そしてわずかな愛情が込められていた。
それを人は愛憎って言うらしい。
私もパパもこの女に対して愛憎を抱いている。
そのことをこの女は理解できないようだ。
いや、理解する機能がなくなってしまっているのかもしれない。
もしくは、あらかじめ削られてしまっているのかもしれない。
私が刷り込まれて調整されていたように、この女もまた感情の一部を調整されているのかもしれない。そういう風に造り出されているのかもしれない。……本当に哀れだと思う。私も私の中の彼女もそう思ってしまっている。
(……会ったこともないけれど、あえて言うよ。君の分まで、君の願いの分まで私が背負うよ。私と君にとっての最初の「ママ」を楽にさせる。それが私と君の願いだもんね。そうでしょう、シリウス)
記憶を与えられたからだろうか。
いまの私になって、ようやく気付いたことなのだけど、私の中にはもうひとりの私がいる。
語りかけてくることはおろか、意思さえもない。
でも、私とは異なる感情を持った別人がたしかにいる。
その別人が誰なのかはすぐにわかった。
私の大元になった、この女が溺愛し、パパにとって最初の娘だったシリウスだということはすぐに理解できた。
パパが言うには私の双子の姉。ほぼ同一の存在だからこそ、双子とパパは言ってくれた。その双子の姉が私の中にはたしかに存在している。
正直、「お姉ちゃん」って呼ぶ気はない。
ほぼ同一の存在をどうしたら姉と認めることができるというのか。
本人がいたら、「お姉ちゃんって呼べ」って言い出しそうだけど。
でも、私はシリウスになんて言われようと、シリウスを「姉」と言う気はない。シリウスはシリウスなのだから、「シリウス」と呼んでなにがおかしいっていうのか。
会うことはできないかもしれないけど、いつか会ったら、真っ先に言ってやろうと思う。「絶対に君をお姉ちゃんなんて呼んであげないからね」ってね。
たぶん、取っ組み合いの喧嘩になりそうな気がする。
そのときはアンジュママやルクレティアさん、それにパパが止めてくれると思う。
それでも私は自分の意思を曲げるつもりはない。
だって、私はパパの娘だから。
諦めることを諦めた人の娘。
シリウスと同じ、パパの愛娘だ。
だから、絶対にシリウスをお姉ちゃんなんて呼んであげないもの。
そのためには、ここを切り抜けなきゃいけない。
切り抜けて明日を手に入れなきゃいけない。
そのためにも──。
(最初の「ママ」を助けてあげるためにも、力を貸して、シリウス)
──シリウス、君の力を私に貸して。
パパに渡されたナイフとその鞘を両手に持ちながら、私はゆっくりと構えた。
目の前には、かつて「まま上」と呼び慕ったあの女がいる。
あの女は困惑しながらも、悍ましい笑みを浮かべている。
その笑みに胸の奥が痛む。
この痛みはシリウスのものなのか、それとも私のものなのか、よくわからなかった。
それでも、いまは。
そう、いまはただ、この女を、この人を解放してあげることだけを考えていたい。
歪みに歪みきったこの人を、その歪みから解放すること。
それが私が、いや、私たちがこの人にできる唯一のことだと思うから。
(行こう、シリウス)
心の中でシリウスに呼びかける。
返事はない。
あるはずがない。
それでも、なにかしらの感情がゆらりと点るのがわかった。
その感情に突き動かされるようにして、私は一気に地面を駆け抜けた。
いまはいない、会ったこともないシリウスの分まで。
かつて愛したママを、助けるために。
私たちは風になった。
愛憎と悲哀。そのふたつを抱いて私たちは風になったんだ。




