rev4-24 迷えるアスラン
ベヒモス様の死。
それはご本人自身が受け入れてしまっているもの。
だから、他人がどうこう言ってもどうしようもない問題でした。
その問題を改めて突き付けられた私たちでしたが、そこにひとつの疑問が浮上したのです。
それはルクレティア陛下が口になさった「ベヒモス様の死後、神獣様が減られてしまうのか」ということ。
公表する予定もないことではありますが、すでに神獣様はおひとり、リヴァイアサン様の席がなくなってしまっています。
とはいえ、その穴埋めとしてルクレティア陛下とプーレリア陛下が次代の「リヴァイアサン」となることは決定しています。あくまでも、神獣としではなく、「海王リヴァイアサン」としてですが。
神獣という存在ではいなくなってしまっているものの、「リヴァイアサン」という存在であれば受け継がれてはいるのです。
ですが、ベヒモス様の場合はどうなのか。
いまのところ、ベヒモス様からは後継者の話は出ていない。
すなわち、神獣としても「ベヒモス」としても、後継がいないということなのではないかとルクレティア陛下は仰っているわけです。
その疑問は、いままで出ない方がおかしかったものでした。
それだけベヒモス様がご自身の死を受け入れているという事実が、あまりにも衝撃的すぎたということなのかもしれません。
「そうか。そういえば、まだその話をしておらなんだな」
ルクレティア陛下の疑問に、ベヒモス様は穏やかに笑われていました。笑いながら、その視線はゆっくりとそばに控えられているアスランさんへと向けられていた。
「まだ正式に決まったわけではない。だが、我としてはすでに後継は決めている」
アスランさんをじっと眺めながらベヒモス様は言いました。その視線とその言葉だけで、ベヒモス様の仰る「後継」が誰のことなのかは明か。
ですが、アスランさんは静かに首を振りました。
「……我が主。何度も申し上げておりますが」
「それでも、そなたしかおらぬ。どれだけ考えても、そなた以外にはおらぬのだ」
「……ですが、私は」
「よい。好きなだけ考え、悩むといい。そのうえで決断してくれればいい」
「……はい」
アスランさんとベヒモス様。おふたりの話は主語が一切ありませんでした。ですが、主語は一切なかったとしても、その内容がどういうものであるのかは考えるまでもないことでした。
「なるほど。アスラン様ですか」
わざわざ口にするほどのないことでしたが、ルクレティア陛下はあえてなのでしょう。アスランさんが後継者だと言われました。少々意地が悪いような気もしますが、それも無理もないこと。
特に同じ神獣様のお膝元の国主としては、他人事の一言で片づけられるものじゃないのでしょう。
ルクレティア陛下は、アスランさんに自覚を芽生えさせようとして、あえて口にされたのでしょう。
「ルクレティアや。あまり虐めないでくれ。アスランとて事情があるのだ」
「……ひとりひとりに事情があるのは、私としても重々承知しております。ですが、私も一時的に離れているとはいえ、一国の王。しかもこの国と同じく神獣様の庇護下にある国の王です。その庇護から離れることがどういう意味を持つのかを、この場の誰よりも理解しているのです。ゆえに、いくらベヒモス様のお言葉とはいえ、簡単に頷くことはできませぬ」
ベヒモス様もルクレティア陛下のお気持ちを理解されているのでしょうが、心情的にはアスランさん寄りであるために、ルクレティア陛下を諫めようとされましたが、その言葉を受けてもルクレティア陛下は首を振られるだけでした。
ルクレティア陛下にとって、アスランさんの態度は決して看過できないのでしょう。神獣様の庇護から離れること。それがどういう意味であるのかは私でも少しはわかります。まず考えられるのは国際情勢における優位性が失われること。
神獣様の庇護下にあるということは、その国のバックには神獣様が、世界最強の存在の一角が控えているということ。その国に対して侵攻はもちろん、余計なちょっかいでも出せば、手痛い反撃どころか、国の存亡に関わるほどの大打撃を受けるかもしれない。ゆえに国際情勢において神獣様の庇護下にある国は常に圧倒的な優位性を誇っている。
ですが、神獣様の庇護から離れるということは、その圧倒的な優位性を失うこと。いままではその優位性により、多大な国益を得られたのが、その国益が失われることになる。それどころか、その溜め込んだ国益を奪うための侵略戦争さえ起こりかねない。
リヴァイアクスやベヒリアは大国であり、「聖大陸」における軍事国家として名を馳せていますが、もし小国のうえ軍事力もなかったら、あっというまに侵略されることでしょう。最悪は国土を失い、国そのものが消滅してもおかしくはない。
それは大国であり、軍事国家であっても同じことでしょう。どれほど大国であろうとも、多数の国での軍事同盟を組まれてしまえば、一国で対抗できるものではありません。戦争というのは数がものを言う。その数の力の前にはさしもの大国も対抗できない。
仮に対抗できたとしても、何度も行えることではありません。徐々に疲弊され、いずれは飲み込まれてしまう。つまり、破滅の道が待ち受けているということ。国王であるルクレティア陛下にとっては、決して肯んずるわけにはいかないことでした。
だからこそ、ルクレティア陛下はまるで責めるように、アスランさんを見つめているのでしょう。ルクレティア陛下の態度を理解していることからこそ、アスランさんもベヒモス様もなにも言えないでいる。
「……ルクレ。もういいだろう?」
そんなルクレティア陛下に待ったを掛けたのは、ルクレティア陛下のご亭主であり、リヴァイアクスの王配であるレンさんでした。
「国を憂う君の気持ちは十分なくらいに伝わっている。アスランさんもこの国の未来を踏まえたうえで、いまは迷っているだけだ。それはルクレもわかっているだろう?」
「……それでも言わずにはいられません」
「わかっている。それだけルクレが国を愛していることは。でも、その国もさ、王様だけじゃなんの意味もない。国は民がいてこその国だろう? 民がいない国なんて、そんなのは国でもなんでもない。そして王様は国があってこその王様だろう? 国を持たぬ王なんてそんなのは王でもなんでもない。ただの妄想癖のあるバカでしかない」
「その通りです。つまるところ、旦那様は迷える彼女もまた民のひとりであると言いたいのでしょうか?」
「さすがはルクレだな。話が早い。そう、アスランさんも民だ。いくらか特殊な立場にいるけれど、彼女もまた民であることには変わりない。その民が迷いの中にいるというのに、その迷える民を批難するのは王としてどうなんだろうと俺は思う」
レンさんの言葉にルクレティア陛下も、さしものルクレティア陛下もそれ以上の言葉を告げることはできなかったようです。王という存在がどういうものなのかは私にはわからない。けれど、ルクレティア陛下にとっての王の価値観を踏まえると、レンさんの言葉を否定することはできなかったようです。……だいぶ苦渋に満ちてはいますけども。
「……わかりました。私もいくらか感情的でした。申し訳ありません。アスラン様」
「いえ、お気になさらずに。……すべては不遜たる我が身ゆえに。この身があと少し。そう、ほんのわずかでも勇気を抱ければいいのですが、なかなか難しく」
ルクレティア陛下は一度大きく深呼吸をすると、アスランさんへと頭を下げられました。アスランさんはわずかに慌てつつも、静かに首を振りました。相変わらず、表情は一切見えない。それでも、アスランさんの言葉には深い苦悩に満ちあふれていた。
アスランさんの苦悩は、瞬く間に謁見の間に広がっていき、その苦悩に謁見の間が一段と静かになった。そのときでした。
「お頼み申します!」
不意に、外から大きな叫び声が聞こえてきたのです。
大気さえも震わせてしまうのではないかと思うほどの叫び声。
ですが、その声には聞き覚えがありました。
「ふむ。どうやらアリシアの手のものが来たようですな」
「ということは、いまの声は」
「たしか、奴が子飼いにしている軍人だったはずですな。そういえば、いまの両大臣とは血族だったかと」
「あぁ、ファラン少佐ですね。そういえば、いまの声はファラン少佐のものに似ていますし」
「あぁ、たしか、そのような名だったはずだ」
ベヒモス様にとっては、ファラン少佐もうろ覚えで記憶する程度の存在ということ。その事実に畏怖しそうになっていると、再びファラン少佐らしき怒号が響きました。
「お頼み申します! 我が君のお越しでありますゆえ! どうかお取り次ぎをお願いしたく存じ上げます!」
ファラン少佐が発した言葉。その言葉にその場にいた全員が「え?」と困惑を示しました。ファラン少佐が言う「我が君」という言葉。その言葉が意味することはただひとつだけでした。
「ほう? アリシアが直接来たか。珍しいこともある。アスラン、迎えに出てくれるか?」
「はい。仰せのままに」
アスランさんはそう言うと、ベヒモス様のおそばから離れていきました。私たちはどうするべきかと考えていると、ベヒモス様からは「アスランに任せておけばいい」と言われたため、私たちはこのままアスランさんが戻るのを待っていました。
ほどなくして、数人の足音が聞こえてきたと思ったとき──。
「突然の来訪、申し訳ありあせん。そしてお久しゅうございます、ベヒモス様」
──いつもの伝統衣裳を身につけたアリシア陛下が、ファラン少佐と数人の兵士の方を引き連れて謁見の間へとお越しなさったのでした。




