rev4-48 解放と再誕
それは突然聞こえてきた。
「これはっ!?」
どこからともなく聞こえてきた調べ。
その調べはとても心地よくて気持ちよかった。
いつか、どこかで聞いたことがある歌。
子供の頃、いや、それよりもはるかに前に聞いた歌。
具体的にいつなのかはわからない。
わからないけれど、この歌を聞いていると、不思議と体が弛緩していく。
ゆったりとしている状況ではないってわかっているのに、体から緊張が解けて自然体へと戻っていく。
そうなったのは、俺だけじゃない。イリアやアリシア陛下もその歌声の前に、ぼんやりと遠くを眺めるように目を細めていた。
そんな弛緩した空気の中、驚きの声をあげたのは、ベヒモス様だった。
ぼんやりとした思考の中で、ベヒモス様を見やると、ベヒモス様は目を見開いて調べが聞こえてくる方向を見やっていた。見れば、ルリもいつのまにか同じように同じ方向を見つめている。
ただ、ふたりの反応は異なっていた。
ベヒモス様は「信じられない」と言わんばかりに目を見開き、その顔にも同じ言葉を書いているようだった。
対して、ルリは涙ぐんでいた。ルリが涙ぐむところを見るのはなんてほとんど見たことがなかった。
いつもルリは気丈だった。
どんなときがあっても、気丈に振る舞い、決して泣くことはなかった。
唯一あるとすれば、カティのことを語るときくらいか。
でも、カティのことを話すときも、いまにも泣きそうなほどに弱々しい顔をするだけで、実際に泣くわけではなかった。
それでも、あと一押しあれば涙目になるだろうなというほどに、カティについての想いを口にするとき、ルリはいつも傷つききった顔をしていた。
だけど、いまはカティの思い出に浸っているわけではない。
なのに、ルリは涙ぐんでいた。
涙ぐみながら、聞こえてくる歌に耳を傾けている。
どう声を懸ければいいのかわからずに、戸惑っていたそのとき。
「おとーさん!」
作戦本部の扉が勢いよく開いた。
見れば、ベティがいままで見たことがないくらいに焦った顔をしていた。
「ベティ? どうしたんだ?」
いつもとあまりに異なるベティに、どうしたんだろうと思いながら声を懸けると、ベティもルリ同様に涙ぐみながら俺に飛びついてきた。
いきなりだったし、椅子に座っていたことも合わさってかなり体勢が崩れてしまったけれど、背中から倒れることはなかった。
が、かなり危なかったのは言うまでもない。
いきなりなにをするんだと、いつもなら怒るところなのだけど、ベティは俺の腕の中で体を震わせていた。体を震わせて泣きじゃくっていた。うわごとのように「おねえちゃんが、おねえちゃんが」と言いながら。
「……ベティ。プロキオンは?」
ベティの泣きじゃくる姿と「おねえちゃんが」という言葉で、胸騒ぎがした。でも、その衝動に任せることなく、どうにか冷静を保ちながら尋ねると、ベティは涙目になって俺を見上げながら言った。
「おねえちゃんが、たおれちゃったの。たおれて、つらそうにしているの。ベティ、なんとかしてあげたかったの。でも、どうすることもできないの。おねがい、おとーさん、おねえちゃんをたすけて!」
ベティが口にした一言に真っ先に反応したのは、ベヒモス様だった。
「いかん! 神子様、あの子の元へお早く!」
「ですが、いったいなんで」
「この歌の効果です! これは「初源の歌」と言われる、最上級、いえ、究極とも言える浄化の歌です。高位のアンデッドとて、ひとたまりもないほどの特攻攻撃とも言えるものです」
「究極の、アンデッド、特攻」
聞こえてきた言葉に愕然とした。
アンデッドに浄化系の攻撃が特攻効果があるのは、この世界でもゲームでも同じだ。その浄化の究極系がこの歌。そしてプロキオンはアンデッド。この歌と最悪に相性が悪い。いや、下手すれば。
冷静に考えられたのはそこまでだった。
俺は慌てて立ちあがると、ベティに「どこだ!?」と叫んでいた。
ベティは「こっちなの!」と言って、俺の腕の中から飛び降りて、一足先に駆けていく。その後を俺は全力で追った。途中でファラン少佐がなにやら言っていた気がしたけど、無視した。いまはそんなことを気にしている場合じゃなかった。
頭の中ではプロキオンのことで一杯になっていた。
アルトリアから迫害を受けながらも、アルトリアに愛してもらおうと、褒めてもらおうと必死になっていたプロキオン。
その環境からどうにか抜け出させることができたけれど、俺はまだあの子を幸せにできていない。
あの子はいま産まれてから一番幸せな時間を噛み締めているだろうけれど、そんなものじゃまだ足りない。
もっと、もっとあの子は幸せになるべきだ。
いまよりももっと、もっと幸せにならなきゃいけない。
苦労した分、涙を流した分、傷ついた分だけ、あの子は幸せにならなきゃいけない。あの子を幸せにしてあげなきゃいけない。
だから、こんなところであの子を喪いたくない。
俺はまだあの子を幸せにしてあげていない。
それになによりも、俺はもう二度と娘を、家族を喪いたくないんだ。
だから、だから。
「プロキオン!」
無事でいてほしい。
そう願いながら、ベティの案内でたどり着いた部屋の中では、汗を搔き、いまにも聞こえなくなりそうなほどにか細い呼吸を繰り返すプロキオンがいた。
「プロキオン、しっかりしろ!」
部屋の中で倒れているプロキオンを抱きかかえると、プロキオンは薄くまぶたを開いた。同時に口元が露わになる。白骨化した口元が、プロキオンがアンデッドであるというなによりもの証拠が露わになった。
「プロキオン、聞こえているか、プロキオン」
「……ぱぱ、うえ」
ぽつりと俺を呼ぶ声が聞こえた。
まだ言葉を喋ることはできるようだけど、その声は虫の羽音のようにとてもか細い。いまにも途切れてしまいそうなほどに弱々しい。
「ぱぱうえ」
「なんだ?」
「……わたし、しあわせ、だよ」
腕の中でプロキオンが笑っていた。
骨の口元が歪む。それがプロキオンなりの笑顔であることはわかっている。その頬骨を撫でると、プロキオンは嬉しそうに笑っていた。
「ままうえは、わたしを、あいしてくれなかった。でも、ぱぱうえとままが私をいっぱい、いっぱいあいしてくれた。……偽物の、シリウスでしかない私を」
「……なにを、言っているんだ?」
言葉が詰まった。
偽物のシリウス。
それは事実だった。
プロキオンは、シリウスを元に造られたホムンクルスだけど、アンデッド化してしまった存在。アルトリアたちが言うには「失敗作」の烙印を押された存在だった。
だけど、それはプロキオンは知らないはずだ。
その知らないはずのことを、なんでプロキオンが知っているのか。
この歌といい、プロキオンが倒れたことといい、気が気でなくなってしまっていたから、不意を衝かれてしまった。
いつもならあっさりと受け流せるのに、いまだけはそれができなかった。
だから、それは当然だったのかもしれない。
「……そっか。やっぱり、私は本物のシリウスじゃないんだ」
プロキオンが納得したかのように頷いた。
ようやく引っかけられたのだというのに気づいた。
でも、もう手遅れだった。
「ち、違う! 違うんだ、プロキ、いや、シリウス!」
とっさにシリウスと慌てて呼び直したものの、プロキオンは小さく頭を振っていた。
「ううん、いいよ。嘘を吐かなくてもいいの。全部わかっているから」
プロキオンが笑う。
その笑顔は、あの日の、朝焼けをともに見たときのプーレのそれと重なって見えた。
「……考えてみれば、当たり前だったんだ。私は、「シリウス」の記憶を持っているけれど、鮮明じゃなかった。虫食いだらけの記憶しかない。ぱぱ上のことも、ほかのままたちのこともわからなかった。姿はわかるのに、顔だけがわからなかった。顔だけが真っ白になっていた」
ぽつりぽつりと呟くプロキオン。
その言葉になんて言えばいいのか。どう応えてあげればいいのか。まるでわからなかった。なにも言えない俺を尻目にプロキオンは続けていく。
「それになによりもね。「シリウス」の記憶だと、まま上は「シリウス」を殴ったり、蹴ったりしなかった。いっぱい、いっぱい愛してくれていた。「シリウス」がうんざりするくらいに愛してくれていたの。わたしと、違って」
プロキオンの目尻から涙が零れた。
涙は拭っても拭っても溢れていく。
それでも俺は必死になって涙を拭ってあげた。
娘の涙を見たくなかった。ただそれだけだった。
それだけだったのに、プロキオンは「……ありがとう、ぱぱ上」とお礼を言ってくれた。お礼を言われることじゃない。当たり前のことだ。その当たり前のことでも、プロキオンにとっては特別なことなんだ。
「……シリウス」
「……ううん、違うよ、ぱぱ上。私はプロキオン。「シリウス」じゃない。「シリウス」になれなかった出来損ないで」
「違う!」
思っていた以上に声が大きかったようで、プロキオンはもちろん、ベティさえも驚くほどだった。
それでも俺は続けていた。
「君は出来損ないなんかじゃない! 「シリウス」になれなかったからと言って、君が出来損ないというわけじゃない! そもそも当たり前のことだろう!」
「あたりまえ?」
「そうだ! 「シリウス」になれるのは、シリウスだけだ! そしてシリウスは君にはなれない。君になれるのは君だけだ。だから、君は君でいいんだ。決して出来損ないなんかじゃない。君は君でれっきとしたひとりの存在だ。俺の、娘のひとりなんだ」
そう言ってプロキオンを抱きしめると、プロキオンが息を呑む声が聞こえた。それから「ははは」と笑っていた。
「嬉しい。嬉しいなぁ。私も、ぱぱうえの、神子様の娘にしてくれるんだぁ」
「こら、バカ娘。なにが神子様だ? ちゃんとぱぱ上って言いなさい」
叱りながら声が震えていく。
腕の中でプロキオンの体が少しずつ軽くなっていくのがわかったからだ。
視界の端に砂のようなものが飛び散りはじめていた。それがなんであるのかなんて考えるまでもない。
それでも俺は必死になってプロキオンを抱きしめた。
絶対に離さない。
手放さない。
そう決意しながら。
でも、その決意を嘲笑うようにして、砂はより舞い散っていく。
「……あはは、初めてだ」
「うん?」
「初めて、ぱぱ上に、叱られちゃった。叱られちゃったのに、どうしてだろう? 叱られるのは嫌いだったのに、いまはすごく、すごく嬉しいなぁ」
プロキオンの体から力が抜けていく。
その度に強く強くプロキオンを抱きしめていく。
「……ぱぱ上、いたいよ」
「ごめん、ごめんな。でも」
「……ううん、いいよ。ぱぱ上は泣き虫さんだもんね。娘としてはとーぜんなの」
ふふんと自慢げに笑うプロキオン。
その声に、その言葉にシリウスの姿が不思議と重なった。
「……逝かないでくれ、プロキオン」
「……ごめんね。ぱぱ上」
「謝らないでくれ。頼むから、頼むから生きていたいと言って。俺と一緒に生きていたいって。このままずっと一緒にいるって、言ってくれ」
涙が零れる。
涙を拭うことはできなかった。
プロキオンの体はどんどんと軽くなっていく。
いまどうなっているのかはわからないし、見たくなかった。
ただ祈った。
祈り続けた。
俺から娘を奪わないで欲しいと。
そう願った。
誰にでもない。
この世界にはくそったれな邪神しかいない。
それでも祈ることしか俺にはできなかった。
その祈りに反してプロキオンの体は──。
「ダメだよ、シリウスちゃん」
──軽くなっていた、そのときだった。
不意にあの歌が止んだと思ったら、すぐそばからアンジュの声が聞こえてきた。
振り返ると、すぐそばにアンジュが立っていた。
いままでとはまるで雰囲気の違うアンジュが。
神聖という言葉が似合うほどに、いままでは隔絶した雰囲気を纏ったアンジュがいた。
「アン、ジュ?」
恐る恐ると声を懸けると、アンジュは「……いまは時間がないので、ごめんなさい」と言うといきなり俺に顔を近づけてきた。
「え」と唖然している間に、アンジュとの距離はゼロになった。軽やかな音とともに、唇の端にかすかな痛みが走る。
それからすぐにアンジュは距離を離した。彼女の唇には血が付着していた。その血を親指の腹でそっと拭うと、アンジュはプロキオンの額に線を描くと──。
「あなたを逝かせなんてしないから。あなたはレンさんにとってだけじゃない。私にとっても大切な娘なんだから」
──そう囁きかけながら、まぶたを閉じた。
「……悲しき子よ。悲しき宿命の楔に囚われし我が愛し子よ。さぁ、ともに生きましょう。ともに歩みましょう。ともに笑い合いましょう。あなたはいまを以て新しく生まれ変わるのです。さぁ、手を取って。宿命の楔から、あなたを「解放」します」
アンジュが口ずさんだのは祝詞らしきなにかだった。
その祝詞を聞いて、プロキオンは自然にアンジュに手を伸ばした。その手をアンジュが掴んだとたん、プロキオンの体が白い炎に包まれた。
プロキオンと叫ぶも、アンジュが「大丈夫ですよ」と笑いかけてくれた。
なにが大丈夫なのか理解できなかった。
でも、それを言う前にプロキオンの変化は一気に訪れた。
プロキオンの体が一気に縮んでいく。
いままで20歳くらいの見た目だったのに、その体はみるみるうちに幼くなっていき、10歳くらいの見た目になったとき、その身を包んでいた炎は不意に消えた。
「……がぅ?」
プロキオンがいつものように鳴いた。
見た目の年齢が半分くらいになったけれど、それ以上の変化があった。
それは口元だった。少し前まで白骨化していた口元が、露わになっていた骨が見えなくなった。ちゃんとした肌が見えた。
プロキオンはぺたぺたと自分の頬や口元を撫でながら信じられない顔をしていた。でも、ある程度確かめると、プロキオンはこてんと首を傾げながら言った。
「……私、アンデッドじゃなくなったみたい?」
小首を傾げながら、とんでもないことを口走るプロキオン。
アンジュを見やると得意げに笑っていた。
「うん。アンデットから解放したからね。あなたはもう普通の狼の魔物になったんだよ、シリウ、ううん、プロキオンちゃん」
アンジュがいつものように「シリウス」と呼びかけ、改めて「プロキオン」と呼び直した。
いままではアンジュは「シリウス」とプロキオンを呼んでいた。でも、いま呼び直したのは、プロキオンが「シリウス」の変わりじゃなくなったということ。プロキオンとして新しく生まれ変わったのだということを伝えるためなんだろう。
プロキオンもそのことを理解したのか。頬を赤らめながらも、「うん、ママ」といままでとは違う、舌っ足らずではない言い方でアンジュを呼んだ。そして──。
「……あの、その、ね。お別れするつもりだったんだけど、まだ一緒にいていい? パパ?」
──両手の人差し指を突き合わせながら、恐る恐ると俺を「ぱぱ上」ではなく、「パパ」と呼んでくれた。
「……当たり前だろう? バカ娘」
プロキオンの問いかけに俺は抱擁で返した。
その抱擁にプロキオンは「がぅ、ありがとう」とお礼を言ってくれた。
少し前までとはまるで違う。
体の大きさも、しゃべり方も、雰囲気も違う。
でも、腕の中のぬくもりだけはなにも変わっていない。俺の娘の、プロキオンのままだった。
「……これからもよろしくな、プロキオン」
「……うん、お願いします、パパ」
プロキオンは笑った。
その笑顔に俺もまたつられて笑顔を浮かべたんだ。




